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電車ごっこ

田中 康夫、53歳。
妻と、娘1人と息子が1人。

東大阪で父親から受け継いだ町工場の社長をしている。
社長といっても、従業員が5人だけの小さな町工場だ。

康夫は社長だが腰が低い性格で、もともと低い背が一段と低くみえた。

町工場を愛し、これまで真面目に、こつこつとやってきた。

しかし、世界的な不景気の影響を受けて、康夫の町工場も経営が非常に苦しくなっている。

今月は遂に、従業員の給料さえも払えなくなりそうだ。

いつもは作業着姿の康夫も、今日は慣れないスーツ姿で、一日中銀行をまわらなければならなかった。

「ふーっ…。困ったことになったぞ…。」

康夫は大阪環状線、鶴橋駅のホームの端に座り、深いため息をついた。

銀行の貸し渋りにあい、融資を受ける事が出来なかった。このままでは自己破産するしか、方法がなくなってしまった。

もう終電も発車し、すっかり真っ暗になったホームの隅で、康夫は家に帰ることもできず、ベンチに座っている。

それは、真夜中の2時を過ぎたころだった。

暗闇の線路の中から男の声が聞こえた。

「…ガタンでんがな。」

んっ?確かに聞こえた。
康夫は声のした方向に目を凝らした。
しかし、何も見えない。

「…ゴトンでんがな。」

まただ。
しかも、さっきの声とは違う男の声だった。

康夫は暗闇を見つめ、耳をすました。

「…ガタンでんがな。」
「…ゴトンでんがな。」

2人いる!
声の感じからして、中年のおっさんの声だ。

「ガタンでんがな。」
「ゴトンでんがな。」

「ガタンでんがな。」
「ゴトンでんがな。」

声はだんだんと近づいてきている。

康夫は息を潜め、暗闇を見つめ続けた。

「ガタンでんがな。」
「ゴトンでんがな。」

康夫は、暗闇の中から現れた2人のおっさんの姿を目にした瞬間、新種の爬虫類を発見した時のような衝撃が走った。

暗闇の中から現れた2人のおっさんは、黒のロングコートに黒のハットを被っていて、なわとびを結んだ輪の中に入っていた。

ヤバイ!
関わっては駄目だ。

康夫は直感的にそう思った。
しかし、もうすでに遅い。

「お客さん。乗りますかー?クックックッ…。」

「本日最終ですよー。イッヒッヒッ…。」

2人のおっさんは、康夫の座っているベンチの前で止まり、なわとびの真ん中を開けて待っている。

「何処行きですか?」

康夫は思いがけず、口に出して聞いてしまった。

「天国行きですよー。クックックッ…。」

「天国行きですよー。イッヒッヒッ…。」

天国という言葉に、康夫は反応してしまった。

「料金はいくらなんですか?わたくし、あまりお金を持ってないんですが…。」

「お金はいらない。クックックッ…。」

「お金はいらない。イッヒッヒッ…。」

康夫はホームから線路に飛び降りた。

へぇー…。ホームって意外と高いんだ。
康夫は初めて降りた線路からホームを見上げた。

「お客さん。お早く御乗車下さい!クックックッ…。」

「出発しまーす!イッヒッヒッ…。」

康夫はなわとびを手で少し上げて、2人の間に割り込んだ。

「ガタンでんがな。」
「ゴトンでんがな。」

電車が出発した。
といっても、康夫も一緒に歩かなければならなかったが…。

桃谷を越え、寺田町へ。
天王寺を超えた辺りで、運転手のおっさんが聞いてきた。

「お客さん。銀河鉄道って、知ってます?クックックッ…。」

康夫は背中がゾクッとした。

「あの…。宮沢賢治の…、ですか?」

怯えて答える康夫に、車掌のおっさんが笑った。

「999(スリーナイン)の方ですよ。イッヒッヒッ…。」

「お客さん。鉄郎に似てる。クックックッ…。」

「メーテルは何処?イッヒッヒッ…。」

2人のおっさんはそれ以外は何も話さなかった。

「ガタンでんがな。」
「ゴトンでんがな。」

結局、大阪環状線の線路を弁天町、大阪、京橋と夜通し歩き続け、朝方にもとの鶴橋に戻ってきた。

「天国。天国。クックックッ・・・。」

「天国。天国。イッヒッヒッ・・・。」

康夫は何も言わず、なわとびから出て、ホームに上がり、一度も振り返らずに家へと帰った。

何が天国だ…。環状線を一周しただけじゃねえか。

家に帰ると、早朝の5時だというのに家の明かりがつきっぱなしだった。

玄関のドアを開けると、嫁が寝ずに待っていた。嫁の顔が興奮している。

「あんた!当たっちゃった!」

「はぁ?当たったって、何が?」

「1億円よ!1億円!」

康夫は年末に買った宝くじの当選番号を興奮しながら確認した。

