見出し画像

【pdf】新儒教における宗教について

新儒教における宗教について
ここでは、新儒教の創造主は新儒教における宗教を決定する。一般的に、宗教や文明、人種が異なると、宗教が何であるのかそれ自体も異なる。例えば、アブラハムの宗教における宗教観は仏教やヒンドゥー教における宗教観と異なるように見える。また、時代に応じても、宗教のあり方が異なっているように感じる。ここでは、彼は儒教における現代的な宗教観を提示する。彼は宗教を社会それ自体や一種の競技系と認識する。


1. 儒教系統の宗教

1. 宗教

一般的に、宗教は人類を救済したり、人類を幸福にするものと感じられているように見える。新儒教では、新儒教の創造主は宗教を一種の競技系(システム)と決める。

儒教系統の決まり1 宗教は競技系である、かつその系はx教系統の社会を形成する。

宗教は例えば、儒教は競技系である、かつその系は儒教系統の社会を形成する。キリスト教は競技系である、かつその系はキリスト教系統の社会を形成する。例えると、宗教はサッカーやバスケのような運動競技系である。

上記の決まりは日常的にも自然である。実際、ユダヤ教徒のアメリカ国民はユダヤ教系統の社会をアメリカ合衆国で形成している。キリスト教プロテスタント派のアメリカ国民はキリスト教プロテスタント派教系統の社会をアメリカ合衆国で形成している。その他も同様である。このように、宗教はある種の社会の形成を担っている。

それぞれの宗教の社会では、それぞれの教徒は彼ら自身の善悪や認識、性規範や富の規範を持っている。例えば、キリスト教の社会では、キリスト教徒は平等を善と判断する。イスラム教の社会では、イスラム教徒は豚肉を食べない。

儒教系統の決まり2 宗教は人間競技系である、かつその系はx教系統の社会を形成する。

正確には、宗教は人間競技系である、かつその系の創造主はx教系統の社会を創造する。この考えでは、言い換えると、宗教は人工的な世界それ自体である。

2. 宗教と相続

資産は親から子供へと相続される。一方、宗教はそうでない。しかし、新儒教では、新儒教の創造主は宗教の相続を決める。つまり、宗教も資産のように親から子供へと相続される。

儒教系統の決まり1 儒教は儒教徒の父から儒教徒の息子へと父系で相続される。

言い換えると、儒教という人工的な世界は儒教徒の父から儒教徒の息子へと父系で相続される。Y 染色体ハプログループは父から息子へと父系で伝達される。同様に、宗教も父から息子へと父系で伝達される。

なお、基本的には、印欧語族も約5000年前から現在まで父系でY染色体ハプログループR1系統と共に伝達されている。また、神話もそれを記述する言語と共に父系で伝達されているように見える。つまり、ある場合において、神話と言語とY染色体は対になって父から息子へと伝達されている。

なお、儒教は父から娘へも伝達される。しかし、娘が異教徒と結婚する場合、たとえ相手が儒教徒になるとしても、その娘の子供は儒教徒でない。x教系統の男性が宗教も言語も創造してきた。そして、彼らはそれらを父系で伝達させてきた。彼は言語と宗教を父系に人工的に対応させて、先祖と子孫を人工的に追跡する。

3. 信仰する

日本語では、信仰するという単語は悪い意味で好き勝手に使用されている。例えば、信仰するとは何かに盲目になる、神秘を感じると雰囲気で感じられているように見える。新儒教の創造主は信仰するという単語を次のように決める。彼は信仰することを考えることと決める。

儒教系統の決まり1 信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象が実際的であると考える。

上記の対象には、現象も含まれる。創造主を信仰するとは、ある行為である、かつある主体が創造主が実際的であると考える。物質を信仰するとは、ある行為である、かつある主体が物質が実際的であると考える。つまり、信仰するとは、実際と考えることである。

