元非行少年だから分かる【非行少年に対する子育て論】
こんばんは
今日は世の中から不良の子供を少しでも無くしたいと言う気持ちで本ブログを執筆したいと思います。
初めに自分の不良時代の生い立ちから、更生するまでの流れをざっと紹介します。
ずさんな生い立ち
大阪の岸和田で生まれ育った私は弟と姉2人の6人家族で今思うとめちゃめや貧乏だけど、楽しい毎日を過ごしていました。
小学校3年の時に和泉市に引っ越しました、それから間もない頃だったと思います。
母が父親と言い争うのをたびたび目にしました。
原因は何かは分かりませんでしたが、恐らく母の精神疾患的な事だったと思います。
それからまもなく母が精神病院に入院をします。
入退院を繰り返す母、帰ってきても薬の影響からかまるで以前の母ではない様子です。
手は震えまともに話ができず、10才以上老けて見えました。
そして小学5年の冬母は自ら命を断ちました。
それから僕達一家は父子家庭になりました。
しばらくは悲しみに老けいく晩も枕を濡らしました。
それでも時は流れていき悲しみも薄れていきました。
その頃父親はあまり家には帰ってこず帰って来たと思ったら酒に溺れてグダグダになっていました。
その頃家庭も音をたてて崩壊していきます。
父親の会社は倒産して、兄弟の借金の連帯保証人だった父親の元に借金取りが毎日家に取り立てに来ました。
隠れていた父親の背中を見た時はショックで今でも鮮明に覚えています。
真ん中の姉はグレて学校へは行かず昼間男を家に上げて好き放題していました。家は不良の溜まり場と化していたのです。
その時自分は中学一年生でしたその環境下で自分は不良の先輩がかっこいいと思い始め先輩の真似をするようになっていきました。
髪を金髪に染め、タバコを吸い、シンナーにも手を出して、先輩とバイクを乗り回していきがっていました。
そして中学2年生の時に暴走族に入って、暴走、暴力、窃盗、等悪いと言われる事は全部やりました。
警察にお世話になる事も何度もありましたね。
高校への進学ははなから諦めていました。
どうせ自分の家にはお金がないし、卒業したら建築の仕事をしてお金を稼ぐと、だから中学3年間で一回もテストを受けたことがありませんでした。
それくらい卒業したら建築の職人で働くと決めていました。
尊敬していた先輩も16才で土方で働きお金を稼いでいたので、
卒業したら憧れの先輩みたいに頑張ると心に決めていたのです。
そして中学を卒業し憧れの鳶職人の仕事を始めました当時はガテン系男子と呼ばれて女の子にモテましたね。
思えばこの頃から少しずつ自分の人生は上向いていきます。
先輩の事を強烈に憧れていた自分は先輩みたいに仕事ができるようになりたいと思い必死で頑張りました。
するとトントン拍子に日当が上がりやがて職長で仕事を任せて貰えるようになりました。
職長でもバリバリ仕事を頑張ってしばらくして、職長をまとめる番頭に昇格しそれからそこの鳶の会社の所長と言う立場までやりました。
所長時代に現場監督と話す機会が増えて尊敬する現場監督さんに出会いました。
そして自分も現場監督になりたいと思い、資格勉強をし習得して鳶の会社を辞めて憧れの現場監督さんが居る会社に入社出来ました。
今では結婚して3人の子供の父親として良き夫として幸せに暮らしています。
ではなぜあの時あんなにグレてしまったのか?
