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【闘病日記】まだきっとできること



はじめに

 ふと、わたしは思った。
 闘病日記としてこれを書いているけれど、わたしはそれほど「闘病」をしていない。
「闘病」という言葉から連想されるのは、不治の病に侵されて、入院をしていて、ほとんど外に出られないような環境や状況にあって、それでも前向きに生きていく罹患者のことのような気がする。
 わたしはどこか、そういう状態ではないような気がした。

 たしかにつらい時期はあった。
 苦しいときもあった。
 仕事も辞めることになった。
 借金だって増えたし、生活は楽にはなっていない。
 孤独や不安を抱えているし、自分の将来さえ不安定なままだ。
 障害者手帳を取得して、現在はB型事業所に通所している。
 精神的に不安定ではあるけれど、「本当にひどいとき」に比べればずっと平穏で、それはやっぱり「闘病」というほどのものではないような気がした。
 それでも、現在(いま)のような安定期をこうやって文字に起こすことも何かの記録になると思う。
 そういった意味で、今日の記事を書きます。
 およそ「闘病」とは言えない、ある統合失調症持ちの、雑記のようなもの。
 読んでいただけると、嬉しいです。

例えばもっと動いていたら

「例えばもっと動いていたら」
 そんなことを、先程、思いました。

 つい先程、わたしは洗顔をして、顔にパックを貼りながらタバコに火をつけてぼんやりとしていました。
 休日なので、そんな時間の過ごし方も悪くはないのですが、「もっとやることあるだろ」とも思っていました。

 随分前から禁煙や禁酒を試みているのに、まったくやっていない。
 ギターのレッスンに通っているのに、ろくに練習をしない。
 作曲をしていたので、自分のYouTubeチャンネルがあるのに、まったく新曲を作りもしないし、更新もしない。
 ネットに上げている小説もぜんぜん更新しないし、出版社に送って返ってきた原稿の再編集もほとんどしていない。
 アパレル事業をやりたくてあれこれ策を練っているけれどほとんど実行に移していない。
 かろうじてやっていることといえばイラストくらいだけど、まだまだぜんぜん足りてない。

 わたしが何か自分の作品を作り出したのは小学生のころのことで、それが具体的な自分の夢となったのは10代の後半くらいだ。
 それから20年以上経った。

 何も、ということはないが、満足のいく結果をわたしはまだ残していない。
 ふとね、思ったんだ。

 例えば今日のような休日に、朝から小説を書いていたり、ギターの練習をしていたり、イラストを描いていたり、あるいは作曲していたりしたらどうだろうかと。
 それは今日一日、ということではなくて、
 わたしが過ごしてきた20年間。
 毎日ちゃんとやってきたらどうだったのだろうか、
 ふと、そんなことを思いました。

 たぶんきっともっと手応えのある結果を残せていただろうし、自分自身の中にある「くすぶり」のようなものも感じないで済んだのかもしれない。

 でも実際のわたしは、日々、だらだらと過ごしてきたのである。

 もういい加減分かってきた。

 昨日のような今日を過ごせば昨日のような明日を迎える。

 それはつまり、前に進んでいないということと同義だ。

 普段わたしはだらだらと過ごしながら、どうでもいいような愚痴をSNSで吐き出しているけれど、そういう時間の使い方が無駄であると、そろそろ気づくべきであろう。

 SNSを否定しているわけではない。
 SNSで愚痴をいうことも悪いことではない。

 でもわたしには「もっとやるべきこと」があるし、人生は限りあるものだということを認識したほうがいいと、思いました。

 人は死ぬ前にあれこれ後悔するのだと聞きます。
 もっと挑戦すればよかったとか、夢を追いつづければよかったとか、好きな人にアタックすればよかっただとか、ようするに、「やらなかった自分」に後悔するのです。
 わたしもきっとそうでしょう。
 このままだらだらと過ごす毎日を送っていれば、きっとわたしは、もっと動いていればよかったと後悔するでしょう。
 例えばもっと動いていたらって、悔やむでしょう。

