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【寄席エッセイ】あらゆるものにおける上達のコツを失ったのは小学生ぐらいのタイミングとみた

爪が浮いてしまった。痛い。

多分2月頭ぐらいだろうか。もうずーっとギターのことばかり考えている。家に帰って1時間はノートを書きながら弾く。朝起きて5分は触れる。私の中で、一旦終わってしまった抜け殻のような趣味。ギター。弾いても面白いと思えなくなり、やたらとでかくて埃を被ったオブジェがまた金玉色に輝き出したのだ。一生懸命になりすぎてnoteの更新もしなくなった。爪が浮いてよかった。


何となく見ていたyoutube。ギター初心者向けの何たら。その動画を見たことは何十万回もあるんだけれども、それを見ながら自分でノート(紙)を取り出したのが
きっかけだ。


書いてみるとなるほど、ただ聞くより理解できる。理解はできるが弾いてみると上手くいかない。いつもだったらここで終わりで腐っていくのだが今回は違った。




書くだけだとダメっぽい。




当たり前のことだが、そこですごく腑に落ちた。ふむ。動画みるだけでもダメで、書いてみてもダメ。そうなってくると次は「誰かに伝える」ということを目標に考えてみる。ノートも自分が「説明」できるようにと言うことを意識して書き始めてみる。するとノートの書き方も、メモを取るだけでなく「自分の言葉だったらこうやって説明する」「教えている人が「分かりますよね」って言ってるところが全然わかんない。この感覚っぽいのを言語化するとどんな言葉になる?」「おちんちんで例えた方がわかりやすい」なんて頭を捻りながらノートと睨めっこ。





そして、我ながら見事なノートができた。パラパラとめくる。こんな言いたいことがあって、この言葉だとわかりやすい。おちんちんのフリも完璧。これなら私の言葉で他人にこの話ができるし、ズバリ身につけたと言っても過言ではない。よっしゃやったるで!






全然弾けなかった。





理論は分かっても体がついてこない。つまり「身」についていないという状況であることに気づく。なるほどなるほど。頭で理解したことを体が反応するようにする練習をせにゃいかん。意図した通りのスピードまで持っていけるか。これを実現するにはナメクジのようなスピードから始めていかなくてはいけない。身につけることはコツコツから。





そして実際にやってみてなんか弾ける感じにはなるけど、思ってた通りと違う。





となると、ノートを見返してみる。これがしっくりくるようになるにはどうすればいい?おちんちんで例えたのは失敗だったか?あっちか?うんこのほうか?







またノートにペンを走らせ、指を動かしながらあーでもないこーでもない。




極上の時間だった。





過去。ギターという趣味が埃を被る前。

教則本を眺めて、プロの演奏を聴いて「ああ言うふうに弾けたら楽しいだろう」と思ってひたすら練習する自分は「身につけよう」とはしていたが、頭で考えようとはしていなかった。何も考えないでいたら「知識」は溜まっていかない。




空っぽの脳みそと体はつながることがない。


体がどれだけ上手く動こうが、結局人間は頭と体が結びついているのだ。体だけどれだけスムーズに動こうとそこに音楽(知識)がない。それはただの音の羅列に成り下がる。これが面白いことに、それだと面白くなくなっちゃうんだよね。ただの羅列。それをフィーリングという人もいるがおそらく本当にできる奴らは膨大な知識を説明するのがめんどくて「フィーリング」とか言ってるんだ。


だって「何考えてそれやってるんですか?」って聞かれた時に「この部分は魚がジャケットの・・・ええと何だったっけな。確か1970年代とかにでた、あのアルバムの五番目の曲のサビ後のフレーズがかっこいいくてね・・・・それをこの曲の、この雰囲気に合わせて弾いてみるのが最高なんやで」って答えるの面倒だから

「フィーリングで弾いてるんだ」

って言ってるに決まってる。頭空っぽのやつがフィーリングだなんて、それフィーれてないから。っていうか便利だな。フィーリング。今度会議の資料説明求められた時使おう。





そして私はちょっと前までギターに関する「知識」が空っぽだった。楽器触って20年以上経つのに。


今、できないと言うことが悲しいのではない。私は今、嘆いていない。そんな暇がないくらに、できないと言うことが埋まっていく楽しさと気持ちよさよ。情報を得る度に自分の中に「知識」がパブロン(顆粒)のごとき小ささで積まれていく、しかし、その山だけではダメなんだ。知識の山(パブロン顆粒)がいくらあっても、それをちゃんと肉体の動きにつなげなくては。それでは誰の目にも映らない。止まらない。それを「練習」と呼ぶのだろう。考えた事を実践してみる事。知識と体の動きが0.001ミリの様な細っっそい線で繋がる。繋がりは細いので動きは拙い。ないに等しい細さの線。しかし確実に「繋がっている」のだ。ここからどうすればいい?そう振り返り、試し、験し、為す。すると、徐々に徐々に細い線が太くなっていく。今は0.00011ミリか?誰にも分からないような変化でも、積んだ時間は嘘をつかない。変化は変化だ。




ペンを止めて考える。
いつからだろう。こうやって自分で考えようとしなくなったのは。

多分小学生ぐらいからか?


教科書を読めと言われて読み。板書を書けと言われるから書き。
テストを受けろと言われるから受け。


興味。と言う言葉も関連しているが、私はそれ以上の事をしなかった。
教科書に書いてあることを眺めて、それ以上の事を考えなかった。狸が糸車を引いている理由は読んですぐに分かるが、それ以上のことは考えなかった。
ノートは取るが、書いて終わりだった。見返したことはほとんどない。自分のノートがわかりやすいか、人に説明できるように自分が消化できるような気持ちでは書いてはいなかった。




それこそ「教科書を作る」ような気持ちでノートを書いていたら、違う世界を覗けていたような気がする。




知識を得て、体と連動させなければいけない理由を知る。
体だけが動いてても、頭がまっ白ではなだめで。
すごい人が「何も考えてない」なんていうのは、やりすぎて一言で表現できてないだけだから真面目に聴いちゃダメなわけで。




まぁそんな知を血肉にすると言う作業の面白さに目覚めて、毎日考え書いて実践を繰り返していたら、爪が浮いてしまい、指が痛いんです。


学ぶは楽しい。



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