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新儒教における世界観
以下では、新儒教の創造主は儒教系統の世界観を提示する。宗教が異なると、世界観それ自体が異なる。そのため、異なる信仰者は互いに意思疎通することができない場合がある。一般的に、世界観は宗教や生活形態、自然観の影響を受けるように見える。自然観は現実観や実際観と言っても良いかもしれない。

例えば、西欧白人の世界観はキリスト教とユダヤ教、牧畜という生活形態、そして近代科学の影響を受けている。キリスト教とユダヤ教的な世界観では、この世界は唯一に創造主によって創造された。その世界観では、神の言葉は現実の世界よりも優先される。そのため、その信仰者は自然をしばしば否定してきた。牧畜的な世界観では、奴隷の存在が前提とされて、自由な人と奴隷、家畜と野生動物が存在する。そのため、労働は奴隷の仕事とされ、怠惰が肯定されたり、自由が過剰に重視される。

また、西欧白人は科学的な世界観も持っている。その世界観はローマやギリシアを含む古代地中海から生まれた。近世以降、西欧白人は古代地中海発祥の科学を発達させて、機械論的な自然観を提示した。そこでは、自然界は機械のような何かになった。その結果として、彼らは動物的なものや人間的なものを排除して、映画「マトリックス」のような反自然、かつ超人工的な世界を構築してきた。

以下では、新儒教の創造主は儒教系統の世界観を提示する。その世界観は新儒教と農耕的な世界観からなる。自然観は極めて現実的、実際的である。


1. 世界における世界観

1. 世界観

初めに、新儒教の創造主は世界観が何であるのかを便宜的に提示する。現時点では、彼はそれを厳密に定義したり、正確に認識することができない。下記は便宜的なものである。

儒教系統の決まり1 x教系統の世界観はx教徒が信仰する世界である。

この世界は宗教と生活形態、現実観からなる。つまり、ある世界は宗教と生活形態と現実観の組みである。上記を書き換えると、x教系統の世界観はx教徒が信仰する宗教と生活形態と現実観の組みである。この現実観は自然観や実際観でも置き換えられる。新儒教をxに代入すると、新儒教系統の世界観は新儒教徒が信仰する世界である。 所属と世界観世界観はある主体がどの世界に所属しているのかを示す。

儒教系統の思考規範1 もしある主体がx教系統の世界観を信仰しないならば、その主体はx教に所属しない。

例えば、現実的にも、もしある東洋人がこの世界はヤハウェやアッラーによって創造されたと信仰するならば、その東洋人は東洋文明に馴染めない。その東洋人は他の東洋人と意思疎通することに苦労する。なぜなら、東洋人の大部分はそのような世界観を持っていない。このように、ある主体がどんな世界観を信仰するのかはその主体がどの世界に所属するのかを暗示する。

なお、新儒教を上記のxに代入すると、もしある主体が新儒教系統の世界観を信仰しないならば、その主体は新儒教に所属しない。対偶を取ると、もしある主体が新新儒教に所属するならば、その主体は儒教系統の世界観を信仰する。なお、思考規範1の対偶を取ると、もしある主体がx教に所属するならば、その主体はx教系統の世界観を信仰する。


2. 牧畜的な世界観

ここでは、新儒教の創造主は牧畜的な世界観を提示する。漢民族や大和民族は農耕民族であり、後者は狩猟や漁労の性質をより強く持っている。そのため、彼らは牧畜的な世界観が何であるのかをうまく認識していないように見える。そこで、彼は牧畜的な世界観を簡単に提示する。

儒教系統の認識1 牧畜的な世界観では、家畜や奴隷の存在が前提とされている。

動物には、野生動物と家畜が存在する。野生動物は自由であるが、家畜は自由でない。人間には、自由人と奴隷が存在する。自由人は自由であるが、奴隷は自由でない。牧畜的な世界観では、自由や自由意志は人間を家畜や奴隷から区別する本質になる。家畜や奴隷はそれらの所有者の資産である。

この世界観は労働観にも強く影響する。牧畜的な世界観では、労働は家畜や奴隷の仕事である。牧畜民は労働に関して怠惰であり、彼らは貧しくなる可能性がある。実際、モンゴル人も東欧白人もあまり豊かでない。西欧白人はキリスト教をカトリックからプロテスタントへと宗教改革した結果、労働が尊ばれて、彼らは近代において豊かになった。ただし、彼らは黒人奴隷やアメリカ先住民を含むモンゴロイド奴隷を使役して、豊かになっている。

