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河川敷で一人、年を越す。【#01】

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きのう物語は、昨日撮った写真一枚と、その日記です。

部屋のドアを開けると、日本海側からの長旅で力を失った北風が、目に染みた。大晦日。わたしは一人、東京にいる。

年越しをどうするか、もちろん考え済みだ。家庭、近所周り、仕事、さまざまな事情が駆け巡ったのは、この星のスケールの話だ。わたしは偶然、地元へ帰省しなかっただけ。変わらず今日を、全うするよりほかはない。

一人の年越しを、近くの河川敷で迎えることにした。部屋で新年を迎えてもよかったが、残念ながらテレビを持ち合わせていない。紅白歌合戦も、ガキの使いも、今日はお預けだ。この静かな年越しを、どこか一人近くの場所で、と考える。歩いて行けるのは、多摩川の河川敷だった。きっと、部屋を出てマスクを外すこともないし、一言も発さずに、家まで帰ることになるだろう。大丈夫、いまの時代に合っている。なんて、言い聞かせるような行為こそ、いちばんの孤独であることは、わたしがいちばん、分かっている。

23時の田園調布は、ほんとうに静かだ。相変わらず、立派な戸建てがズラリと並んでいる。ブランドイメージが完成されたこの街に、わたしのような浪人が住んでいることを、毎度不思議に思う。暖色の灯りが、誰もいない玄関を照らしている。急にセンサーライトが点いて、猫のように驚いてしまった。どの家も、リビングは明かりが点いているようだったが、音は何も聞こえてこない。この街の住民たちが静かなのか、家が立派で音漏れしないのか、わたしにはまだ、分からない。

日付を跨ぐ20分前、河川敷に着いた。ジョギングをするお父さんも、犬の散歩をするお母さんもいない。ここにいるのは、わたし一人だ。そして、多摩川の対岸にはタワーマンションが何棟も建っている。この明かりを、わたしは見たかった。2020年をみんな、生きてきたんだと、みんな、暮らしているんだと、一人でも静かに感じられると思ったからだ。ベンチに座って、目の前の人工光をぼんやりと眺めた。ぼんやりするだけではもったいない気が徐々にしてきて、最後に一年を振り返り始める。気づいたときには、みんなはどんな年越しをしているのだろう、と別の頭がいっぱいになった。

ほどなくして、除夜の鐘がこの街を、何事もなかったように清めはじめる。

23時59分、写真を撮った。目の前の景色は、特に変わらない。わたしは一人、そのまま年を越した。それでも明かりは、特に変わらない。まだ鐘も変わらず鳴っている。変化する世界と向き合いつつ、変わらないモノを、大切にする年でありたい。

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ポカリスエットを買います。銭湯に入ります。元気になって、写真を撮ります。たくさん汗をかいて、ほっと笑顔になれる経験をみなさんと共有したいと思います。