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趣味の向こうにあるマネタイズ

・いいものを描きつづけたい

創作が義務になってしまうと、とたんに絵が死んでしまう。今回言いたいのは、ここ。ここでいう創作というのは、今回は絵で話すけど、文章でも、ゲームに当てはめてもいい。
仕事で描くということになると、それ専門で描いている人なんかを見ると、絵(文章)は上手いし需要はあるんだけど、同人のほうがいいな。そして同人よりも、“趣味”でSNSでアップしてる絵の方が、あるいは動画の方がずっといいな、ということがある。
でも描かないといつまでたっても絵はできてこない。だから仕事にしていたり、定期連載していたりして外注の仕事がある人は強いなと思うことはある。しかし、よくよく作品を見てみると、やっぱり同人の方がよかったり、何の気なしにサラッと出したエッセイなんかのほうが、的を射ているように思う。あるいはその人が初期の頃に描いていた、情動にまかせて描いたむき出しのエロスの方がよかったりする。
それが成人向けか一般向けかによらず、そういうことが言えるような気がする。音楽でも初期(インディーズ)とか2nd、3rdのアルバムがよくて、自分はよく聞く傾向にある。成熟してくると保守的になって、無難な路線にいったり、冒険をしなくなったり、初期の頃の方向性を曲げたり、忘れたりしてそういうのを超えて、ズッと初期の頃の良さを保ったまま、続けているバンドってほとんどいない。そういうことをアートの領域、絵でも文章でも音楽でも、ゲームでも自分はよく目にしてきた。

自分はそういうのをよく目にしていた。そして自分はその希有な中に入れるようにしようとよく思ったものだ。つまり、創作を続けても新鮮さや初期のころの情動を忘れずに、高いテンションのまま描いていくことをしたい。

・思いを妨げる二つの要因

初期の頃のテンションを忘れさせるものって何があるだろうと思い、列挙してみる。

①生活的安定
②加齢

そうすると気になるのが、上の二つ。まずは生活的に安定してくると初期の頃のように、失うものが少なく、根本からわきあがってくるような思いをぶつける必要がない。あるいはそうやって獲得された金銭(マネー)が、ある種の達成感(承認欲求が満たされた)が、無難なところに自分を落ち着かせようとする。芸術は自分の本体(本心)をぶつけるものだが、本心を探しても、満たされた、穏やかなものしか見つからない。だから嘘をついているわけではなく、作品の内容的にも波が静まっていくのはある種必然とも言える。
もう一つは年齢的に年を重ねることで、肉体的に「衰え」を感じること。あるいは物理的に身体が動かなくなったり、声が出しにくくなったり、病気になったりして、若い頃のような活動が思うようにできなくなることだ。これは大きい。自分の身体や心(精神)にリミットがある、ということを感じさせられるわけだから。そこを踏み越えれば、病気のぶり返しや身体的に負荷がかかって、生命を縮めることになってしまう。
病気までいかなくても、各種の身体の手や足、ひざや腰、肩などが痛み出し、回復するのも遅くなる。歯が悪くなったり、白髪が増えたりして自分自身の無常(死)が迫っていることを直感させられる。

そうしたときに、はじめて、自分の命は永遠ではないのだ。同時にわき上がるような思いや情動は、若いとき特有のものであったのだなと思い、溜飲が下がる。瞬発力が求められる、ある種、刹那的な情動のままに出したものを、永続化させようとする。。。その試み自体が間違っていたのだと思い知らされるのだ。
そしてそこで筆を折ったり、活動自体を辞めてしまうということもあるだろう。

しかし初期の頃の思いを死なせないままで、ズッと描いている人もあるような気がする。下手に“仕事”に落ち込まず、ルーチンワーク化して惰性で描き続けるのではなく、テンションの高いまま、いいものを発表し続けている。もちろん加齢による衰えはあるが、それを加味した(ふまえた)適切な創作をしている。そういう状態にある人も少なからずいるようだ。

自分はそういうような書き手(創作者)になっていきたい。

・クソ真面目にやることが楽しさにつながるのか

そのためには何が大事かということで、考えてみたのが、表題にもある「趣味の超延長線上に、マネーとの結びつきをつくる(マネタイズできるようになる)」ということだ。

ここでいう“趣味”というのは、気持ちのことをいっている。気軽に、楽しんで、というような意味。そしてそれが確実にマネーをもたらしている。そういう状態が理想。そう言える・・・。そういう感覚がいま、自分の中にある。同人のような商業作品、あるいは趣味作品のような商業作品とでも言おうか。

商業作家になりたいわけではないから、「あの人のあれは、どうせ趣味作品でしょ」といわれることに関しては、別に何も感じない。むしろ「そう、その通りだよ」と言える。“趣味”で描いているのだ。商業にいきたいんじゃないんだよ、あなたとは違うんだよ=勘違いしないでねと。僕ならそう言うだろう。しかし、大事なのは、そういう体をとることで、結果としてクオリティの高さをもたらし、需要を喚起して、楽しく描いたものがお金になっていることだ。

目指しているのは、初期、若いときなら、そのときに描いたもののような高いテンションで作画・作文をしていくということ。そしてそれをマネタイズしていくということだ。そのために、趣味の“超”延長線上に、創作を置く・・・。そういうことになる。
そう思ったのは、最近だ。肩肘張って、クソ真面目に描いていても売れ行きはパッとしない。テンションも上がらない。
しかし、何の気なしに書いたりした文章の方に、楽しんで書いたレビュー記事とかが評価されたりしている。大事なのは、自分の気持ち=どんな気持ちで描いたかではない。「視聴者が何を思って作品を見ているか」だ。いわゆるお客さんの気持ち、テンションなのだ。そうしたら、例えば仕事をしている人が、フとクリエイターのサイトを見たくなる時ってどんなときだろうと考えてみた。

それは自由に、のびのびと、楽しく、日頃のフラストレーションを晴らすような制作をしていることではないかと。そう思った。

ここで一番最初の文章に戻ることになる。クソ真面目に描いていても、そういう人の作った作品は“固い”のだ。そして楽しくない。自由度も低い。フラストレーションは溜まりまくり。そういう作品には視聴者も「共感」できない。
まず自分が“趣味”だと思って、楽しんで、自由に、日頃の鬱憤を晴らすような気持ちで描いていくこと。そういう作品を出してみること。そうすると、不思議と、読者のほうもテンションが上がり、共感して、作品が売れる。趣味の世界線の向こうにあるマネタイズ、とはそういう意味だ。

・いいものを作っていくために

絵なら肩肘張らず、まず自分が描いていて気持ちのよいものを探していく。あまり負荷をかけすぎず、気軽にだせるものを出していく。そうすることで作者側の負担も軽くなる。大作で面白いものを出して・・・とクソ真面目に意気込んでいても、読者にそれが伝わる確証はない。それよりも趣味の延長線上にあると思って、自分を楽しめるような感じで描いていけばいいのではないか。そう感じた。

どれだけやれるかは誰にも分からないが、何も言わなくても、結局、勝手に作っている。そうならば、その道を突き詰めて、楽しんでやれ。いまはそういう気分だ。

いいものを出していく。そのために、まず自分が一番最初の「読者」だ。やれることをやっていこうと思う。




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