植民地主義も牧畜民的である。牧畜民は奴隷や人間を使役することに長けているが、搾取の対象がなくなると、貧しくなり、落ちぶれる。なお、西欧白人が自由を重視するのは、彼らが奴隷を所有して、奴隷の存在を前提とした社会を形成してきたからである。アメリカ合衆国が自由を重視するのは、西欧白人は黒人を奴隷にしてきたからである。

なお、牧畜民の特徴には、次がある。牧畜民は軍事や統治に長けている。牧畜民は文字や都市や官僚制度を持たない。牧畜民は土地に執着しない。牧畜民は父系に執着するが、土着の雌と抵抗なく交雑する。牧畜民は過去や自己を正確に認識しない。言い換えると、牧畜民は自己の歴史を認識していないように見える。また、牧畜民の自己認識(アイデンティティ)は奇妙に見える。

一方、農耕民は労働や商売に長けている。農耕民は文字や都市や官僚制度を持つ。農耕民は土地に執着する。農耕民は牧畜民よりも父系的でない。農耕民は過去や自己をより正確に認識する。


3. 一神教的な世界観

代表的な一神教には、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が存在する。これらの宗教はアブラハムの宗教と呼ばれている。アブラハムの宗教は独特な世界観を持っているように見える。

儒教系統の認識1 一神教的な世界観では、世界は唯一の創造者によって創造された。

一神教的な世界観では、この世界は自然に発生したのでなく、それは創造された。さらに、この世界は唯一の創造主によって創造された。これが一神教的な世界観であるように見える。要点は創造説と創造者の唯一性である。一方で、多神教的な世界観では、この世界は自然に発生したか、元々存在した。そして、様々な神が自然界には宿っている。多神教では、創造という認識がそもそも存在しない場合がある。

なぜ創造説が古代の中東で生まれたのかは不明である。しかし、古代の中東人は次のように考えた可能性がある。人間社会や国家や文明は自然には発生しない。それらは人間によって人工的に創造される必要がある。もしそうであるならば、この世界もまた何かによって創造された可能性がある。その結果、創造説が生まれた。この種の思考はそれほど不自然でないように思える。何かを人工的に作る必要がある環境では、創造説が生じるかもしれない。

創造説の唯一性に関しては、現実的には、生存競争の激しさの結果である可能性がある。古代の中東には、様々な民族が流入してきた。そして、彼らは様々な神々を信仰していた。この時、どの神が正しいのかという問いが生じるのは自然であるだろう。神がたくさん存在するとき、正しさの基準もたくさん存在してしまう。この時、民はどの正しさが正しいのかと途方に暮れる。この迷いの解決案の一つが創造主の唯一性であるかもしれない。

儒教系統の認識2 一神教的な世界観では、唯一の正しさが存在する。

言い換えると、一神教的な世界観では、唯一の正しさが存在する。唯一の善悪の基準が存在する。つまり、真理が存在する。そして、その唯一の正しさに反する何かは悪であり、正しくない。また、一神教的な世界観では、神の意志も目的も一つである。神の意志や目的に沿った行為も唯一である。

実際、外交的にも、西欧白人は自己の正しさや自己の唯一の善悪の基準を世界へと強制してきた。この種の行為は極めて一神教的であるように見える。彼らはこの世界には唯一の正しさが存在して、彼らが唯一の正しさを持っていることを正しいと考えているように見える。だから、彼らは彼らの押し付け行為の善性を正当化している。

一方、多神教では、人それぞれという考えが強いように思える。実際、多神教の世界に住む人々は自己の宗教をあまり強制しない。インド人も漢人も移住先で宗教的な問題を起こしていない。
さらに、インドも中国も自国の価値観を外交的に強制しない。

儒教系統の認識3 一神教的な世界観では、自然界は必ずしも正しくない。

言い換えると、その信仰者は自然界の存在や状態や運動を正しいと考えない。正しいと考えると信仰するとすると、その信仰者は自然界の存在や状態や運動を信仰しない。一神教では、信仰の対象は唯一の創造者であり、自然界でない。自然界それ自体は神でない。自然界は信仰する対象でない。つまり、自然界は正しいと考える対象でない。

