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【寄席エッセイ】夢を追わなくったっていいじゃないか。

「なに。プロでも目指してるの?」



今でも覚えている。学生時代の同窓会。カメラを構えていた私は急にインポになったかと思うほどに体が冷え切り動けなくなった。



デジタル一眼を買った理由は、大学時代の後輩が持っていたのを見てだった。デジカメが小さくてある程度綺麗に取れるという時代に現れた超新星、その圧倒的画質。度肝を抜かれた。そしてメカメカしい楽しさ。撮るという事の楽しさ。あとで振り返った時に鮮明によみがえる記憶。あと首からぶら下げてるだけでなんかオッシャーレ。


この目で見た楽しかったもの、美しかったこと、忘れたくない事。

それらを鮮明に残すってええやんけ!そう思って持っていたデジタルカメラをうっぱらって購入したのが、確かcanonのエントリー。5万位で買った気がする。


買ってからはいっつもぶら下げていた。すげえ邪魔だった。肩痛かった。マジで。



でもその圧倒的邪魔を乗り越えてくる、画質。しっかり構える事で被写体が良くとれる。うむ。デカさは正義。写真を撮る事が楽しかった。流行りだったのもあってか、皆が首からデジタル一眼をぶら下げていたような気もする。そんな時代があったのだ。今は皆どうなんだろう。


確か、大学三年の頃買ったのだろうか。沢山写真を撮った。出かけるときも持って行った。邪魔だった。邪魔だがまぁ楽しかった。別に新しいモデルを買うでもなし、そのままカメラ道を突き進むのでも無し。海外旅行にも持って行った。断言する。邪魔だった。ベルトにピップエレキバンを張り巡らせたかった。それは使い方が間違えているが。




時は経ち、社会人になって仕事にというか社会の大きな仕組みに圧倒され続けた自分は心臓は動いて血液は回っているが、生きているかと言われれば微妙なところで、よくできた人形みたいな感じだった。

しかし毛もふさふさでもないから愛くるしさみたいなのは一ミリもない。市松人形等身大スケールみたいな感じだった。かわいさのジャンルがオルタナ系ロックだった。




働きながらも、なりたいものに憧れる事。それに向かう事。それは個々人の自由だし、好きに生きていいと思う。でもまぁ私はその時は「働いているから、夢に向かって走れない」みたいな事を本気で考えていた残念ボーイではあったが。そもそもその夢がかなえたかったものだったのか、そんな事もちゃんと振り返れないあまちゃんだった。




カメラは別に私にとって趣味・・・でもない。出かける時に持っていき、そのシーンを切り取っておきたいだけの存在だった。つまり趣味以下。メモ帳だね。ド忘れクソ太郎の異名を持つ私の忘れっぷりは三歩歩けば忘れるという言葉に対し「めっちゃよく覚えてんじゃん!」なんて感心してしまうほどに記憶するという行動が苦手だった。スタンド攻撃受けてたと思う。




そして社会人2年目頃の高校時代の同窓会。私は高校時代に何もいい思い出が無いのだけど、話しをしておきたい人間が居たので参加することにした。カメラは持って行った。





コレが良くなかった。




学生時代のいい思い出が無い人達との会話。でも皆楽しそうだな。アタイ顔忘れちゃってるし、写真でも撮っておこう。そう思った刹那。デジタル一眼を構えた私にかけられた言葉が、頭出ししたお言葉である。




「なに。プロでも目指してんの?」




趣味とよべるものがええ塩梅に定着する人と、そうでない人の差がこの辺りにあるような気がする。というかコレ。根深いもののような気がする。



好きな事を生活にしたいと思う人もいるだろう。それを夢と言うのだろうか。好きな事をやって暮らしたい・・・しかしそれを生活にするという事は生半可ではない努力と、運と、諸々が重なってやっと・・・と言ってもそれでも生活ができるか分からない。成功の定義を何とするかではあるが、お金持ちになるなんて意味だったらそれこそ一握りどころの騒ぎではないぐらいの話だ。


