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子供をリスペクトする

昨日は子供が塾のテストの結果を持って帰ってきました。
冬休みは、2学期までの復習を毎日欠かさずやっていたので、かなり出来はいいだろうとおもっていたのですが、なんと偏差値50切り。。

まぁ結果は残念ですが、テストで間違えが多かったということは成長のチャンスと思って、気を取り直し、何をどのように間違えたのか話合おうとおもいました。

そこで、問題と回答を探して出してきて、と言ったのですが、待てどもなかなか現れず。。結局聞けば、そのそのテスト問題を無くしたとか。。。
それじゃ何の学びも得られないよ・・・モヤモヤ。。

そんなとき子供とどう接するのがよいか。
どうだったら気分を落ち着かせることができるか。


子供と向き合うための大切にしたい指針

ここでそもそも教育ってどうあるべき?と思うのです。
塾に行かせているんだから、いい点とってほしいと思うこと?
それってよく考えると、投資しているんだからその分返してほしいと思うようなものかなと思います。

子供は親のための投資ゲームの対象ではありませんので、その考えではダメだなと思うのです。モヤモヤするのは自分に何が足りていないのか。

その答えの一つは、相手に対する「尊敬」だとおもいます。

アドラー心理学をモチーフに描かれた著書、「嫌われる勇気」の続編、「幸せになる勇気」で引用されていた一文に、尊敬はこう定義されています。

尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである

ありのままの姿を受け入れてくれたら、その子は勇気をもちますよね。
それなのに、その姿は軽視され、ただ良くない結果だけ見て勉強しろ、って言われても、自分はやってるつもりなのにどうしたらいいの?と思うわけです。

水辺で水を飲ませることはできない

人の成長や進歩って、他人の理解や想定の通りに行くものでは決してないし、ましてやまだまだ幼い子供とあれば言わずもがなです。

それなのに、親として自分はここまでやったから、子供はもっとできるはずと思ってしまいがちです(ああ、反省・・・)。アドラー心理学でいう「課題の分離」ができていない状態です。つまり、成長や勇気づけられることは他人の課題なのに、自分の課題にしてしまい、悩んでしまう状態です。

しばしば、「馬を水辺までつれていくことはできても、水を飲ませることはできない」、という例えで言われる状態ですね。

これってわかっているつもりでいても、ついついそうなってしまうのですよね。そこでは相手に対する尊敬が損なわれているのです。

同調ではなく共感

それを克服するために必要なものは「共感」です。

相手と同じ種類の心と人生を持っているとしたらと想像することです。
相手の意見に「自分も同じ気持ちだ」と同意することは同調であって、共感ではありません。

そして、「幸せになる勇気」では、他者に寄り添い想像することであるなら、では共感は技術であり身につけることができると言います。

子供の心を踏みじらないように、彼らの関心に最大の関心をよせ、共感力を高める意識を忘れないようにしたい、と心を改めるのでした。


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