例えば、その信仰者は太陽の存在や状態や運動を正しいと考えない。彼らは神の言葉を優先する。その結果として、例えば、イスラム教徒のパキスタン人は現在でも地動性を正しいと考えない。なぜなら、彼はアッラーの言葉を優先している。西欧では、進化論に関する話題がある。キリスト教徒の白人のアメリカ国民を進化論を正しいと考えない。なぜなら、彼らは自然界をそもそも正しいと考えていない。だから、彼らは神の言葉を進化論に優先させる。

一方で、多神教徒は自然界を正しいと考える。なぜなら、彼らは自然界を信仰している。彼らは太陽の存在や状態や運動を正しいと考える。そのため、もし自然界が近代科学によって分析されると、彼らはその分析を正しいと考える。つまり、彼らは分析された自然界を信仰する。

多神教では、信仰対象は自然の中に存在する。自然の存在や状態や運動は神の存在や状態や運動として常に正しいと考えられている。そのため、自然の存在や状態や運動を近代科学などで分析すると、多神教徒はその分析を正しいものとして受け入れる。なぜなら、彼らは自然を信仰している。


4. 機械論的な世界観

近代科学の発展以降、西欧白人は機械論的な世界観を持ってきた。西欧白人はこの世界を機械と見做した。その結果、彼らは科学技術や近代科学や近代数学の分野で成功を収めた。ここでは、新儒教の創造主は機械論的な世界観を認識する。

儒教系統の認識1 機械論的な世界観では、世界は機械である。

より正確には、機械論的な世界観では、自然界は機械である。世界は機械であるので、その世界はある種の法則に沿って完全に自動的に運動する。物質も動物も人間も完全に自動的に運動する。そこには、自由も自由意志も存在しない。人々は自己の人生も商品の購入も何も彼らの意志で選択することができない。宇宙の始まりから現在まで、この世界の全てはある種の法則に沿って完全に自動的に運動してきた。当然、目的も存在しない。

儒教系統の認識2 機械論的な世界観では、感情や内面や意図が軽視される、かつ外面のみが重視される。

機械論的な世界観では、世界は機械である。機械は感情や内面や意図を持たない。だから、x教系統の人間も感情や内面や意図を持たない。機械論的な世界観では、x教系統の人間は機械であるので、彼らは感情や内面を持たないものとして考えられるように見える。

なお、古代の人々は自己の内面や意図、感情や性を物質に投影した。その結果、太陽や天空が感情や性を持つようになった。太陽や天空は男性神であり、月は女性神である。彼らは人間のような感情や意図、内面を持っていた。機械論的な世界観では、人々は彼らの内面を世界に投影しないので、彼らは内面や意図、感情や性を物質の中に見えない。その一方で、彼らは機械や物質を動物や人間に投影するようになった。機械や物質を動物や人間に投影すると、人間は感情や内面や意図を持たなくなる。

古代と現代では、投影の向きが完全に逆になっている。古代では、人々は自己を物質に投影した。その結果、物質は人格や性、内面や感情をもつようになった。現代では、人々は物質を動物
や機械に投影するようになった。その結果、人間の感情や意図、人格や性は軽視されるようになった。

儒教系統の認識3 機械論的な世界観では、理性が信仰される場合がある。

言い換えると、機械論的な世界観では、理性の働きが正しいと考えられる。この理性は思考である、その思考は計算可能性や論理性に関係する。


2. 儒教系統の基本的な世界観

1. 認識

新儒教の創造主は儒教系統の認識を提示する前に、彼は認識について述べる。一般的に、人種や宗教や文明が異なると、世界に対する認識が互いに異なる。新儒教では、創造主は儒教系統の認識に基づいて、世界観を提示する。

儒教系統の認識1 x教系統の認識はx教徒が行う認識である。

新儒教をxに代入すると、新儒教系統の認識は新儒教徒が行う認識である。なお、教を人種に変更すると、x人種系統の認識はx人種が行う認識である。実際、白人の認識と東洋人の認識は互いに異なる。大和民族と漢民族の認識は互いに近い一方、大和民族とゲルマン民族の認識は互いに遠い。

