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折本たつのりによるラーム・エマニュエルへの抗議はうまくいったのか?

折本たつのりはアメリカ合衆国の独立記念日に抗議を行ったらしい。しかし、俺はこの種の行為は時間と富の無駄であると認識する。以下では、俺は折本の言語的な問題点を提示する。なお、下記は大和民族へと一般化される。

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【自己の宗教を表現しろ】

(儒教系統の思考規範)
もし折本たつのりが自己の宗教と自己の文明を彼ら自身の言葉で表現しないならば、彼の政治活動や社会活動は失敗する。

例えば、折本は「俺は儒教徒である。俺は東洋文明に所属する。俺は儒教系統の社会を作るつもりである。」と表現する必要がある。当然、これは一つの例である。もししないならば、彼の政治活動や社会活動は失敗する。政治活動や社会活動のためには、自己の宗教及び文明、そして意志の表現が必要である。

アメリカ合衆国における平等もLGBTもキリスト教系統の憲法である。彼らは自己の宗教や自己の文明を表現した後、彼らは行動を実行している。だから、彼らの社会活動はうまくいく。それでも、彼らの活動は迷走している。彼らは好き勝手に行動しているわけでない。

それに対して、折本は自己の宗教も自己の文明も何も表現していない。彼らは自己の人種も自己の民族も何も彼の言葉で表現していない。自己の宗教の表現なしには、たとえ彼がどんな行為をするとしても、その行為は宗教の善悪に違反することがない。

この状態は無敵に見えるが、規範や制限のない状態では、何も出来上がらない。それはレンガを好き勝手に積み上げるような行為である。または、折本の行為は契約なしに、お金の借り貸しをしようとするようなものである。契約しなければ、お金を返さなくても、その行為は契約違反にならない。同様に、自己の宗教を表現しなければ、宗教違反にならない。自己の文明を表現しなければ、文明違反にならない。

折本を見ると、彼が自己の宗教や文明を表現しないのは、責任を負うのが嫌、矛盾をつかれるのが嫌。だから、彼は何も言わないように思える。何も言わなければ、間違いないし、責任を負う必要はない。発言の矛盾をつかれる場合もない。

【言葉を優先しろ】

(儒教系統の思考規範)
もし折本たつのりが行動を言葉に優先させるならば、彼の政治活動や社会活動は失敗する。

上記は大和民族の一般的な性質である。彼らはがむしゃらに行動すれば、周りの人間が理解してくれて、勝手に着いてきてくれると錯覚している。そして、社会運動や社会が自然発生的に生じると誤認識している。折本も同様であり、アメリカ合衆国の独立記念日に抗議という活動、街頭演説という地道な活動をすれば、みんながその活動を評価して、運動が盛り上がるとなんとなく雰囲気で予想している。

しかし、自己の宗教や自己の文明、意志や目的、人種や民族をちゃんと言葉で決めて、表現せずに、やるとしても、この種の政治活動は正常に機能しない。そして、社会は人工的なものであり、人間の意志によって人工的に作られる。欧州におけるイスラム教徒ですら、彼らは「俺らはイスラム教徒である。」と言って、社会運動している。だから、団結が生じて、キリスト教徒やユダヤ教徒の白人を圧倒する。彼らの行動が正常に機能するのは、"言葉が先にあるから"である。

言葉なしに、行動するとしても、周りの人間は折本と交信(コミュニケーション)できない。実際、彼らがどの宗教系統の活動を実行しているのかすらわからない。

【解決案】

(儒教系統の命令)
次を言え。

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