半面、「好きな事は好きだから」続けているという人もいる。仕事にしたいとかそういう事ではなく、ただ純粋に好きだから。楽しいから。お金を稼ぐとかそういうんじゃなくてただただ好きだから。



しかし、好きな事をやっているだけなのに「夢を追っている人」と決めつける人が何とまぁ多い事か。絵を描くのがうまいから将来は芸術家。面白い事をする人が芸人。運動が得意だから。サッカーが上手いから。やいのやいのやいの。



会社に入って仕事するのだったそこそこ難しい世の中ではあるものの。そこから外れた生き方を選ぶことが「変わってる」「世間知らず」という見え方をされてしまう。まぁ変わってるとか思われるぐらいの感じは全然いい。それは人の見え方だ。



ただ「世間知らず」という言葉の中に含まれる「嘲笑」の部分がとてつもなく人をインポにさせる。自分の理解できない範疇を下に見てしまっている。




別にプロになるとかそういう事じゃなくて、純粋に楽しんでいるだけなのに。どうして趣味を始める事でプロだの何だのって話を皆するんだ。



そこから突き進める人だっているが、そこを突き進もうとしているわけじゃない人だっていくらでもいる。というかそういう人結構多いんだぞ。楽しいからやってるだけの人。それを「夢なんか追っちまって」みたいなトーンで質問をしてくるなんてもーねーなんというかねー。




プロになるって事がどれだけの事かの尊敬の念も無しによくまぁそんな台詞を人に投げられるなと。




私はデジタル一眼をそいつの顔面にぶん投げたい初動に駆られたが。我慢した。大人だから。この人生の終わりまでこいつと会話することはないなと思った。大人だからね。



その日から私はデジタル一眼を持って出かける事が無くなってしまった。

持ち運ぶことでそんな風に思われているというショック。私が写真のプロの何たるかもよくわからないのに、たかだかちょっと重くてデカいカメラぶら下げていたダケなのに何でそんな事をいわれにゃいかんのだ・・・



何かを始めた時に「プロにでもなるの?」なんてお言葉は完全にNGと私は感じる。まぁ怒ってたからかんじてるどころのさわぎではないのだが。


楽しんでいる人に水を差してはいけない。楽しんでいるだけの人に「夢追い人」なんて見方をするのはどうなんだ。「夢を追っているのが素敵」的なトーンだったら。「プロにでもなるの?」なんて言葉を使わないだろう。





子供の習い事だって、根源的には楽しいから続いているだけだ。悔しいから練習をするかもだが、「上手く成りたい」「もっと頑張りたい」の部分。ここの部分を「プロになる」「一番になる」「優勝する」が何で必要なのかを私は子供の習い事の時間の時によく考える。



「プロフェッショナルになる為に、やる」
「たのしいから、やる」



この言葉は本当に天と地ほどに差がある。




でもまぁそういう言葉をきっかけにバーァーン!ってハジける人だっているんだから。すべてが全て悪いわけでもないのだろうけど。



でも。夢を追う人もいれば、夢を追わない人もいる。
夢を追う人が勝つのか、夢を追わない人が負けなのか。夢がない人はダメなのか。そういう感情を一旦横において欲しい。



それは勝ち負けじゃない。楽しみ方の幅だ。
ストイックにやりたいか、そうじゃないか。「勝つ」「負け」じゃなくて、どう楽しむか。だからこそチームスポーツの習い事は難しいのであるが。



そういう見方が広がっていけば、世の中もっと趣味の幅が広がって皆の生活が豊かになると思うのだ。お金をかけてるのはプロがどうのじゃない。時間をかけてるのはプロがどうのじゃない。



楽しいからやってるだけなんだと。あらゆる人にそんな瞬間が沢山あればいいと思う。そして、それを見る側にもへんてこりんな見方が少なくなればいいと思う。

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