例えば、ユダヤ教徒の白人はユダヤ人になるのは、おそらく認識の違いである。東洋人の大部分はユダヤ教徒の白人を白人と認識している。人々が人種や民族について会話するとき、認識の違いが明らかになるように思える。

認識するが何であるのかは不明である。しかし、認識するは把握するに近い。ある人間が痴呆になると、その人間は彼の孫を認識することができない。しかし、その人間はその孫を知覚している。


2. 省略

新儒教の創造主は下記の省略形を提示する。

儒教系統の決まり1 新儒教の創造主は「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのは」を省略する。

その主体には、新儒教の創造主も含まれる。別の形式には、「もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は」がある。例えば、下記の例では、もしある主体が儒教徒であるならば、その主体が認識するのはこの世界は物質なものと動物なものと人間的なものからなっている。また、彼は認識を把握と置き換える。

儒教系統の決まり2 新儒教の創造主はある儒教徒はに置換される。

例えば、新儒教の創造主は自己の肉体を知覚するは、ある儒教徒は自己の肉体を知覚するに置換される。


3. 3種類の対象

新儒教の創造主は次の世界観を提示する。この世界は物質と動物と人間からなっている。

儒教系統の認識1 この世界は物質なものと動物なものと人間的なものからなっている。

または、この世界は物質なものと動物なものと人間的なものの組である。物質的なものには、太陽や川が存在する。動物的なものには、サピエンスや猫や犬や昆虫が存在する。人間的なものには、x教系統の人間が存在する。植物や微生物、細菌は分類が難しいが、植物や細菌は物質と動物の中間あたりであるように見える。彼はある種の生命のような何かを植物に感じる。

機械論的な自然観では、世界は機械とみなされた。古代の神話の世界では、人間が物質に投影されて、物質が人格や性や感情を持った。新儒教では、世界は完全な機械でもなく、物質が性や人格を人間のようにもつような何かでもない。世界には、物質と動物と人間が存在する。


4. 3種類の運動

上記では、新儒教の創造主はこの世界は物質と動物と人間からなっていると提示した。さらに、彼はその3種類の対象は互いに異なる3種類の運動を持っていると提示する。つまり、運動には、自動的な運動と非自動的な運動と目的的な運動がある。

儒教系統の認識1 物質なものは自動的に運動する。

または、物質なものは自動的に運動している。例えば、太陽は完全に自動的に運動しているように見える。より正確には、太陽は自然法則に沿って完全に自動的に運動しているように見える。
それに対して、動物はそうでない。

儒教系統の認識2 動物なものは非自動的に運動する。または、動物なものは非自動的に運動している。

例えば、ヒグマや象は完全には自動的に運動していないように見える。当然、ヒグマや象の運動には、完全に自動的な運動がある。進化論に関しても、それぞれの動物は何らかの意志を持って進化してきたように見える。しかし、この意志が目的的な運動の結果であるのか、非自動的な運動の結果であるのかは不明である。

儒教系統の認識3 人間なものは目的的に運動する。

または、人間なものは目的的に運動している。例えば、キリスト教徒はキリスト教を信仰している。彼らは社会活動や政治活動で、社会をキリスト教化させるという明確な目的を持って、活動している。この種の強い目的はx教系統の人間に頻繁に観察される。

また、動物でも、カラスなどは目的的に運動しているように見える。例えば、カラスは木の実を道路の上に置いて、自動車に割らせようとする。これは単なる本能でなく、カラスによる経験と未来予想の結果であるように見える。


5. 運動の程度

新儒教の創造主は運動の程度を提示する。上記では、彼は自動的な運動と非自動的な運動と目的的な運動を提示した。しかし、この種の運動には、程度があるように思える。

儒教系統の認識1 動物的なものは0か1でなく、連続的である。

例えば、昆虫は高等動物よりもより自動的に運動しているように見える。昆虫はより機械的に運動している。魚はサピエンスよりも自動的に運動しているように見える。このように、運動の非自動性には、程度があるように見える。

儒教系統の認識2 人間的なものは0か1でなく、連続的である。

目的的な運動も同様である。目的性にも、程度があるように見える。カラスは木ノ実を道路の上に置いて、車に轢かせる。この運動は極めて目的的である。ただ、x教系統の人間の目的はより目的的である。西欧の宣教師を見ればわかるように、宗教を持っている人間はより目的的に運動しているように見える。商人や外交官も同様である。


