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以下では、新儒教の創造主は儒教系統の世界観を提示する。宗教が異なると、世界観それ自体が異なる。そのため、異なる信仰者は互いに意思疎通することができない場合がある。一般的に、世界観は宗教や生活形態、自然観の影響を受けるように見える。自然観は現実観や実際観と言っても良いかもしれない。

例えば、西欧白人の世界観はキリスト教とユダヤ教、牧畜という生活形態、そして近代科学の影響を受けている。キリスト教とユダヤ教的な世界観では、この世界は唯一に創造主によって創造された。その世界観では、神の言葉は現実の世界よりも優先される。そのため、その信仰者は自然をしばしば否定してきた。牧畜的な世界観では、奴隷の存在が前提とされて、自由な人と奴隷、家畜と野生動物が存在する。そのため、労働は奴隷の仕事とされ、怠惰が肯定されたり、自由が過剰に重視される。

また、西欧白人は科学的な世界観も持っている。その世界観はローマやギリシアを含む古代地中海から生まれた。近世以降、西欧白人は古代地中海発祥の科学を発達させて、機械論的な自然観を提示した。そこでは、自然界は機械のような何かになった。その結果として、彼らは動物的なものや人間的なものを排除して、映画「マトリック」のような反自然、かつ超人工的な世界を構築してきた。

以下では、新儒教の創造主は儒教系統の世界観を提示する。その世界観は新儒教と農耕的な世界観からなる。自然観は極めて現実的、実際的である。

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1. 世界における世界観

1. 【世界観】

初めに、新儒教の創造主は世界観が何であるのかを便宜的に提示する。現時点では、彼はそれを厳密に定義したり、正確に認識することができない。下記は便宜的なものである。

儒教系統の決まり1 x教系統の世界観はx教徒が信仰する世界である。

この世界は宗教と生活形態、現実観からなる。つまり、ある世界は宗教と生活形態と現実観の組みである。上記を書き換えると、x教系統の世界観はx教徒が信仰する宗教と生活形態と現実観の組みである。この現実観は自然観や実際観でも置き換えられる。新儒教をxに代入すると、新儒教系統の世界観は新儒教徒が信仰する世界である。

2. 【所属と世界観】

世界観はある主体がどの世界に所属しているのかを示す。

儒教系統の思考規範1 もしある主体がx教系統の世界観を信仰しないならば、その主体はx教に所属しない。

例えば、現実的にも、もしある東洋人がこの世界はヤハウェやアッラーによって創造されたと信仰するならば、その東洋人は東洋文明に馴染めない。その東洋人は他の東洋人と意思疎通することに苦労する。なぜなら、東洋人の大部分はそのような世界観を持っていない。このように、ある主体がどんな世界観を信仰するのかはその主体がどの世界に所属するのかを暗示する。

なお、新儒教を上記のxに代入すると、もしある主体が新儒教系統の世界観を信仰しないならば、その主体は新儒教に所属しない。対偶を取ると、もしある主体が新新儒教に所属するならば、その主体は儒教系統の世界観を信仰する。なお、思考規範1の対偶を取ると、もしある主体がx教に所属するならば、その主体はx教系統の世界観を信仰する。

3. 【牧畜的な世界観】

ここでは、新儒教の創造主は牧畜的な世界観を提示する。漢民族や大和民族は農耕民族であり、後者は狩猟や漁労の性質をより強く持っている。そのため、彼らは牧畜的な世界観が何であるのかをうまく認識していないように見える。そこで、彼は牧畜的な世界観を簡単に提示する。

儒教系統の認識1 牧畜的な世界観では、家畜や奴隷の存在が前提とされている。

動物には、野生動物と家畜が存在する。野生動物は自由であるが、家畜は自由でない。人間には、自由人と奴隷が存在する。自由人は自由であるが、奴隷は自由でない。牧畜的な世界観では、自由や自由意志は人間を家畜や奴隷から区別する本質になる。家畜や奴隷はそれらの所有者の資産である。

