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肉体の種類と自己の種類に関する思考規範〜ネオ儒教における思考規範〜

下記では、筆者は主体を自己と便宜的に呼ぶ。

1章 背景

【儒教系統の問い?】
筆者が自己の存在を仮定する時、その自己の種類は肉体の種類の依存するのか?

つまり、自己には、サピエンスの自己と犬の自己とアリの自己が存在するのだろうか?また、自己には、サピエンスの雌の自己とサピエンスの雄の自己が存在するのだろうか?

感覚的には、筆者の自己はアリの自己と異なるように思える。ただし、アリも脳を持っているので、アリの意識とアリの自己は存在するように思える。そして、アリの意識はサピエンスの意識とおそらく異なるだろうと感じる。例えば、サピエンスとアリでは、視界が互いに異なる。

では、アリの自己はどうだろうか?サピエンスの自己とありの自己とでは、自己が互いに異なるように感じるが、実際に、何が異なるのかと質問されると回答できない。

2章 思考規範

【儒教系統の思考規範】
もしある主体が存在するならば、その主体の種類は肉体の種類に依存する。

これを仮定すると、サピエンスの自己はアリの自己と異なる。モンゴロイド人の自己はコーカサス人の自己と異なる。雌の自己は雄の自己と異なる。サピエンスの自己はネアンデルタールの自己と異なる。

なお、上記を否定すると、サピエンスの自己はアリの自己と同じになる可能性がある。すると、あるサピエンスがアリを殺すことは、自己の観点では、殺人行為になる可能性がある。なぜなら、車体としての肉体の違いは存在するが、車体の中の自己、つまり運転手の違いは存在しない。

そのため、人間に対する認識を肉体と意識と主体の組みと決定する必要がある。この時、アリに対する破壊は殺人行為にはならない。

また、主体が肉体に依存すると仮定すると、障害者の主体と健常者の主体も異なる。また、主体は肉体の老化と同様に老いる。子供の主体と大人の主体も異なる。しかし、筆者は具体的に何が異なるのかを提示できない。

3章 原因と必要

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