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秩序と混沌(カオス&コスモス)

自分は90年代に思春期を過ごしました。もう30年も前のことなのですねえ。1990年代といえば、CDが売れに売れた時期で、ミリオンセラー、つまり何百万枚とCDが売れる・・・。そんな時期に10代をすごしたのですね。
なのでいまでも音楽をよく聴きます。
音楽にもいろんな種類があって、ゆったりとしたリラクゼーション用のものがあったり、入眠用に設計された、ヒーリングミュージックもあります。ジャズやファンク、R&Bや、ふつうのポップスもあったり、あるいは激しいロックであったりといろいろです。

90年代の日本では、ポップスからラップ、ロックもいろんなものが百花繚乱という感じででていました。自分は今でこそ聞くジャンルが大体決まって、そんなに聞かない時期もありますが、大きな主軸となる筋は、大体決まってきましたが、若い頃はロックに強く惹きつけられて(ありがちですね)、激しい曲調や耽美的なもの、自意識過多なものを好んで聞いている感じの人でした。

音楽には非日常の楽しみ、というか、アーティストになりきるというか、自分というちっぽけな主体の枠を飛び出して、他の誰かになる感覚であったり、その自分が生み出している“セカイ”から抜け出して、脱出して、夢や幻想(いわゆる非日常)を感知させてくれるものまでいろいろあります。日常が調和に満ちたものであればあるほど、ある種の反動として、そのカオス(混沌)を見てみたくなる。そういう要素があると思います。そういうとき、音楽は、メロディによって、その方向に強く自分を引っ張っていく効果があるように思います。

90年代の日本人は、そういうのに虜というか、まあネットもなく、Windowsも95と98がでたばかりで、まだまだ“ピ・ポ・パ”と電話回線やISDNで接続していた、超低速のネットでしたから、いまのような「インフラ」になって、みんなスマホでどこでも指一つでネットの高速通信に繋がれる、そしてSNSや動画を楽しむことのできる、そして自分が“配信者にすらなれてしまう”・・・・。
そんな時代では全然なかったワケですね。
まだまだTVの力が強くって、テレビや雑誌に出ているアーティストが、特権的な位置を保っていた時代。そういう時代に生きていたので、いまのようなネットの特徴の中の特徴といっていい、双方向性(インタラクティブ)なものとは違い、一方通行の、アーティストの作品を一方的に受容するしかない、消費者の立ち位置に自分が固定されていました。片道通行しかできない一方的な作品の需要を強いられていた時代。そういう時代でした。
2000年代にはいって「IT革命」とかいって、爆発的にCS向けWindowsPCが普及し始めしばらくするまでは、そしてスマホがでてきて、いまのようなネットインフラ環境が構築されるまでは、そういうものはなかった。いまはTVがどんどん陳腐で、タレントも小粒になり、自分なんかはYouTubeばかりみていて、TVはもはやYouTube動画とサブスクのアニメ・ドラマ・映画を見るため、そしてゲームをするための機械と化している感じですが、昔はそういうことは想像もできなかった。ミュージシャンのMVをかじりつくようにしてTVで見て、歌詞も聴き取れず、ニュアンスで歌っていた。95年に少年ジャンプが最高発行部数を記録しますが、まさに黄金期といっていいラインアップで、いまのジャンプや漫画界の礎を築いたといっていい作品が山ほど“週刊連載”されていた時代でした。そういうとき、僕は、そういう作品群を夢中で模写し、学校に持って行って休み時間に友達と語り合ったりしていました。

ところがネットの台頭と共に、そういうのはまたたくまに沈静化し、いまは歌詞なんか検索すればGoogle先生が簡単に教えてくれます。わからない英語の歌詞なんかも、翻訳で見れる。マンガもアプリで読み放題、あるいはサブスクで読めるようになり、街の本屋が潰れて、国が補助金を出しています。CDはどんどん売れなくなり、街にあったTSUTAYAも、自分の住む街でもどんどんなくなっていきました。
いまやネットの時代で、そこに人も物も集まる。だからみんなネットを介し、出会ったり別れたりする。婚活もネットです。そういう時代に入り、いまや消費者はただ作品を受容するだけの人出はなくなり、いまや自らが発信する動画投稿者になった時代ですね。

そういう時代に入って、昔かじりつくように音楽アーティストのMVを見ていたころの自分は、もうどこにもいない。焦るような情動も、切迫感も、どこにもない。年を重ねて穏やかな心地になっています。昔と今とどちらが好きかと聞かれれば、間違いなく今の方が幸せだ。そう答えるでしょう。

そんなときフと、思い出すのです。昔、音楽に焦がれて、夢中で少年ジャンプを読み、好きなマンガの先生を神格化して、憧れていた日のこと。あの時代、すさまじい文化の爛熟が、まばゆいきらめきが、僕の目を奪っていったけれど、結局、周囲が盛り上がっていく中で、何もできない無力感も抱えていたのではないかと。そして自分を過度に卑下する傾向も強まり、ちっぽけで、みじめな自分だと自己否定・自己卑下もしていた。たしか周囲は、そして経済的にも日本という国は盛り上がっていたけれど、その後失われた30年に突入し盛り下がっていく中で、結局、黄金の天国にいながら、不幸を囲っていたのではなかったかと。そういう気がしてきました。

自分にとってカオス(混沌)は、一時期、そういう自分の幼かった頃の爛熟したまばゆい光のきらめきを思い出させる、一つの契機ではあっても、もうあの頃に戻りたいとは思わない。でも少しだけ、思いでの“あの頃”が懐かしくなって、あのむき出しのエロスを思い返してカタルシスを味わう。その一つの契機にすぎないと。そう思います。

やっぱり世界のことも、自分のことも分かり始めてきたこの自分を、以前よりはずっと好きになれた気がします。

カオスよりもコスモス、調和を思い出すために選択的に混沌を選択することはあっても、もう二度と、カオスを蕩尽して味わうことはない。

そう思える最近の日々の雑感がありました。

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