この世界観は労働観にも強く影響する。牧畜的な世界観では、労働は家畜や奴隷の仕事である。牧畜民は労働に関して怠惰であり、彼らは貧しくなる可能性がある。実際、モンゴル人も東欧白人もあまり豊かでない。西欧白人はキリスト教をカトリックからプロテスタントへと宗教改革した結果、労働が尊ばれて、彼らは近代において豊かになった。ただし、彼らは黒人奴隷やアメリカ先住民を含むモンゴロイド奴隷を使役して、豊かになっている。

植民地主義も牧畜民的である。牧畜民は奴隷や人間を使役することに長けているが、搾取の対象がなくなると、貧しくなり、落ちぶれる。なお、西欧白人が自由を重視するのは、彼らが奴隷を所有して、奴隷の存在を前提とした社会を形成してきたからである。アメリカ合衆国が自由を重視するのは、西欧白人は黒人を奴隷にしてきたからである。

なお、牧畜民の特徴には、次がある。牧畜民は軍事や統治に長けている。牧畜民は文字や都市や官僚制度を持たない。牧畜民は土地に執着しない。牧畜民は父系に執着するが、土着の雌と抵抗なく交雑する。牧畜民は過去や自己を正確に認識しない。言い換えると、牧畜民は自己の歴史を認識していないように見える。また、牧畜民の自己認識(アイデンティティ)は奇妙に見える。

一方、農耕民は労働や商売に長けている。農耕民は文字や都市や官僚制度を持つ。農耕民は土地に執着する。農耕民は牧畜民よりも父系的でない。農耕民は過去や自己をより正確に認識する。

4. 【一神教的な世界観】

代表的な一神教には、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が存在する。これらの宗教はアブラハムの宗教と呼ばれている。アブラハムの宗教は独特な世界観を持っているように見える。

儒教系統の認識1 一神教的な世界観では、世界は唯一の創造者によって創造された。

一神教的な世界観では、この世界は自然に発生したのでなく、それは創造された。さらに、この世界は唯一の創造主によって創造された。これが一神教的な世界観であるように見える。要点は創造説と創造者の唯一性である。一方で、多神教的な世界観では、この世界は自然に発生したか、元々存在した。そして、様々な神が自然界には宿っている。多神教では、創造という認識がそもそも存在しない場合がある。

なぜ創造説が古代の中東で生まれたのかは不明である。しかし、古代の中東人は次のように考えた可能性がある。人間社会や国家や文明は自然には発生しない。それらは人間によって人工的に創造される必要がある。もしそうであるならば、この世界もまた何かによって創造された可能性がある。その結果、創造説が生まれた。この種の思考はそれほど不自然でないように思える。何かを人工的に作る必要がある環境では、創造説が生じるかもしれない。

創造説の唯一性に関しては、現実的には、生存競争の激しさの結果である可能性がある。古代の中東には、様々な民族が流入してきた。そして、彼らは様々な神々を信仰していた。この時、どの神が正しいのかという問いが生じるのは自然であるだろう。神がたくさん存在するとき、正しさの基準もたくさん存在してしまう。この時、民はどの正しさが正しいのかと途方に暮れる。この迷いの解決案の一つが創造主の唯一性であるかもしれない。

儒教系統の認識2 一神教的な世界観では、唯一の正しさが存在する。

言い換えると、一神教的な世界観では、唯一の正しさが存在する。唯一の善悪の基準が存在する。つまり、真理が存在する。そして、その唯一の正しさに反する何かは悪であり、正しくない。また、一神教的な世界観では、神の意志も目的も一つである。神の意志や目的に沿った行為も唯一である。

実際、外交的にも、西欧白人は自己の正しさや自己の唯一の善悪の基準を世界へと強制してきた。この種の行為は極めて一神教的であるように見える。彼らはこの世界には唯一の正しさが存在して、彼らが唯一の正しさを持っていることを正しいと考えているように見える。だから、彼らは彼らの押し付け行為の善性を正当化している。