 そうならないためにも、今日から行動を変えていこうと思います。

手帳を手にするいうこと

 わたしが障害者手帳を手にしたとき、こころのどこかで絶望を感じました。
 それは、「もう普通には生きられないのだな」といったような絶望です。

 入院仲間によく言われるのですが、わたしはほとんど「普通の人」です。 
 手帳の等級も3級なので、それほど重いものではありません。
 自分の病気の症状が悪化しなければ、ごくごく普通の人間です。

※普通とは何かとか、障害者は普通ではないか否かという問題はここでは置いておきます。

 絶望を感じてはいたものの、どこか安堵もしました。
「認めてくれた」「わかってくれた」というような安堵感です。

 例えば身体に障害を持っていた場合、一見してそれが「大変である」ということがわかります。
 ところが、精神障害となると、一見してそれが「大変である」ということはなかなか理解されません。
 わたしはずっと手帳を持たずに一般雇用で働いてきました。
 それでも仕事でうまくいかないことが多く、長く仕事を続けることができませんでした。
 そのたびに、わたしは自分で自分を責めました。
 誰かからそう言われるように、自分でも、自分に「なんでそんなこともできないんだ」と責めていました。
 それはとてもつらいものです。

 自分の抱えるものを他者に伝えようと思っても、なかなか伝わらないことも、精神疾患の抱える問題のひとつです。
 なので、変な話ですが、手帳を取得できたとき、こころのどこかで安堵したのは、「あなたの抱える病は日常の生活においていくつかの障害を持っています」と公に認められたからです。

 だからといって、手帳や病気を免罪符にして「だからわがままを許せ」と言っているのではありません。
 そうしたくもありません。

 わたしが手帳を持つことの意味は、特典とか割引とかそういうものではなくて、「自分自身を受け入れること」のひとつだと思っています。

 思い軽いはあるにしろ、障害を持っていることを受け入れることは、「自分には出来ないことを受け入れること」でもあります。

 出来ないことは、出来ないのです。
 それを、「自分は駄目だ」とか、「人間失格なんだ」と思ったところで、前へは進めません。
 なので、出来ないことは出来ないこととして受け入れて、そのなかで、自分に出来ることをこれからの人生でやっていけばいいと思いました。

 わたしにとっての障害者手帳は、そのような意味を持っています。

幸福と豊かさへの感謝

 ときどき愚痴を吐くように、世の中に対して不平や不満を感じることはよくあります。
 そういったものは、あげればキリがありません。
 それよりも大切なことは、自分が享受している「幸福と豊かさへの感謝」のこころではないでしょうか。

 わたしがそうであるように、人はついつい「自分にないもの」に目を向けてしまいます。
 お金がない。
 恋人がいない。
 友人がいない。
 ものがない。
 家がない。
 搾取されている。
 地位も名誉もない。
 などなど。

 あるいは美貌とか、ないものねだりをしてしまうんですね。

 そして忘れてしまう。
 自分がすでに手にしているものを。

 わたしには恋人は居ないけれど家族がいる。
 わたしには恋人は居ないけど過去には愛してくれる人がいた。
 わたしは何も賞を残していないけれど、作品は残している。
 わたしには借金があるが、まだ返せるだけの労働力はある。
 わたしは無職だが、求人はある。
 わたしは高級車を持ってはいないが、軽自動車なら持っている。
 わたしには手にしていないものが多いが、自分の部屋にはたくさんの「今まで買ったもの」が溢れている。
 パソコンもあれば、ネット環境もある。スマホだって持っている。
 自転車もあれば、それを漕げる足も持っている。
 こうやってパソコンで文字を不自由なく打てる技術も両指も持っているし、ある程度の思考能力もある。

 思い返してみれば、自分が持っているものはたくさんあったのだ。

 年齢を重ねていけば、身内が他界することも多くなる。
 身内ではなくても、知っている人が他界する出来事も経験していく。
 それでもまだわたしには両親が健在しているし、祖母もいる。