6. 世界の物語

上記を使用して、新儒教の創造主は対象とその運動の発展を提示する。

儒教系統の認識1 物質は完全に自動的に運動していた。動物が生まれた後、動物は非自動的に運動するようになった。人間が生まれた後、人間は目的的に運動するようになった。

上記を一種の文と解釈する。より物語には、初め、物質は物理法則に沿って完全に自動的に運動していた。動物は物質的な世界から少し解放されて、非自動的に運動するようになった。人間は彼らの目的を彼ら自身で創造して、その目的に沿って運動するようになった。

7. 自己の肉体

新儒教の創造主は自己の肉体に対する思考を提示する。なお、下記の認識は把握に近いかもしれない。

儒教系統の認識1 新儒教の創造主は自己の肉体を知覚する。
儒教系統の認識2 新儒教の創造主は自己の肉体を認識する。

肉体それ自体は物質である。知覚と認識は異なる。例えば、痴呆老人は自己の肉体を知覚するが、自己の肉体を認識していない。また、自己認識(self-awareness)を持たないサピエンスも自己の肉体を認識していないように見える。なお、上記の認識は儒教系統の認識である。そのため、上記は、正確には、新儒教の創造主は自己の肉体を儒教系統の認識で認識する。

非自己に関しては、次がある。彼は非自己の肉体を知覚する(1.1)。彼は非自己の肉体を認識する(1.2)。番号は認識1.1と認識1.2である。


8. 自己の意識

新儒教の創造主は自己のに対する感覚を提示する。なお、下記の認識は把握に近いかもしれない。または、彼は下記を一種の公理や原理、前提と考える。

儒教系統の認識1 新儒教の創造主は自己の感覚(意識)を把握する。

感覚(意識)には、視界や聴覚界や嗅覚界や触覚界や味覚界がある。その他には、性欲や感情、記憶がある。

儒教系統の認識2 自己の感覚(意識)は物質でない。

自己の感覚は自己の肉体でない。例えば、視界それ自体は物質でない。しかし、視界が生じる基盤である脳や目それ自体は物質である。同様に、性欲それ自体は物質でないが、性欲が生じる基盤である脳や性器それ自体は物質である。


9. 非物質の存在

自己の感覚それ自体は物質でない。この時、世界には、物質でないものが存在する。新儒教の創造主はこの事実を提示する。そして、彼はこの事実を儒教系統の世界観に組み込む。

儒教系統の認識1 物質でない何かがこの世界に存在する。

自己の意識の認識2により、物質でない何かは自己の感覚(意識)である。上記は当然であるように見えるが、上記の認識は世界の全てが物質であることに反する。実際に、自己の感覚(意識)それ自体は物質でない。現実的に、物質でない何かがこの世界には存在している。そして、その事実は実際である。

機械論的な世界観では、世界の全ては機械からなっている。または、世界の全ては物質からなっている。しかし、上記の認識1を使用すると、機械論的な世界観は実際でない。なぜなら、自己の感覚(意識)が存在する。その感覚は物質でない。つまり、物質でない何かが存在する。

ただし、自己の感覚(意識)が何らかの法則に沿って自動的に運動しているのかは上記の認識からはわからない。また、自己の感覚(意識)が運動しているのかも不明である。ただし、感覚的には、自己の感覚(意識)は何らかの状態を持っているように思える。


10. 非自己の意識

上記では、新儒教の創造主は自己の感覚を把握した。しかし、現実的には、彼は非自己の感覚を把握することができない。つまり、ある人間は自己の感覚を把握するが、非自己の感覚、つまり他人の感覚を直接的に把握しない。

儒教系統の認識1 新儒教の創造主は非自己の感覚(意識)を把握しない。

上記も当然であるように見える。しかし、彼は自己の感覚を把握するが、非自己の感覚を把握しないのは非常に奇妙な現象である。彼はその事実を記録する。


11. 中の人

新儒教の創造主は自己の感覚を把握した。例えば、彼は彼の視界を見ている。この時、何が彼の視界を見ているのかが問題になる。彼はその何かを中の人と便宜的に呼ぶ。

儒教系統の認識1 新儒教の創造主は自己の中の人を把握する。

上記の解釈は次である。彼の肉体が存在する。彼の意識が肉体を基盤として発生する。そして、彼の意識を把握する中の人が存在する。つまり、中の人は運転手のようなものである。肉体は車体であり、感覚は車内の立体映像のような何かである。その映像は車体によって作られている。この宗教では、彼は視界それ自体と視界を把握する自己を便宜的に区別する。中の人を仮定すると、所有の主体や損害の主体がはっきりとする。

