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笹本正治氏の論文「武田信玄と温泉」小感

数ヶ月前に、地元の市立図書館を通じて東京都立図書館にリクエストをお願いしておいた萩原三雄氏追悼論集刊行会編『甲斐の中世史』(高志書院、2024年2月)が、今日になってようやく手元に届いた。こんなに長いこと待たされるのであれば、買ってしまおうかとも考えたが、当面必要な論文は中の1本のみ。しかも定価が15000円ときては、なかなか手を出しにくい。ということで待つこと数ヶ月、ようやくこの論文集と相見えることとなった。

お目当ての論文は、笹本正治氏(長野県立歴史館特別館長:同書巻末の執筆者一覧より)の「武田信玄と温泉」。笹本氏は、2021年12月15日(16日)に「歴史の見方」と題し、ご自身のFacebookでも信玄と温泉について関説されていたので、公の場で発表されるのをとても楽しみにしていた。本稿は、そのFacebookでの発言を中心に信玄と温泉について広く論じたものだが、実はFacebookの投稿と同様、その下敷きとなっているのはテレビ番組、何よりそこに登場した芸人歴史学者への痛烈な批判なのである。

ことの起こりは、2021年にNHKBSプレミアムが放映した「武将温泉-名将の陰に名湯あり-」という1時間半の番組。「歴史上の多くの転換点に温泉が重要な役目を果たしていたとし、戦国武将と温泉の知られざる謎に迫る歴史温泉ミステリーを標榜する」(本稿からの引用、下同じ)。そして「甲州市の恵林寺を訪ねた俳優の筧利夫に対応するのは、温泉と武将の関係に注目しているという東京大学史料編纂所教授の本郷和人である。本郷は武田軍団に温泉が深く関わっていたと説明するので、番組全体も彼の発想によるものだろう」。
※ 念のために付け加えておくが、これは本郷氏による独自の発想などではなく、温泉評論家が書いた温泉本からの受け売りであることは間違いない。

そんなこんなで、本郷批判(あまりにも馬鹿馬鹿しいのだが、誰かがやらねばならなかったので、その意味では笹本氏に敬意をはらいたい)を下敷きに信玄と温泉についての論述が進み、最後に次の一文で締めくくられる。

「現代の温泉が注目を浴び、客を集める手段として信玄の隠し湯を主張することはありえる。しかし、歴史家はそれを事実として容認するのではなく、各温泉が何時から隠し湯を主張するようになったかを明らかにし、後世に生きた人々が戦国時代や温泉に対してどのような意識を持つようになったかを考えていく素材とすべきである。
歴史研究をする者が現代に生きる我々の温泉感覚と、戦国時代に生きた人々の温泉感覚が同じだと、都合よく歴史を解釈することは間違いだろう。私たちは現在に縛られて歴史を見ており、過去の研究者たちの視点に立って考えがちである。過去の説明を知識として常識化するのではなく、通説といわれる説を史料から見直していくことが必要である。」

まさに同感だ。温泉の歴史研究には、きちんと学問的な訓練を受けた研究者がほとんどおらず、「都合よく歴史を解釈する」評論家や好事家、さらにはマニアによってなされているのが現状である。それを何とかしなければいけない、そんな思いから研究者集団「日本温泉文化研究会」を起ち上げたわけだが、食べていけない温泉史研究には、なかなか人が集まらないのが現実である(温泉地や特定の宿泊施設の提灯持ち・太鼓持ちになれば、あるいは誰かのように食べていけるかもしれないが)。
なお、笹本氏が指摘する「各温泉が何時から隠し湯を主張するようになったか」については、不十分ながら『温泉をよむ』(講談社現代新書)で触れておいたのでご参照いただきたい。

Facebookへの氏の投稿について、2022年5月8日にオンライン開催した講座『日本温泉史概論』第Ⅰ期 古代・中世篇の「序説:温泉史の見方」(笹本氏の「歴史の見方」にかけたタイトル)で話しをさせてもらった。その折に、本稿「武田信玄と温泉」でも論評されている永禄4年5月10日附「武田家朱印状」(恵林寺文書)の氏の読み間違いを指摘しておいた。これについては、現在出版の準備をしている『古代・中世の温泉史』(仮題)で詳述する予定だが、その間に誤った理解が先行してしまう虞があるので、ここで改めて指摘しておきたい。問題の下知状は、次のようなものである。