儒教系統の決まり2 信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象が正しいと考える。

例えば、男女平等が善である、または男女平等が正しいと考えるのは、信仰である。つまり、キリスト教徒は男女平等が善である、または男女平等が正しいことを信仰する。平等を信仰するとは、ある行為である、かつある主体が平等が正しいと考える。
なお、平等が正しいのかは自然界を分析するとしても、わからない。つまり、信仰するとは、正しいと考えることである。その正しさは自然界には存在しない。だから、彼はその正しさを信仰する必要がある。

4. 宗教が授ける対象

宗教は善悪や認識を授ける。例えば、儒教は儒教系統の善悪や認識を儒教徒に授ける。もしある宗教が善悪を授けないならば、その宗教は宗教でないように感じる。なぜなら、善悪なしに、社会は形成されない。実際、運動競技も赤札(レッドカード)なしに形成されない。彼は次の思考規範を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある対象が宗教であるならば、その対象は次のxを持つ。

主要なxには、世界観や目的、人間性、善悪や自己、富の規範、性規範、刑罰、契約や法体系が存在する。その他のxには、認識や判断、力や意志、時間や空間、管理及び統治、人間観や労働観、国家観や歴史観が存在する。また、その他のxには、言語や文字や建築や創造主や神や正しさが存在するかもしれない。実際、キリスト教系統の建築が存在する。

儒教系統の思考規範2 もしある対象が宗教であるならば、その対象はその宗教系統の善悪を持つ。

宗教に必ず必要なのは善悪である。また、宗教は管理や統治にも必要である。例えば、認識には、西欧白人がアメリカ大陸で統治者を担っていることは植民地主義や奴隷主義の継続でないのかが存在する。判断には、現在のアメリカ大陸の状態は善であるのか、悪であるのかが存在する。

日常的には、宗教は善悪の基準や正しさの基準を信仰者に授ける。性規範は性欲を自己管理、自己統治する。富の取り扱いはお金の貸し借りや利子、資本主義に関係する。死生観は葬式や墓、胃ろうや安楽死や尊厳死に関係する。契約や法は国家や商業、会社に密接に関係する。刑罰は死刑や裁判に関係する。人間観は家畜や殺人や中絶に関係する。労働観は奴隷や牧畜や農耕などの生活形態に密接に関係する。

5. 宗教未定義

新儒教の創造主は宗教未定義であることの意味を提示する。大和民族の一部は彼ら自身が宗教未定義であることを科学的であり、先進的であると感じているように見える。しかし、その状態は動物と同じである。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が宗教未定義であるならば、その主体は自己のある宗教系統の善悪を持っていない。

より正確には、もしある主体が宗教未定義であるならば、その主体は社会を形成することができる自己のある宗教系統の善悪を持っていない。自分にしか通用しない個人的な善悪はある種の社会を形成することができない。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が宗教未定義であるならば、その主体は自己の社会を形成しない

言い換えると、もしある主体が無宗教であるならば、その主体はどの社会にも所属しない。宗教の決まり1により、宗教的であることは、自己のその宗教系統の社会を形成することである。宗教的でないことは、自己のその宗教系統の社会を形成しないことである。宗教的でないことを宗教未定義であると置くと、上記の思考規範2が導かれる。

儒教系統の認識1 無宗教は宗教未定義と異なる。

無宗教は宗教の一つである。無宗教は宗教である、かつある主体は無宗教と言う宗教を信仰する。このとき、無宗教である主体は動物と同じでない。なお、宗教未定義の略称は未宗教である。

6. 宗教と統治

ローマ帝国の崩壊の後、ゲルマン民族の王様はキリスト教に改宗した。チンギス・ハンの子孫もイスラム教に改宗した。なぜなら、宗教なしに、彼らは彼らの民を統治することができなかった。

儒教系統の認識1 宗教は競技系を統治する手段を授ける。

特に、宗教はある統治者が競技系を統治する手段を授ける。現在の世界では、もしアメリカ合衆国がアフガニスタンを統治するつもりであるならば、その国家はタリバンをイスラム教を通じてしか統治することができない。宗教は社会形成だけでなく、統治にも密接に関係する。上記を思考規範の形式で書くと、もしある対象が宗教であるならば、その対象は競技系を統治する手段を授ける。


