i_新聞記者ドキュメント

映画『i 新聞記者ドキュメント』公開に寄せて

森達也監督の『i 新聞記者ドキュメント』を観た。
家に帰ったらもちろんのように森達也の書籍を読み返す。
たしか『FAKE』の時もそうしていたし、これからもそうすると思う。


森達也と僕

僕は森達也が好きだ。森達也は曖昧で、未練がましくて、気が弱くて、優柔不断で、情けなくて、いつも同じ場所を彷徨っている。なのに途方も無く頑固で、意地悪くて、しつこくて、強情だ。
一言で言ってしまえば、面倒臭い人なのだ。熱心な読者でもうんざりするぐらい面倒臭い人なのだ。
でも何かに迷った時、僕は森達也の本を読む。彼が逡巡と躊躇いと葛藤の中でもがきながら選んだ1つ1つの言葉を、結論をゆっくりと嚙み締める。二項対立を煽るような結論や拙速な断定を拒否する彼の語り口に面倒臭さを感じながらも、その面倒臭さの中にしか見ることのできない、形容し難い何かを見据え続けたいと思わされてしまう。

森達也が撮り、書き続けているものは、グレーで曖昧なものであり、安直な断定の隙間から零れ落ちてしまうものであり、世界や人間の豊かさである。そしてその豊かさは、「社会正義や道徳感情、人間性と呼ばれているもの」と相反することがある。社会や世間が「悪」と断定するものの側から社会や世界を眺め、そこから見える別の景色を示すことで、主語を小さくして考えることの意義とマジョリティにはなりえない他者への想像力を森達也は問う。
「正しさ」は個人の感情・論理・主張だったはずの言葉の主語を大きくしてしまう。主語が大きくなると人間は他者への想像力を失う。全く異なるはずの人間があるフィルターによってカテゴライズされ、「一般論」によって語られる時、主語の拡大は述語の責任放棄に繋がり、途方も無く残酷な言葉や行動が軽々しく放たれる。

世界はもっと豊かだし、人間はもっと優しい。森達也はそう信じている、信じているから悩む。世界は豊かだし、人間は優しいのに、なぜこんなに残酷で痛ましいことばかり起こってしまうのかと本気で悩む。
世界は豊かではないし、人間は優しくもないという身も蓋もない「現実と呼ばれているもの」に助けを求めず、ただひたすら悩んで、迂回して、また同じところに辿り着く。それが森達也の面倒臭さの本質なのだろうし、彼の誠実さなのだと思う。

ベンヤミンがイメージした「夜」を歩み通す時、森達也の言葉は助けにならないとさえ思う。人を迷わせるだけだ。「迷ってもいいんだよ」というささやかな肯定は与えてくれるのだが。
人間は何かを断定しないと行動できない。あらゆる行動には断定が必要だ。その断定の前で立ち止まり、迷うことが精一杯の抵抗で、粗だらけの網目から零れ落ちてしまうものをなんとか掬い取ろうとする営みが、何かを考えるということであり、何かについて断定する=信じるということだと思う。

だから、森達也の映画や文章において結論はさほど重要ではない。たとえ最初に想定していた場所と同じ場所に辿り着くにせよ、そこに辿り着くまで歩いてきた道、あるいはその歩み自体に意味があるのだ。
それに人間は簡単には変わらない。どんなに色々な道を歩いても、同じ断定をして、同じ行動をすることの方が多い。それでも、なんとなくの印象や固定観念による断定と、迷い続けて辿り着いた断定とには、ほんの僅かだけれど必ず違いが生まれると信じたいし、迷わなければ変わらない。ほんの一歩分だけだとしても、違う世界を眺める可能性を捨てたくない。

最近は物を言いたくなる出来事が多過ぎる。日本という国に根深く刻み込まれた問題が様々な分野で表出しているのではないかと邪推したくなるぐらい、多い。
日本人であることや日本という国に生まれ育ったことに嫌悪感を覚えるような出来事ばかりだ。でもそれは決して突然現れたものじゃない。常にここにあったのに僕たちが見て見ぬ振りをし続けてきたものだ。
そんなことを考え出すと際限が無い。だから人は断定するのだと思う。わからなくても断定してしまえば楽だ。考えないこと、終わりにすること、それだけで次の歩みを踏み出せる。
でもそれは成長なのだろうか?違う世界を眺めるための一歩なのだろうか?