何度見直しても当たっている。

「やったー!これで工場を潰さずにすむ!」

喜ぶ康夫に嫁の静江が冷ややかに言った。

「何言ってんの?もう働かなくていいのよ。1億円当たったのよ。1億円!」

そう言って静江は世界一周旅行のパンフレットを取り出した。

康夫たち田中家は町工場を休業し、一ヶ月の世界旅行に出かけた。

夢のような一ヶ月が過ぎ、田中家にとってまさに天国だった。

しかし・・・、天国のような一ヶ月も康夫には物足りなかった。

旅行後も田中家は贅沢三昧の毎日が続き、誰一人働こうとはしない。

「はぁ・・・。俺は働きたいんだ・・・。」

康夫は気がつくとまた、鶴橋駅のホームに座り、ため息をついていた。

「ガタンでんがな。」
「ゴトンでんがな。」

暗闇からまた、あのおっさんたちが現れた。

「どうしたんだ?クックックッ・・・。」

「どうしたんだ?イッヒッヒッ・・・。」

康夫はホームから線路に飛び降り、なわとびの2人の間に強引に割って入った。

「もとの世界にもどしてくれ。」

おっさんたちは肩をすくめ、信じられないという顔をした。

「じゃぁ。いくよ。クックックッ・・・。」

「いくよ。イッヒッヒッ・・・。」

おっさんたちが身を低く構えたので、康夫もそれにならって低く構える。

どうやら、前回よりスピードが速くなりそうな雰囲気だ。

「ワーップ!クックックッ・・・。」

「ワーップ!イッヒッヒッ・・・。」

おっさんたちが叫んだ後・・・、しかし何も起こらなかった。

「到着。クックックッ・・・。」

「到着。イッヒッヒッ・・・。」

「一歩も進んでないじゃないですか。」

激しく怒鳴る康夫に、涼しげな顔でおっさんが答えた。

「ワープで一周した。クックックッ・・・。」

「一周した。イッヒッヒッ・・・。」

康夫はなおも食い下がって言った。

「この前みたいにちゃんと歩いて一周してください。」

おっさんたちはまた、肩をすくめ、信じられないという顔をした。

「もう一周する。地獄行き。クックックッ・・・。」

「地獄行き。イッヒッヒッ・・・。」

「今の生活の退屈さより、地獄の方がマシだ!」

おっさんたちはまたまた、肩をすくめ、信じられないという顔をした。

「ガタンでんがな・・・。」
「ゴトンでんがな・・・。」

康夫とおっさんたちはまた、夜通し歩き続け、地獄に到着した。

「地獄。地獄。クックックッ・・・。」

「地獄。地獄。イッヒッヒッ・・・。」

康夫が家に帰ると、やはり家の明かりがつきっぱなしだった。

玄関のドアを開けると、嫁が寝ずに待っていた。嫁の顔が興奮している。

「あんた!やられた!」

「はぁ?やられたって何を?」

「振り込め詐欺よ!振り込め詐欺!」

嫁は泣き出して、後は何を言っているのか、さっぱり分からなかった。

「また一から働けばいいさ。」

康夫は、3時間ほどベットで横になり、町工場へと出勤した。

従業員はもういない、一人で作業しなくてはいけない。

半日かけて康夫は頑張ってみたが、全ての作業を一人でこなすのはやはり無理だった。

康夫はもといた従業員に電話することにした。

「なに言ってんだよ。1億円も当たったのに1円もくれずにクビにしたくせに。」

「もう、わしも年じゃし引退したんじゃ。」

もとの従業員は誰も戻ってきてはくれなかった。

「はぁ・・・。どうしよう・・・。」

振り込め詐欺で一文無しになった田中家にはもう、従業員募集の広告を出すお金も無かった。

食べ物を買うお金もなく、一日一食の日が何日も続いた。

その間も康夫は、できる限りの作業を一人でこなし、残った時間は元従業員の謝罪に費やした。

いよいよ食べるものもなくなり、康夫はまた、鶴橋駅のホームのベンチに座っている。

「どうした?クックックッ・・・。」

「どうした?イッヒッヒッ・・・。」

「もとの世界に戻してくれ!」

康夫はホームの上からおっさんたちに向かって土下座でお願いした。

おっさんたちはまた、肩をすくめ、信じられないという顔をした。

「おまえ、環状線一周しただけ。クックックッ・・・。」

「天国も地獄も無い。イッヒッヒッ・・・。」

そう言うとおっさんたちは暗闇の中に消えていった。

康夫が家に帰ると、やはり家の明かりがつきっぱなしだった。

玄関のドアを開けると、嫁が寝ずに待っていた。嫁の顔が興奮している。

「あんた!戻ってきたよ!」

「はぁ?戻ってきたって・・・、お金がかい?」

「従業員よ!従業員!」

康夫は、3時間ほどベットで横になり、町工場へと出勤した。

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