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あの日から10年

2011年3月11日。
あの日の記憶は鮮明だ。

僕は当時、地元(富山県)で大学職員として働いていて、発生時刻も机に座って事務作業をしていた。なんとなく、身体に揺れを感じて近くの人に確認したものの反応が悪く、近くにあるプールの水面が波打っているのも指差しながら「やっぱり地震じゃん!」と言った。

それが僕の「14時46分」の出来事だった。

偶然にもその日は早上がりの日で、自宅に帰ると母親が愕然とした表情でテレビを見つめていた。信じられないほど大きな津波が街をどんどんと飲み込んでいる。人生で観たことがない映像がそこには流れていて、僕もしばらく無言でテレビを見つめてしまった。

それが僕の「3月11日」の記憶。

あの日の記憶は今も鮮明に脳裏に焼き付いていて、これがまさに「忘れることのできない記憶」であることを、3月11日が来るたびに気付かされる。もしかすると年追うごとに、風化するどころか色濃くなっている気もする。

これは決して僕だけでなく、きっと被災地の人にとっては僕以上に鮮明で、人によっては「絶対に思い出したくもない記憶」なのかもしれない。あの日からついに「10年」という時が経った。

被災地ボランティア

僕は被災地には住んだことはなかったけど、他人事にならなかった理由がひとつある。妹が高校時代に、宮城県の高校に通っていたのだ。しかも、震災当時(2011年)は卒業した年で数日前に地元にこっちに戻ってきたばかりだった。

妹は地震が発生した時、宮城県にいる高校の同級生と電話をしていて、激しい揺れによってコンビニのあらゆるモノが崩れ落ちる中、電話口から同級生を必死に励ましていた。僕よりももっとリアルに、そして強烈なダメージを受けていた。その姿が忘れられない。

震災発生から約1ヶ月半後のGW。僕は大学の先生と数人の学生たちと一緒に被災地である宮城県石巻市に行き、被災地ボランティアに参加した。震災が発生してからしばらくは、ボランティアに行くことすら迷惑になる。そんな声がある中で行くことを決断した。

行かなかったら、きっと後悔する。

なぜ、強くそう思ったかは正直覚えていない。ただ、大学の先生と必死に予定を調整してあらゆる手を使って時間を工面していたことを振り返ると、当時はかなり強い想いに動かされていたように感じる。

被災地までの道のりは、本当に苦しかった。僕らが走っていた高速道路を境にして、右側は津波に飲み込まれ、左側は何事もない街のようだった。ここが僕らが住んでいる日本なのかと愕然として、あまりにも大きなギャップに気持ち悪くなって運転を変わってもらった記憶がある。運転席で気持ち悪くなったのはあの日が初めてで、今もあの日しかない。

被災地に到着すると、大きな畳が歩道橋の上にぶら下がっていたり、信号が意味不明な角度で折れ曲がっていたり、信じられない光景がどこまでも続いていた。そして、日中にも関わらず鳥の鳴き声以外はほぼ無音。「希望を持て」なんて口が裂けても言えない。そんな光景だった。

高台に移動して街を一望すると、さらに海側の悲惨な現状や、テレビで観たまんまの現状が広がっていた。そこでも気持ちが悪くなった。五感が拒否反応を示している。そんな感覚だったことを思い出す。

その後、とある町に入って昼食の炊き出しボランティアを行った。家が流されてコンクリート部分しか残っていないスペースに机を出して、温かいうどんを作った記憶がある。住民の皆さんは、津波によってグチャグチャになった家の中を一生懸命に掃除していた。そして、僕らのボランティアにこれでもかってくらいに感謝してくれた。なんと返したらよいか当時はわからなくて、ただ笑顔を作っていた気がする。

特に印象的だったのは、70代のおばあちゃんの「笑顔」。家の中から30cmは超えているだろう大きな魚を抱えて玄関に出てきて、「家からこんなでっけぇ魚が出てきたぞ!」と周囲に自慢していた。これだけの現状を目の当たりにして、そんな笑顔を見せられるおばあちゃんが当時は不思議だった。

