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吃音が心に残っている

かつて留学先の同僚の中に印象的なオランダ人がいました。

もともと彼とは所属先も仕事も異なっていて、たまたま同じセミナーに出ていたから見知っている、という程度の関係でした。

ただ、ちょっと気になっていることがありました。

発表のとき、すごい吃音だったことです。

おしゃべり上手のオランダ人だって、緊張して「どもり」が出たりするのかな?なんてと思っていました。

そんな彼と、ある日の夕方開催された飲み会で隣り合ったことをきっかけに初めて直接話す機会がありました。
そしてすぐにわかったのは、彼は発表の緊張でどもっていたのではなく、常に吃音だったのです。

当時、ただでさえ英語がわからないときがあったのに、さらに吃音だったため初め私はわかるだろうかとドキドキしました。

でも、彼はおかまいなし。まくしたてるし、私に質問しています。
うまく話せない日本人、吃音のオランダ人。

文化の違いやオランダ人の考え方について話したと記憶しています。
自分達の国は小さい、だから多様な考えを取り入れていくことは抵抗ないし、その方が合理的だと思う。彼はそのようにオランダのことを言っていたと思います。

そんな感じで、噛み合わなさそうな初対面の二人が、必死に伝えようと話をする。なんだか結局、打ち解けていきました。

今から十五年も前の話なのに、沈まない夏の夕日をみながら、ハイネケン片手に吃音の彼と話した光景はよく覚えています。

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月並みですが、結局コミュニケーションの本質は流暢さにはないのだと思います。

むしろ流暢すぎる人の話はかえって頭に入ってこないこともあります。

滝のようにどーっと流れていく言葉は、すくなくとも私の脳の中ではここちよい音楽のように変換され、言語の領域に響くことなくむしろ芸術の感性が刺激されてしまいがちです。

要は「何やらを言いたいことがかよーわからんけど、うつくしいなぁ」というだけになってしまうので、流暢な人の前ではついていくために、むしろ気を張っている自分がいます。

流暢さはあればいいけど、そんなことよりもむしろ伝えたいことを持つこと、それを伝えようとする心、そして良い時間を過ごせたことに感謝する気持ちが大事だと、私は思います。


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