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百電は一会に如かず

百電は一会に如かず。

ひゃくでん は いっかい に しかず。
私の造語です。

ご存知、「百聞は一見に如かず」という慣用句。
人から話を何度も聞くよりも、一度、実際に自分の足で現地に行き、自分の目で見て確かめる方がよく分かる、という意味です。

リモートワーク、オンライン会議など、最近はビデオ通話で、顔を見て話が出来るので、あたかも会って話が出来ているような感覚になります。

しかし、顔を見て話しても、肌で感じる距離感までは縮めることができません。
特に、相手が元気が無かったり、落ち込んだりしていると、励ましてもなかなか伝わらず、もどかしさを感じます。

そんなときは、忙しくても、わずかでも時間を作って直接会いに行くことを心がけています。

会いに行き、お茶を飲みながら、場合によってはお酒を飲みながら、顔を見て話をします。
他愛ない話をしても、励ましても、全然伝わり方が違う実感があります。

ビデオ通話は本当に素晴らしい技術で、人と人の距離を劇的に縮めてくれましたが、やはり、会って話すことには遠く及びません。

「会って、話すこと。」の著者、田中泰延さんは同書のおわりに、人が「会って話す理由」について次のように書いています。

会話とは、会って、話すことだ。漢字でそう書いてある。その時、「わたし」を知ってもらわなくてもいい。「あなた」のことも説明してくれなくてもいい。話す「わたし」と「あなた」の間に、意味がないことでもいい。意味があることでもいい、「なにか」が「発見」され、「なにか」が「発生」する。その「なにか」こそ、人間の向こうにある「風景」であり、それを共に見たことが人生の記憶になる。だから人は、会って話すのではないだろうか。

会って、話すこと。


たぶん、田中泰延さんの言う「風景」を一緒に見られるかどうか、それが大きいのだろうと思います。

ビデオ通話では、時間と話自体は共有できますが、空間の共有、肌感覚での共感が足りません。話は進めど、少し通じ合わないものが残ってしまう気がします。

会って話せば、揉め事が解決する確率は高まり、励ますと元気になってくれた経験が、何度もあります。

やはり、会って話すこと、つまり「会話」は、コミュニケーションの王者であると思います。

百電は一会に如かず。
何度電話しても、伝わらない思いが、一回会うだけで通じ合う。

会って話すために、その時間と空間を作り出す努力は、無駄ではない、そう感じます。
アナログだろうと、時代おくれだろうと。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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