見出し画像

ショパンの愛弟子リケのレッスン報告 その3

試し弾きがショパンのお眼鏡に適い、弟子入りを許されてレッスンの課題をもらったリケ。
  読み進むままお話しする、ということで、リケがトップに記した朗報を、そのままお伝えしたわけですが、その1839年10月30~31日付の手紙は、細かい字でビッシリ全六枚あり、ショパンに面会するまでの経緯も描写されています。時間的には、前後することになりますが、興味深いのでご紹介しましょう。

1.リケが得たショパンの印象 


まずリケの、試し弾き場面の回想から。

 … (課題に出されたエチュード 、ウィーンじゃ )最初の6曲しかちゃんと弾いていなかったんだけど、プラシー先生もわたしも長すぎると感じて、6番と8番はちゃんとレッスンしなかった。その二曲も含めて、もう、英雄的と言ってもいいほど練習したの。
  これも先生が、私をしんぼう強くみてくれたおかげだわ。本当にありがとう、って伝えてね。そのお蔭でわたし、レッスンにつけることになったんだもの。

ショパンが誰かに、自分の曲を教えることはほとんどないのだし、ものすごく身体も弱ってるしね。それに生徒だって、相手にしきれないくらいいるし。おべんちゃらで片づけられても、仕方がないところだったわ。
  でも聴いているうちに、何かが融けたっていうか、私のことが気に入ってもらえたらしく、レッスンしてもらえることになった。

ショパンに、神のご加護がありますように。練習不足でいたずらに、彼に苦悩を与えることのないよう、最善を尽くすことを誓います。 …

< 連載第一回と同出 >
ショパン1828~30年(ポーランド時代)の音楽部屋、 by Adrian Grycuk wiki/common

リケは自分の立場を、客観的に認識していたようですね。音楽界というのがどう廻っているのか、ウィーンで身近に知っていたことも、メリットだったのでしょう。「率直」という言葉がありますが、変にソレっぽくないというのは、何事においても大切なことだと思います。

 … それにしてもショパン、死人のように血の気がなくて可哀そう。蝋人形のように真っ白だし、発作的にする咳も激しいの。(ウィーンで)見知る姿とあまりに違うので、最初は彼だとは思えなかったくらい。
  でも顔立ちは変わってないし、老けたという訳でもない。なんだか、あの(フランツ)リストに似て見えるけど、もっと瘦せていて神経質な感じ。
髪もリストみたいに長いけど、風に吹かれたような、自然な髪型よ。

 … ということで、とても友好的に別れの挨拶を交わしたの。
わたしが、なんて幸せなんでしょう、貴女の生徒にしていただいて、というとショパンは、じゃあ、この土曜に。アポニー伯爵夫人によろしく言うのを、忘れないようにね。…

< 同上>

ショパンは一年ほどウィーンにいたので、リケが見知っているのも当然ですね。挨拶を交わしたことがある、という記述もありますが、ここは黙っておこうと考えたようです。

よく出てくるアポニー夫人というのは、オーストリア帝国の、在フランス大使であるアポニー伯爵の奥方。みずからもサロンを主宰していて、リケの演奏をとても気に入り、ショパンへの紹介状を書いてくれた、恩人です。
  リケが才能に恵まれていたおかげで、ショパンは二重の意味で、窮地に陥らないで済みました。

2.ショパンに会うのは一仕事


そして手紙の記述は、一週間ほどさかのぼります。

金曜日に伯爵夫人の書が届き、ショパンがつかまらないという話。仕方がないので、取持ち役のシュレージンガーのところに行ってビックリ。執事に彼の伝えた住所は間違いだといわれ、リケは憤慨。

月曜には、はっきりするだろう、と告げられて眠りにつきましたが…。

「その夜にわたし、ジョルジュ・サンドの夢をみたの。一晩中よ。なんだかわたしに、とても優しかったんだけど、思えば予兆(虫のしらせ)だったのかもね。」

明けた月曜日、シュレージンガーが急に午前中やってきて、ショパンと会ったよ、今日会える段取りにしたから、さあさあ急いで、と急かしました。

1838年 パリのタクシー馬車、By Wayne77 — Personal Work, wiki-common

しかし彼は今回も正確な住所を知らず、執事に聞いて初めて正確に判明。Rue Tronchet No. 5 に馬車で向かいました。
  でも、約束の2時に着くと、ショパンは少し出かけているという話。じゃあということで、そのあたりを少し散歩したのですが、まだ帰っていません。守衛は申し訳なさそうに、でも3時にはお帰りです、レッスンの時間ですから、といってサロンに案内してくれました。