心がすさんでいたのかを振り返ってみましょう
なぜ不良になってしまったのか
自分の心を紐解いていくとやっぱり一番は環境じゃないでしょうか
自分の場合は母親の死、父親の会社倒産、姉はグレて家は不良の溜まり場不良になる要素は満載でした。
学校へ行っても勉強はできず、スポーツもろくに出来ないしできるのは先生に反抗することぐらいです。
中学校では先生に反抗すると構ってもらえました。
何も出来ない自分は、反抗する事で先生や大人の目を引き、存在を認めてもらおうとしていたのではないでしょうか。
親には見放され、家庭はボロボロ、借金取りが取り立てに来る毎日
こんな環境では弱かった自分は不良になる事しか自己表現出来なかったんだと思います。
それとやっぱり貧困な家庭と言うのは子供に相当辛い思いをさせると思います。
小学校や中学校の時給食代を親が払っていない事を知り相当な肩身の狭い思いをしました。
進学の道も鼻から諦めるきっかけにもなりました。
環境は人の人生を左右してしまう恐ろしい作用があると言う事です。
何がきっかけで不良から抜け出せたのか?
上の章でも書きましたが、中学を卒業して鳶職で働くようになります。
父親みたいな人間にはなりたくないと言う一心でがむしゃらに働き、稼ぎの多くを貯金に回しました。
仕事を覚えて上達していく中で、久しぶりに人の役に立つ喜びや、やり甲斐、頼られる存在になって、悪さをする事なんて忘れてしまいました。
きっかけはなんでもよかったんだと思います。
大切なのは生きている価値を感じられている事だったんではないでしょうか。
忙しくて、超絶にブラックな会社でしたが、自分の生きる価値を見つけて不良から抜け出させてくれた当時の社長に感謝しています。
元不良パパの子育て
自分は鳶職時代に21才で結婚しました。
いわゆる出来婚です。
妻は16才から付き合っていた一個下の彼女でした。
すさんでいた自分にずっと寄り添ってくれた唯一の存在です。
自分は心に決めていました、生まれてくる子供には絶対に自分と同じ思いはさせないと、なので環境には充分配慮しました。
子供が幼稚園に入る頃から柔道を習わせて精神力と体を鍛えさせ自分も子供の稽古には極力顔を出すようにしました。
自分は子供を3人授かりましたので、3人共柔道を通して成長を肌で感じ、子供と寄り添いました。
そして最も気をつけているのは、昔自分が不良だったという事実を知られない事です。
自分は子供に昔自分が不良だった事を一言も言った事はありません、それは絶対にそうなって欲しくないと言う思いと、影響が少なからずともあるという考えからです。
そうして子供達はすくすくと成長して、今長男は中学3年生の受験生です。志望校はこの辺じゃ上から3番目の私からすれば超頭のいい高校です。
学問やスポーツに打ち込む子供達を誇りに思います。
昔の自分みたいな不良に育たないようにするには、楽しい時も悲しい時も、一緒に笑ったり泣いたり、考えたりして子供の成長に寄り添って上げる事ではないでしょうか。
そして父親ならば絶対に弱い部分は見ぜずに、堂々とした態度で子供と接して不便な思いだけはさせないようにしないといけませんね。
親が勉強する姿勢に子供も影響する
自分は上の章でも触れましたが、大人になってから現場監督を志し勉強を始めました。
中学校をろくに行っていなかった自分の学歴は小卒程度でした。
現場監督になる資格は国家資格ではありますが一般的にはそんなに難しくはありません、ただ小卒学歴の私には強烈に勉強をする必要がありました。
6年間ほぼ毎日勉強してやっと現場監督になれました。
これも一重に子供達のおかげだと思います。
自分が頑張れたのも子供達が柔道で頑張っているのを見て、自分も奮い立たせる事ができたのです。
そして自分が勉強している姿を見て、子供達も勉強する事が当たり前の生活となり、勉強ができる子に育ったんだと思います。
最高に幸せな現在
今は最高に幸せな暮らしをしています。
妻とも仲良く子供達も元気で、新しい家で何不自由なく暮らせている。
こんな幸せでいいのだろうか。
きっと長い人生で今が1番幸せな時だと思います。
あと何年かすれば子供達も巣立っていき、離れ離れの生活になるでしょう
そうすれば後は孫の楽しみしかなくなります。
そうなれば犬でも飼おうかななんて妻とも話をしています。
素晴らしい家族との生活を今存分に噛みしめています。
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