【エッセイ】人生とテニス
テニスをしたことがありますか?
サッカーや野球と違ってメジャーなスポーツではありませんが、マイナーでもない。そんなスポーツです。
わたしはふと、「人生」ってテニスと似ているな、と思いました。
何が似ているって、「攻めなきゃやられる」という点です。
趣味でやる場合はラリーだけするというのもありなんですが、いざゲームとなるとそこには勝敗がついていて、そのため、相手も「攻めて」きます。「攻撃は最大の防御」と言われるように、テニスは「攻めないとやられる」のです。
放っておいたら、相手が攻めてくるからね。
それは人生もそうで、「攻めなきゃ、やられる」のです。
ーーー
わたしは常々疑問に思っていました。
「次から次へ問題が押し寄せてくる問題」です。
何かをしようと思ったら、壁にぶち当たる。逆風が吹く。
逆に、何もしないと決めていたら、それがまたストレスになり、何かを探しはじめる。
どちらにしろ、何をするにしても、「問題」というものはやってくるのだ。
「どうして?」と思っていました。
私は平和主義者なので、日々平穏に過ごせればそれで良いのです。なのに、何をしていても、「問題」は向こうからやってくる。まるで、相手が打ってくるテニスのボールみたいにね。
何かをやろうとする。つまりサーブを打つ。
すると、相手が打ち返してくる。
相手にもよるけれど、相手も攻めてくるのでわたしは「振られる」
振られないためには、「攻め」のサーブを打つしかない。
わたしは左利きなので、高校時代は相手のバックハンドを狙うスライスサーブを武器にしていました。
その攻めが効けば、相手は打ち返すことが出来ない。
テニスの勝敗のキーはたくさんあるけれど、ポイントを得るためにスマッシュに持ち込んだりボレーに持ち込んだりすることがある。
それは、「攻め」の姿勢だ。
アプローチショットを打ち、ネットに向かって走る。
距離を縮め、相手の「返しにくい」球を打ち込んでいく、そして、ポイントを得る、という作戦である。
わたしはこういうことを想像するとき、小説『テニスボーイの憂鬱』のことを思い出す。
村上龍の小説で、土地成金の息子が放蕩する様を描いている。
結婚して、子どももいるが、テニスを通して「愛人」を作っていくお話だ。
その小説で、印象的なシーンがいくつかある。
ほとんど覚えていないけれど、「打ったボールは自分の意思ではどうにもすることができない。アプローチショットを打ったのなら、あとは前へ出るしかない」というシーンだ。
人生と似ている、と、思う。
何かアクションを起こしたら、もうそれはどうすることもできないので、あとは前へ出るしかない。そして、結果を得たい、前へ出たいのなら、アプローチショット、つまり、何らかのアクションを起こさなければいけない、ということだ。
あと、余談だけど、小説の主人公の息子が戦隊モノのフィギュアを持っていて、ピンクが好きで、主人公が「なんでピンクが好きなの?」って聞いたら「女の子だから」と答えて、今度は息子が「〇〇ヒーローのピンクが欲しい」と言い出し、「どうして?」と聞いたら、「▲▲レンジャーは終わったのだ」と答えるところが面白い。
一つの恋愛が終わり、次の愛人を探す父親と似ているからだ。
長いけれど、面白い小説である。
ーーー
人生とテニス。考えれば考えるほど深い話しだ。
攻め、守り、そして、テニスをうまくなるためには、体力づくりもしなければならない。
実生活に置き換えれば、普段のパフォーマンスのためにも筋トレなりコンディションを整えたり、食生活に気をつけなければならない、ということになる。
ーーーまとめ
攻めても、守っても、何もしなくても、「問題」というものは次々とやってくる。
問題というものをテニスのボールに譬えるならば、常に、「ボール」と対峙しなければならない。 攻めのボール、守りのレシーブ。サーブ、ロブ、アプローチショット、ボレー、スマッシュ、さまざまな方法で、勝利を手にする行動をする。
人生もそうではないだろうか。
すこし、めんどくさいかもしれない。
でも、人生というものは、めんどくさいものなのだ。
どうせめんどくさいのなら、自分から「攻めて」いったほうがいい。
以上、人生とテニス、のお話でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?