 幸せなのだ。
 豊かなのだ。

 精神的に病んでいる人は、「何を見ているか」というよりも、「何が見えていないか」を気にする方が大切だ、とある精神科医が本に書いていた。

 こころが病んでしまっているとき、わたしは、自分が享受している幸福さや豊かささえ見失ってしまっていたのかもしれない。

 改めて、感謝をしたい。

 わたしは恵まれていると。

死にたい人を死なせない社会

 安楽死は現在日本では認められていない。

 安楽死の是非については正直わたしにはわからない。
 ただなぜ認めないのかについてわたしなりの意見を述べさせていただくと、それは、「救える可能性があるから」だと思います。

 死にたいという希死念慮はわたしもたびたび感じるので、多少なりともわかっています。
 そういう小説を書こうとしたこともあります。(まだ未完成)

 それでもわたしは「死にたい人」をそのまま「死なせてあげたい」とは思いません。
※状態や状況にもよります。

 だからといってそういう人たちを救えるほどわたしは強くもないし、力も持っていないし、影響力もない。余裕もない。

 わたしは、わたしが生きることで精一杯なのです。

 あ、どうして社会が死を許さないのかという問題でしたね。
 それはきっと、社会そのものが「生物の構造」だからだと思います。

 生物の構造。

 生物、つまり、「生きるもの」
 社会を作っている人間そのものが「生きるもの」なので、その人間が「死」を肯定することはなかなかに難しい。
 スタンスとしては、「生きること」
 それが社会というものなのだ。
 だからそう安安と自死を認めるわけにはいかないのだと思います。

 それでも、死を選ぶ権利もあるとわたしは思います。

 どうしようもなく苦しくて、どこの誰にも救うことが出来ないのであれば、本人にとって死ぬことが「救い」となるのであれば、そのときは死を選ばせてあげる権利も大切なのではないかなと思います。

 とても難しい問題なので、上記したように「わたしにはその是非はわかりかねます」

 ただ、希望としては、いまこの世に生を受けたものたち全員が「生きていく」スタンスを持っていたいなと思っています。

 でもまあわたしはキリストでもなんでもないので、わたしはわたしの生を全うすることにしよう。

 それがわたしが唯一できることなのだと思います。

最大の復讐

 ある小説家が言っていました。

「自分を苦しめたやつらに対しての最大の復讐は殴ることでも殺すことでもなく、笑い声を聞かせてやることだ」と。

 自分自身が幸せに生き、その笑い声をそいつらに聞かせてやること、それが最大の復讐だと、小説家は言っています。

 わたしの好きな言葉です。

 たしか小説の一部だったと記憶していますが、一言一句は覚えていません。
 ただ、それを読んだときとてもすっきりした気分になりました。

 自分を苦しめてきた人たち、
 大勢います。
 それは自分が子どもだったころの大人たちであったり、嫌いなクラスメイトであったり、先生だったり、
 社会に出てからの先輩だったり上司だったり同僚だったり、
 大勢います。

 憎む気持ちはとてもよくわかります。
 それでもわたしは、そういう人たちをぶん殴りたいとか、こ◯したいとか思ったりしないのは小説家の言葉を信じているからなのかもしれません。

 自分自身が幸せに生きる。

 たとえその笑い声なんか聞かせなくっても、復讐なんてしなくても、自分自身が幸せを感じているのならそれはそれでもう全部おっけーなのではないでしょうか。

 そいうふうに、わたしは思います。

まとめ

 ちょっと長くなってしまいました。
 自分自身の気持ちを落ち着かせるために書いた文章でしたが、思っていたよりも書けました。

 そして少し気持ちが楽になりました。

 わたしも人間なので、(あるいは精神的な病気を持っているので)メンタルが不安定なことが多いです。

 それでも今日自分で書いたことは意味があるように思います。

 もしかしたら誰かがわたしを否定するかもしれません。
 ダメ出しをするかもしれません。
 たぶんきっと落ち込みます。

 でも、まあいいでしょう。

 わたしには、まだきっとできることがあるのですから、前へ進めるはずでしょう。

 ここまで読んでくれてありがとうございます。

※トップ画像は「たろ」さんのを使わせていただいています。
たろ|note


 

 

 


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