一方、多神教では、人それぞれという考えが強いように思える。実際、多神教の世界に住む人々は自己の宗教をあまり強制しない。インド人も漢人も移住先で宗教的な問題を起こしていない。さらに、インドも中国も自国の価値観を外交的に強制しない。

儒教系統の認識3 一神教的な世界観では、自然界は必ずしも正しくない。

言い換えると、その信仰者は自然界の存在や状態や運動を正しいと考えない。正しいと考えると信仰するとすると、その信仰者は自然界の存在や状態や運動を信仰しない。一神教では、信仰の対象は唯一の創造者であり、自然界でない。自然界それ自体は神でない。自然界は信仰する対象でない。つまり、自然界は正しいと考える対象でない。

例えば、その信仰者は太陽の存在や状態や運動を正しいと考えない。彼らは神の言葉を優先する。その結果として、例えば、イスラム教徒のパキスタン人は現在でも地動性を正しいと考えない。なぜなら、彼はアッラーの言葉を優先している。西欧では、進化論に関する話題がある。キリスト教徒の白人のアメリカ国民を進化論を正しいと考えない。なぜなら、彼らは自然界をそもそも正しいと考えていない。だから、彼らは神の言葉を進化論に優先させる。

一方で、多神教徒は自然界を正しいと考える。なぜなら、彼らは自然界を信仰している。彼らは太陽の存在や状態や運動を正しいと考える。そのため、もし自然界が近代科学によって分析されると、彼らはその分析を正しいと考える。つまり、彼らは分析された自然界を信仰する。

多神教では、信仰対象は自然の中に存在する。自然の存在や状態や運動は神の存在や状態や運動として常に正しいと考えられている。そのため、自然の存在や状態や運動を近代科学などで分析すると、多神教徒はその分析を正しいものとして受け入れる。なぜなら、彼らは自然を信仰している。

5. 【機械論的な世界観】

近代科学の発展以降、西欧白人は機械論的な世界観を持ってきた。西欧白人はこの世界を機械と見做した。その結果、彼らは科学技術や近代科学や近代数学の分野で成功を収めた。ここでは、新儒教の創造主は機械論的な世界観を認識する。

儒教系統の認識1 機械論的な世界観では、世界は機械である。

より正確には、機械論的な世界観では、自然界は機械である。世界は機械であるので、その世界はある種の法則に沿って完全に自動的に運動する。物質も動物も人間も完全に自動的に運動する。そこには、自由も自由意志も存在しない。人々は自己の人生も商品の購入も何も彼らの意志で選択することができない。宇宙の始まりから現在まで、この世界の全てはある種の法則に沿って完全に自動的に運動してきた。当然、目的も存在しない。

儒教系統の認識2 機械論的な世界観では、感情や内面や意図が軽視される、かつ外面のみが重視される。

機械論的な世界観では、世界は機械である。機械は感情や内面や意図を持たない。だから、x教系統の人間も感情や内面や意図を持たない。機械論的な世界観では、x教系統の人間は機械であるので、彼らは感情や内面を持たないものとして考えられるように見える。

なお、古代の人々は自己の内面や意図、感情や性を物質に投影した。その結果、太陽や天空が感情や性を持つようになった。太陽や天空は男性神であり、月は女性神である。彼らは人間のような感情や意図、内面を持っていた。

機械論的な世界観では、人々は彼らの内面を世界に投影しないので、彼らは内面や意図、感情や性を物質の中に見えない。その一方で、彼らは機械や物質を動物や人間に投影するようになった。機械や物質を動物や人間に投影すると、人間は感情や内面や意図を持たなくなる。

古代と現代では、投影の向きが完全に逆になっている。古代では、人々は自己を物質に投影した。その結果、物質は人格や性、内面や感情をもつようになった。現代では、人々は物質を動物や機械に投影するようになった。その結果、人間の感情や意図、人格や性は軽視されるようになった。

儒教系統の認識3 機械論的な世界観では、理性が信仰される場合がある。

言い換えると、機械論的な世界観では、理性の働きが正しいと考えられる。この理性は思考である、その思考は計算可能性や論理性に関係する。

2. 儒教系統の世界観

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