これは10月の話ですが、ジョルジュ・サンドとマジョルカ島に転所したのが仇となって、死に瀕する病を患ったショパン。彼がフランスに戻り、サンドの別荘でなんとか回復したのが、5月になってからですから、引っ越しどころではないし、何かと事が多かったのでしょう。

3.ショパンのアパート


というわけで叔母様に、ショパンのアパートを説明するわね。

彼が住んでいるのは一階、階段が苦になるの。入り口をはいると、かなり大きな前室で、左手はたぶん使用人室。正面に扉が二つあって、一つがサロン、もう一つがショパンの私室への入り口だわ。

サロンには明るいグレー系の壁紙が貼ってあって、ものすごく趣味が良い。
小さいけれど機能的な暖炉。ゴウゴウ燃えすぎないように、銅のブリキ板で調整できて、それが熱の反射板になってるみたい。
 上は大理石の暖炉棚になっていて、ランプが二つと時計、上には大きな鏡が掛かっていて、その左右には花瓶が二つ。どれもこれも、きれいな品々。あっ、ラマルティーヌの「瞑想詩集」
(興味あればウイキ検索を)が載ってるわ。

暖炉の脇には机があって、真ん中に子供の肖像の水彩画が置いてある。そして筆記具類と吸い取り器、みんなエレガント。そしてアルバムが一つ。
  この正面の壁の向かい壁のまえに、プレイエルの最新グランド・ピアノが置いてある。そして椅子が2,3置いてあって、その横がショパンの部屋へのドア。

部屋の入口の横には、赤いディヴァン(安楽ソファ)。向かいの壁には、チャーミングなモスリンの、カーテンが掛かった窓が2つ。壁に沿うレースのカーテンがあって、視線は遮るけれど光は入るの。
  窓と窓の間には、二人掛けのソファとセットの机。そして曲木細工の軽い椅子が何脚かおいてあって、暖炉の前には、全面布を張ったソファと、ボルテール仕様のそれ。前者が青で、後者は茶色の革張り。

というように、ゆっくりと鑑賞する時間があったのだけど、二人のエレガントな女性たちが部屋に入ってきたの。
若い方の人は生徒だと思う。とても礼儀正しく、ショパンはすぐに来るはずですよ、と教えてくれた。 …

< 同上>

ちょっと長くなりましたが、まあ他には載っていないということで、読者の方々へのスペシャルサービス(!)として翻訳しました。

本当は絵画とか、載せられればいいのですが、相応しいものが見つからないもので。
  でも、リケの記述をもとに、CADで3Dを作図すれば、けっこう実際に近いインテリアが出現するはずです。試して、出来たら送ってください!

4.アポイントメント

 
… わたしは3通の紹介状を持参したの。グラーフ氏、ヤンサ氏、それにアポニー伯爵夫人のそれ。

やっと、ショパンに会えた!
彼は約束に遅れたことを詫び、私は紹介状を手渡して、口早に言った。
「わたしはウィーンから…   &  望みは…  &  そして伯爵夫人が… 」
するとショパンが、
「あー、伯爵の奥様のアポニー夫人!僕のこと、覚えていてくれた?」

彼が聞き取れるように話したのは、これが初めて。彼は始終ハンカチを口に当て、息が普通に続かないんだもの。
本当にショパンが気の毒で、できることなら、泣き出したいくらいだった。

わたしは、彼とご婦人たちの時間を無駄にしないように、口上を切りあげ、
お話ができる時間と場所を、と頼んだの。
ショパンはお辞儀をして、水曜日の3時に、と言った。

こうだつたの、初対面は。

ここまで書いて長さに気付きました。ということで、第1回のレッスンの様子は、次回にします ( sorry ) 。

でも、少しだけ予告情報を。
ショパンは、与えた課題 Etude op. 10 を、一通り弾かせただけでパス。
そのかわりに、まだ発表されていない自分の新曲を、とり上げたのでした。
そのハードなこと…

いったいどうなるのか、お楽しみに!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?