儒教系統の認識2 自己の中の人は物質でない。
儒教系統の認識3 自己の中の人は自己の意識でない。

彼の中の人は物質でも、意識でもない。視界を発生させる物質的な基盤が存在して、その基盤が視界という非物質を発生させる。そして、その非物質を把握する主体が存在する。この時、自己の視界それ自体は自己でない。

儒教系統の認識4 新儒教の創造主は非自己の中の人を把握しない。

上記は非自己の意識と同じである。彼は非自己の中の人、つまり他人の中の人を外面から把握することができない。


12. 物質と意識と中の人

上記では、新儒教の創造主はこの世界には、物質的なものと動物的なものと人間的なものが存在すると提示した。ここでは、さらに、彼はこの世界には、物質と意識と中の人が存在すると提示する。前者は外面的なものであり、後者は外面的なものでも、内面的なものでもある。

儒教系統の認識1 新儒教の創造主は物質と自己の意識と自己の中の人を把握する。

言い換えると、物質と自己の意識と自己の中の人が存在する。つまり、この世界には、非物質が存在する。非物質には、2種類の非物質が存在して、それらは意識と中の人である。しかし、他人の意識や他人の中の人は直接的には把握されない。

なお、中の人の作用が目的的な運動を導出しているのかは不明である。同様に、意識の作用が非自動的な運動を導出しているのかは不明である。しかし、意識を持つ主体は非自動的に運動しているように見える。

機械論的な世界観では、世界は機械であった。世界の全ては物質であった。しかし、意識と中の人を仮定すると、世界の全ては物質でない。少なくとも、物質でない2種類の何かが存在する。

13. 中の人を仮定しない場合

上記では、新儒教の創造主は自己の中の人を仮定した。ここでは、彼は中の人を仮定しない場合を考える。

儒教系統の認識1 新儒教の創造主の主体は意識それ自体である。

より正確には、新儒教の創造主の主体は意識の性質か何かである。例えば、新儒教の創造主の主体は視界それ自体になる。ただ、この場合、メガネをかけたり、外したりすると、視界が明瞭になったり、はっきりしたりする。新儒教の創造主の主体それ自体が眼鏡の有無で変化することになる。

例えば、仏教では、無我という考えが存在するらしい。これをうまく解釈すると、自己の視界それ自体が自己である可能性がある。この時、世界に存在するのは、肉体という物質と自己の感覚(意識)の2つである。中の人を仮定する場合、世界に存在するのは、肉体という物質と自己の感覚(意識)と中の人という3つである。


14. 人称に関する現象

新儒教の創造主は自己の意識や自己の中の人を把握した。しかし、彼は非自己の意識や非自己の中の人を把握していない。彼はこれを一つの現象として提示する。

儒教系統の認識1 xはa人称で把握される、かつxはb人称で把握されない。

言い換えると、「xはa人称で把握されるが、xはb人称で把握されない」が成り立つ。xには、意識や中の人が代入される。実際に代入すると、彼は次を獲得する。意識は1人称で把握される、意識は2人称及び3人称で把握されない。中の人は1人称で把握される、意識は2人称及び3人称で把握されない。

例えば、彼は他人の意識と他人の主体を外部から把握することができない。しかし、彼は他人も同じ肉体を持っているので、他人も自己と同じ意識や主体を持っているだろうと推論、または憶測してきた。彼はこの推論や憶測を必ずしも前提としない。つまり、彼は上記を人称現象と便宜的に呼び、彼はその現象を奇妙で新しい現象と認識する。つまり、彼は他人の意識や主体は彼視点では把握しない。


15. 表現する

上記で見たように、新儒教の創造主は非自己の意識や非自己の中の人を把握することができない。同様に、彼は他人の内面や認識や善悪、欲求や意志、民族や国民、宗教や文明を外部から把握することができない。そこで、彼は表現を重視する。一般的に、表現の手段は言葉である。