『i 新聞記者ドキュメント』

ようやく本論。『i 新聞記者ドキュメント』について。
タイトルの『i』には、色々な意味が重なっている。というよりも意味を見出してしまう。過去作に関して「タイトルに大きな意味はない」と再三言ってきている森達也からしたら今回も意味はないのかもしれないけど、どうしても読み取ってしまう。
望月衣塑子の「i」であり、一人称単数の「i」であり、「愛」という言葉と同じ音を持つ「i」。
一つ目の「i」を入り口にして、二つ目の「i」の重要性を問い、三つの目の「i」の可能性を感じさせる、そんな映画だと思う。

一つ目の「i」〜望月衣塑子の「i」

一つ目の「i」は、現代日本社会における「表現の自由」を巡る問題と結びついている。空気を読まず、忖度をせず、ジャーナリズムのあるべき姿に邁進する望月衣塑子記者を対象にすることで、メディアと権力(=政府)の不健全な関係が露わになる。その不健全さは、権力によるメディアへの規制(と同時にメディアからの権力への忖度)が根底にある。

あいちトリエンナーレに端を発して、社会の様々な局面で「表現の自由」を問われている。もちろん「表現の自由」を巡っては様々な議論が今までも起きてきたのだけれど、そのほとんどは社会的な規模にまでは広がらなかった。なぜだろうか?
文化庁が補助金の不交付を決めたことが大きな要因なんだと思う。
ある作品の展示を制限するレベルの検閲ではここまで大きな耳目は集めなかったはずだ。(それだって立派な「検閲」で、国家の文化レベルを貶める行為なのは言うまでもなく。)
最初に出すと言っていた補助金を後出しで不交付にする。しかも、それが文化庁によって恣意的に決定されるとすれば、助成金や補助金は自由な創作の範囲を狭めてしまう。文化庁が「正しい」とする作品にしか、実際に助成金や補助金が交付されないとすれば、どんな製作者も文化庁の顔色を窺いながら作品を創るしかない。価値の一元化が進んでいき、文化における多様性はどんどん消えていく。
この話題になると、脊髄反射的に「自分の作品なのだから国の助成はあてにせずに、自分の資金でつくれ」という意見が出てくるけど、これに対する説明は割愛したいと思う。

こと映画業界で言えば、『宮本から君へ』はピエール滝の出演を理由に助成金の交付が取り消しになり、「KAWASAKIしんゆり映画祭」では『主戦場』の上映中止が話題になっている。(これは無事に上映されたが、マイナスがゼロに戻っただけで、拍手喝采をする気にはなれない。)
どこまで介入すれば気が済むのだろうか。暗澹たる気持ちになる。それでも少しだけその先を想像してみる。
権力による検閲、自主規制、忖度を巡る喧々諤々の議論は「表現の自由」を守るべし、という当然の反発を生んでいる。これは正しい。
けれど、逼迫した状況の中でラディカルに「表現の自由」を肯定する意見も散見される。詰まるところ他者を貶め、傷付け、物理的な暴力すらも孕んだ「表現」すらも、同等に肯定されてしまう。
大きく振れた振り子は簡単に反対側に振れてしまうことを忘れてはいけないのだ。

「表現の自由」はアート領域のみに関わる問題ではない。何か自分の意見を発信したり、行動をすること自体が表現だし、その自由は保障されていなければならない。けれど、それが戦略的に他者を貶めるヘイトや暴力と結びついたものであるなら、僕は否定したい。それは「表現の自由」の悪用だ。

二つ目の「i」〜一人称単数の「i」

ここで二つ目の「i」の登場。
本作のメッセージとして一番根底にあるのは二つ目の「i」。一人称単数の「i」だ。
僕が、私が、俺が、といった一人称単数で語ることでしか、複雑な世界を複雑なまま受け入れることはできないし、逆説的に聞こえるかもしれないけれど、他者との共存もできない。
主語が大きくなることの危険性を森達也は何度も何度も、飽きることなく語ってきた。それぐらいしつこくしないと、人間は簡単に「i」を放棄してしまう。そして、「i」を放棄した先にあるのは、止まることのない集団の熱狂と暴力の発露だ。

人間は弱い。自分の信念を貫き通せるだけの勇気を持った人なんてほとんどいない。だからこそ集団、社会、宗教、国家といったコミュニティに属して共生を続けてきた。
コミュニティというセーフティーネットが無いと生きていけないが、コミュニティには常に暴走する可能性が付き纏ってしまう。「i」で向き合えば分かり合えることも、集団化して主語が大きくなると衝突する。それぞれの正しさがあるけれど、その正しさは誰かを排斥している。

分断と二極化がトレンドの世界の中で、中間・グレーゾーンに留まって考え続けることは難しい。決断を迫られる。
それでも悩み続けて、一人称単数で語ることの意味は確実にあるし、そこでしか見えない景色もあるはずだ。

三つ目の「i」〜愛の「i」

三つ目の「i」、愛。
一つ目の「i」に絶望し、二つ目の「i」を貫くことの重要性と難しさを自覚し、三つ目の「i」に希望を見出す。見出したい。
世界はもっと豊かだし、人間はもっと優しい。本気でそれを信じたい。だから悩む。開き直りたくない。
何度でも書く。世界は豊かではないし、人間は優しくないと開き直れば、社会を取り巻くほとんどの問題に心を痛めずに済む。でも、「現実はこうなんだ」という諦観に縋りたくない。
今ここにいる一人称単数の自分から、今そこにいる一人称単数のあなたへの「i(愛)」を忘れたくない。それを手放さなければ、自信を持って「世界はもっと豊かだし、人間はもっと優しい」と言える瞬間が訪れるはずだ。

Text by 菊地陽介

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