河浦湯屋造」営本願之事、」如先々可令勧」進之旨、自寺」中評定衆可」有下知者也、仍」如件、
永禄四<辛|酉>
 五月十日 (龍朱印)
 恵林寺
  ※ 河浦は、現在の山梨県山梨市三富川浦の川浦温泉に比定されている。

この文書について笹本氏は、こう解釈する(煩を厭わず引用しておく)。「文中にみえる本願とは、仏教において仏や菩薩が過去において立てた誓願のことで、宿願ともいう。菩薩としての修行中に成就を願ったもので、何としてでも衆生を救いたいと願う仏・菩薩の慈しみの心(大慈悲心)からおこされる。勧進とは仏教の僧侶が衆庶の救済のために布教活動の一環として行う行為の一つで、勧化ともいう。寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に説き、その費用を奉納させることで、人びとを仏道に導き入れ、善行をなさしめるもので、強制的命令にはならない。評定衆とは鎌倉・室町幕府の職名で、執権のもとで裁判・政務を合議した職員のことで、ここでは恵林寺の寺務を合議した人たちであろう。
印判状は、恵林寺が宗教的な行為として河浦に湯屋を造営しようと志したことを信玄が了解して、これまで同様に造営を勧進(寄付行為)によってするよう、恵林寺の評定衆から指示させたものである。文面からすると、「河浦湯屋造営」は恵林寺の本願で、信玄は計画していない。仮に本願の主体を信玄とした場合でも、勧進行為なら、完成時期が決められない。信玄は経費を出して施設を設置するという内容でもない。この文書が発給された順序は、恵林寺側で信玄に対し湯屋造営を勧進するにあたって後ろ盾になって欲しいと求め、信玄がそれに応じたものであろう。文書を読む限り、宗教行為としての恵林寺による湯屋造営であって、信玄が積極的に戦病者のため湯屋建設に関わった文書とはいえない。」

このあと、本郷和人氏による同文書のトンデモ解釈が引用されるのだが、笹本氏の解説も不可解である。「印判状は、恵林寺が宗教的な行為として河浦に湯屋を造営しようと志したことを信玄が了解して、これまで同様に造営を勧進(寄付行為)によってするよう、恵林寺の評定衆から指示させたものである」と解釈すると、恵林寺の評定衆(納所・侍真・維那)が恵林寺(住持を想定しているのであろうか)に対して指示するという、不可解な現象が生じることになり、ならば充所は「恵林寺評定衆」でなければなるまい。
実はこの文書、きわめてシンプルな内容なのである。つまりこうだ。

「本願(上人)による河浦(川浦)温泉の湯屋造営(の費用捻出)については、これまで通り武田家は(領内での本願上人による)勧進活動を認めるので、その旨を(寺内経営の実務担当者である)評定衆から本願(上人)に下知するよう(河浦を寺領とする)恵林寺に命じた文書」なのである。

「本願(上人)」はいわゆる勧進聖のこと。この本願(上人)については、各地寺社の堂宇建立等に関して多くの研究がある。教義としての本願は、ここでは関係がない(間接的にはもちろん本願上人を通じてあるわけだが)。つまり、この文書が発給されるに至る経緯は、以下のようになる。
本願(上人) ⇒ 恵林寺 ⇒ 武田氏 ⇒ 恵林寺 ⇒ 恵林寺評定衆 ⇒ 本願(上人)
川浦温泉が恵林寺領内であったことから、本願上人に直接ではなく、領主である恵林寺を経由して下知させたのであろう(この見解については要検討)。

温泉史とは、ある意味とても難しい分野である。あまりに身近な存在であり、先行研究も微々たるものしかないこともあって、だれもが単なる思い込みで温泉を論じようとする。本稿についても、他にいろいろご指摘申し上げたいことが多々あるが、それはいずれ何かの機会を得て(準備中の著書ではそこまで細かく触れられないので)お知らせしたいと思っている。温泉史の研究を、甘くみてはいけない。
以上、2024年8月20日に眼病を押して誌す

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