儒教系統の決まり1 表現するは行為である、かつそこである主体は1人称で存在する何かを自己の外部へと出す。

または、表現するは行為である、かつそこである主体は1人称で存在する何かを非自己へと伝達する。口語的には、表現するとは、ある主体が2人称や3人称ではわからない何かを他者に伝達することである。例えば、自己の意識や自己の中の人、自己の認識や自己の判断は2人称や3人称ではわからない。だから、ある主体はその認識や判断を言葉で表現して、他者に伝達する。それが表現することである。


16. 表現と所属

一般的に、大和民族は彼らの自己を彼らの言葉で表現しない。にも関わらず、彼らは彼らの自己を非自己に外部から読み取らせようとする。彼らは彼ら自身の意識や中の人が存在することを彼らの言葉で表現しない。しかし、彼らは非自己が彼らにも彼ら自身の意識や中の人が存在することを読み取ってもらおうとする。新儒教の創造主はこの種の甘えを防止するために、彼は次を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が自己の意識を表現しないならば、その意識は人間社会に所属しない。

たとえその主体が自己の意識を表現しないとしても、その主体の意識は学術的には存在するかもしれない。しかし、その主体の意識は人間社会には所属しない。人間社会では、その主体は自己の意識を持たない機械と同じである。つまり、その主体は「俺は自己の意識を把握する。」と表現する必要がある。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が自己の中の人を表現しないならば、その中の人は人間社会に所属しない。

上記も同様である。その主体は「俺は自己の中の人を把握する。」と表現する必要がある。なお、人間社会はx教系統の人間社会である。一般化すると、次になる。

儒教系統の思考規範3 もしある主体が自己のxを表現しないならば、そのxは人間社会に所属しない。

なお、彼は表現を人間性の一種と認識する。実際、人間のみが自己を言葉という手段を使用して、正確に表現する。自己の表現は人間を動物から区別する。


17. 人称に関する思考規範

感覚的には、非自己のサピエンスもまた自己の意識や自己の中の人を持っている。なぜなら、彼らもまた同じ肉体や同じ脳を持っている。以下では、新儒教の創造主はこの憶測を思考規範として整備する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が肉体aを持つならば、その主体はその肉体aに対応する意識aを持つ。

肉体aをサピエンスの肉体と仮定する。この時、もしある主体がサピエンスの肉体を持つならば、その主体はサピエンスの肉体に対応するサピエンスの意識を持つ。上記の思考規範を使用すると、彼はたとえ彼が非自己の意識を把握することができないとしても、彼は非自己の意識が存在することが実際であると考えることができる。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が肉体aを持つならば、その主体はその肉体aに対応する中の人aを持つ。

上記も意識と同様である。肉体aをサピエンスの肉体と仮定する。この時、もしある主体がサピエンスの肉体を持つならば、その主体はサピエンスの肉体に対応するサピエンスの中の人を持つ。上記の思考規範を使用すると、彼はたとえ彼が非自己の中の人を把握することができないとしても、彼は非自己の中の人が存在することが実際であると考えることができる。そして、その中の人はハエの肉体の中の人と異なる。


18. 思考規範に関する信仰について

ここで、新儒教の創造主は上記の思考規範を信仰することについて述べる。上記では、彼は思考規範を提示したが、結論を導くためには、彼は上記の思考規範を正しいと考える必要がある。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が人称に関する思考規範の思考規範1を正しいと考えるならば、その主体は意識aを持つ。

つまり、その主体が意識aを持つためには、人称に関する思考規範の思考規範1だけでは不十分である。彼自身が人称に関する思考規範の思考規範1を正しいと考える必要がある。その時、彼はその主体は意識aを持つことを導くことができる。

具体的には、彼は非自己の意識が存在することが実際であると考えることができるためには、彼自身が人称に関する思考規範の思考規範1を正しいと考える必要がある。そうでない場合は、結論を導くことができない。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が人称に関する思考規範の思考規範2を正しいと考えるならば、その主体は中の人aを持つ。

上記も同様である。同様に、彼は非自己の中の人が存在することが実際であると考えることができる。ためには、彼自身が人称に関する思考規範の思考規範1を正しいと考える必要がある。
そうでない場合は、結論を導くことができない。


3. 自由意志について

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