見出し画像

【レビュー】『岬の兄妹』間違うことの肯定

一体どれぐらいの絶望を経たら、『岬の兄妹』の2人に想いを寄せることができるのだろうか。
おそらくその願いはほとんど叶わない。
自分の生活圏の中に良夫(松浦祐也)と真理子(和田光沙)が直面することになる世界も現実も存在しない。
もちろん確実に存在する。しかし、見て見ぬ振りをしてきただけだ。
良夫と真理子が生きなければならない現実は、自分が経験することが容易にありうる現実であって、絵空事の現実ではない。

“普通に”生きている筆者にとっては、筆舌しがたい現実であったとしても、日本という国の細部に目を凝らせば、幾多もの良夫と真理子が今も目の前の生にしがみついている。
安全圏から兄妹の人生を“わかった気”になるつもりはない。共感もできない。
安易な理解も共感も本作が剥き出しにした日本社会が与えてくれる気持ち良い幻想に過ぎない。
マジョリティ/強者からの勝手な格付けを、共感といった言葉で包み込み、自分を慰撫する。身勝手すぎる振る舞いだ。

『岬の兄妹』を見た時の率直な感想は、自分が“こっち側”に生きていることの安堵である。
“こっち側”と言っている時点で、手前勝手な“あっち側”を想定しているのであって、無自覚な選民意識が働いていることは批判を受け入れる。
さらに、安堵を感じたのは、自分はまだこの2人ほど辛い人生を経験していないし、これからも経験することはないだろうという根拠の無い思い上がりからである。

そんなはずはない。誰だって良夫と真理子になる契機はある。
自分がイメージしているほど自分の人生は強固なものではないし、社会のセーフティネットは堕ちていく人間に容赦がない。
日本のセーフティーネットの問題点は、内容の妥当性ではなく、セーフティーネットにタッチするまでの過程が困難なことにある。
セーフティーネット存在しているはずなのに、実際にそれを必要としている人は、セーフティーネットの存在すら知らない。

だからこそ、“自己責任論”が肯定されてしまう。
「貧困から抜け出すにはこんなに選択肢があるのに、それをしないから貧困なだけで、自分に甘い」といった、一見するとそれなりの妥当性を感じさせるような物言いが人口に膾炙している。
しかし、それはあくまで“普通に”生きている人にとっては当たり前に見える選択肢なだけであって、明日、これからの数時間をどう生きるかを常に迫られている人にとっては、選択肢でも何でもない。

さらに厄介なのは、多くの人は貧困者の生活を想像するだけの善意を持ち合わせている点である。
偽装された自己責任論によって、大手を振るって貧困者を断罪する者は、それが貧困者に対する誤ったイメージであり、事実誤認であることを認めさせれば良い。
しかし、善意は切り捨てることが難しい。生半可な善意はマイノリティ/弱者を傷付けるだけだが、善意を切り捨てることでマイノリティ/弱者はより厳しい世論に晒されることになる。

「せっかく親切にしてあげているのに」
この後に続く言葉は容易に想像できる。
そしてその言葉は、セーフティーネット自体を廃止していく方向の結論に至る。善意からの行為だったはずなのに、最悪の帰結に繋がってしまう。
そして、マジョリティ/強者の感情と意見がマイノリティ/弱者の生活に直接的な影響を与えるという社会システムが露呈されることになり、逃げ場のない袋小路で絶望に打ちひしがれるのだ。

『岬の兄妹』で良夫がしている行為は、人間としては最低の部類にあたる。
自閉症の真理子に売春をさせて生計を立てている。
さらに、良夫は暴力の行使を厭わない。
それが自分にとっての臨界点を超えてしまった苛立ちや、最低限の生活ができないことから生まれる苦しみに急き立てられてしまった結果だとしても、真理子に暴力を見せつける。
一方で真理子への愛情はあり、その倒錯した振る舞いは“人間の複雑で割り切れない心情”から生まれたものと言うこともできるが、だからと言って行為の正当性が担保されるわけではない。
さらに、良夫は自分自身も身体障害を抱えており、それが最低な行為への自分なりの言い訳としても成立してしまう。

良夫の行為は正当化してよいものではない。
しかし、人間道徳に反しなければ、法を犯さなければ、“普通に”生きることができない社会があるとすれば、それは社会構造自体の欠陥である。
“普通の”人間から見ると良夫も真理子も狂人に見えてしまうし、良夫の行為を否定したくなる。
けれど、2人を救うための一歩は誰も踏み出してくれない。彼と彼女だけが世界に取り残されてしまう。

肇(北山雅康)は世間一般の声を代弁する。
2人の境遇に憐憫を抱きつつ、良夫の行為に憤慨しつつ、最後の一歩を踏み出さない。
“良識ある”人間であればそうするような感情を抱き、そうするような反応をし、そうするような距離感で兄妹と接する。
彼は兄妹をある側面においては救うが、ある側面において見捨ててしまう。
そして見捨ててしまう方の側面からこそ、社会構造の重大な欠陥が表出するのだが、私たちは蓋をしてしまう。そんな欠陥など無かったことにしてしまう。

どうすれば兄妹を救えたのか?
良夫の罪を咎めることはできるのか?
なぜここまでのものを与えられないと、気付くことすらできなかったのか?
突き付けられた刃の鋭利さに、たじろぐことしかできない。

片山慎三監督の演出は、どこか飄々とした空気を感じさせる。コミカルと言えば言いすぎだが、『岬の兄妹』は押し付けがましくもなく、ただ現実を見せつけるだけの現状追認にもなっていない。
それは映画がフィクションであり、しっかりとつくりこまれた「画」を見せてくれることから生まれる印象かもしれない。
起こっている出来事の居たたまれなさ、状況のハードさを考慮すれば、もっと“重厚”な演出を施すこともできたはずだ。あるいは、「リアル」なカメラで2人の現実を生々しく切り取ることも。
しかし、それでは『岬の兄妹』は凡庸な“社会派映画”の枠に押し込められてしまうだろうし、ラストで立ち上がらせる寓話的な世界は顕現しないだろう。

付記しておきたいのは、『岬の兄妹』は現実を相対化して描くことに溺れていない。
ユーモアは常に対象の相対化を孕んではいるが、だからと言って、そこに安住することを良しとしていないことは、ラストカットではっきりする。
単一に描くことが難しい題材を幾重にも重ね合わせ、様々な相対化の回路を経ても、これだけは映さなければならないという強固な意志が滲んでいるラストカットに戦慄する。

フィクションだからこそ、キャラクターを設定して物語ることを手放さなかったからこそ描くことのできた地平がある。
フィクションは“キャラクターが間違うこと”が許されている。
積み重なった“間違い”の果てにしか辿り着けない景色があり、映画に限らずフィクションは「どう間違うのか」の挑戦を繰り返してきた。
現代日本映画において、『岬の兄妹』はその最先端に位置付けられるだろう快作である。

Text by 菊地陽介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?