今思えば、僕が来るまでの1ヶ月半の間に、たくさん泣いて、たくさん苦しんで、たくさん落ち込んだはずだ。僕らが絶対に想像できない感情の起伏を経て「前を向くしかない」と覚悟できているからこそ、あんな素敵な笑顔が出てくるんだよなと。あの笑顔も、忘れることができない。

今の自分にできることは何か

その夜、とある大学のグラウンドにテントを貼って一夜を過ごした。被災地にボランティアに来ていた人の多くが、同じように夜の過ごした。事務棟のコンセントにはありえない数の携帯電話が充電されていて、逆に迷惑をかけているんじゃないかって不安にもなった。

凄まじい光景を目にしすぎて眠ることができず、夜中にあたりを少し散策した。夜空には最高の星空が広がっていて、周囲が見えないこともあって「ここが本当に被災地なのか」と思うくらい夜は素敵だった。明日、陽が昇ったらここは「被災地」に戻る。このギャップを毎日過ごすことの辛さすら感じてしまった。

ふと目についたベンチに腰をかけ、目の前にあった木をボーッと見た。特徴もないどこにでもありそうな木だったけど、なぜか見つめてしまった。今でも周囲にこの話をしても信じてもらえませんが、その日僕はその木と「会話」をしました。と言ってもたった一言ですが。

木:「今、あなたにできることは何?」
僕:「えっ、僕ですか?」

なぜ僕に、そんな声をかけたのか。もしかすると、あのベンチに座った人全員に対して声をかけていたのか。未だに謎は解けませんが、あの時の問いこそが僕の今を突き動かす「原動力」になっています。いつかもう一度、あの木の前で喋ることができたら嬉しい。

これはあまりに衝撃的な1日を過ごした僕の幻想なのかもしれませんが、当時の僕にとって「今、あなたのできることは何?」という問いは、クリティカル過ぎました。なんとなく生きていきた自分を初めて本気で後悔した瞬間でもありました。

それから僕は、「今の自分にできることは何か」を常に考えながら毎日を生きるように努力しています。よく周囲から「実行力」を褒めてもらうことがあるのですが、僕にとってそれはある種の「義務」のようなものなんです。

別に背負う義理もないですが、僕らは誰かが生きたかった「今」を生きることができていて、自分の意志で選択して生きることができる世の中で毎日を過ごしています。こんな幸せな日常を一生懸命に生きないでどうするんだ。時々、自分にそう問いを立てて奮い立たせています。

東日本大震災は、僕に「本気で生きる意味」を与えてくれました。誰かを助けるつもりで行ったボランティアでしたが、結果的に自分の根底を見つめ直す機会にもなりました。あの時は想いだけだったけど、動いてよかったなと今も思っています。

僕ができること

震災以降、なるべく3月11日は何かしらの「メッセージ」を残そうと思って、これまでも新聞にメッセージを投稿したり、SNSで想いを綴ってきたりしました。10年という節目である今年(2021年)は、「note」に想いを書き留めておきたいと思い、今、この記事を書いています。

他にも少額ながら細々と募金をしたりと、遠隔地の僕でも被災地に協力できることがあればと思い、人に言えるほど立派なことはありませんが「できること」をやっています。

そしてもうひとつ、震災をきっかけに決意したことがあります。それは「起業」です。大学生の頃からぼんやりと思い描いていた夢でしたが、「できることをやる」と決意して準備を進め、24歳の時に今の会社を創りました。

僕の起業は「できること」の延長線だったので、当時はビジネスとして画期的なモデルではなかったかもしれません。しかしながら、今もこうして事業を継続することができています。いくつか会社も作って、事業も少しずつ広がっています。

実は今年、今までチャレンジしてこなかった「ビジネスプランコンテスト」にいくつか出場しています。心機一転、「起業家」ではなく「経営者」として、新しいチャンレンジがしたいと思ったからです。これも僕にとっては「できること」のひとつに過ぎませんが。

多くの人が苦しみ、悲しんだ10年。その痛みは決して消せるものではありません。僕にできることは、それ以上の「ハッピー」を世の中に作っていくことだと思っています。あの震災があって、今の僕があります。そして、僕が全力で生きる「理由」があります。

3月11日は、決意を表明する日。
これからも、突き進もう。

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