7. 宗教と主義

西欧白人は全てを主義化しようとする。彼らは性を性主義と呼び、人種を人種主義と呼び、民族を民族主義と呼び、国家を国家主義と呼ぶ。彼らは自然も主義化して、自然主義と呼ぶ。そして、彼らは宗教も主義化する。そこでは、ユダヤ教もキリスト教もユダヤ主義やキリスト主義になる。

しかし、自然や宗教は主義であるのだろうか。性や人種や民族は主義主張であるのだろうか。人間界の創造主は宗教を次のように認識する。彼は宗教を主義と認識しない。

儒教系統の認識1 宗教は主義でない。

言い換えると、宗教は主義主張でない。彼は宗教を遺伝や性のようにすぐには変えられない何かと認識する。西欧白人は宗教や人種や性を主義と考えるので、彼らはそれらを変えられる何かと考える。新儒教では、彼はこれらを主義と認識しない。だから、彼らはこれらを変えられない何かと認識する。
上記では、彼は信仰するを考えると認識すると提示した。おそらく、西欧白人も信仰すると考えると定義するので、彼らは宗教も主義化する。なぜなら、考えることは変えられることである。
彼らは儒教徒のように考えれば、彼らは儒教徒になることができると考える。

西欧白人にとって、信仰とは思考である。思考は変えられるので、信仰も変えられると考える。その結果、彼らは宗教に関して浅はかであるように見える。言い換えると、西欧白人はキリスト教やユダヤ教を本当に信じているのかが不明であるように見える。彼らはキリスト教を本当には信じていないが、信じているように振る舞っているだけに見える。

上記を防止するために、儒教では、彼は宗教を主義や単なる思考と認識しない。彼は宗教を遺伝や人種や性と同様に変えられない何かと認識する。彼は主義化を【宗教と相続】の決まり1で防止する。


8. 宗教と自己認識

イスラム教では、豚肉を食べることは悪である。この規範には、理由がないように見える。新儒教の創造主の憶測では、この種の規範は自己と非自己を区別するために存在してきた。つまり、ある主体がイスラム教徒であるのかを判定するために、この種の無意味な規範が存在する。

儒教系統の認識1 宗教は自己を授ける。

言い換えると、宗教は自己認識を授ける。より正確には、宗教はその宗教系統の自己を授ける。宗教はその宗教系統の自己認識を授ける。現実的には、宗教は自己を授けて、自己と非自己を区別する。

現実的には、異人種との中間種は自己認識の戸惑いを経験する。彼らは彼ら自身が誰であるのかを認識することができなくなる。その結果、彼らは大和民族(日本人)になろうとして、彼らは日本人のように意図的に振る舞い始める。例えば、異人種との中間種は清潔や治安や日本語や景観をより重視する。なぜなら、大和民族は民族的に治安や清潔に執着する。彼らは日本人になろうとして、日本人よりも日本国の歴史に詳しくなる。

その延長線上に、彼らは大和民族が信仰する宗教をより強く信仰して、日本人になろうとする。なぜなら、宗教は日本人とそうでない人々を区別する。神道は大和民族とそうでない民族を区別する。宗教が授ける慣習や規範は自己と非自己を区別して、自己を信仰者に授ける。

歴史的にも、自己の宗教や神話を失った民族や人種は遺伝的にも人工的にも消失する。例えば、シュメール人は自己の神話を失い、その他の中東人に吸収された。ローマ人も自己の神話を失い、キリスト教化されて、彼らはどこかへと消えてしまった。


9. 宗教に関する誤認識

ここでは、新儒教の創造主は宗教に関する典型的な誤認識を提示する。その誤認識には、説明や救済がある。

儒教系統の認識1 宗教は世界を説明する何かでない。

例えば、儒教は自然界を説明する何かでない。儒教は自然界を分析する何かでない。儒教は儒教系統の社会を形成する何かである。儒教は自然界を説明する何かでない。儒教は自然界を分析する何かでない。自然界の説明や分析は自然科学の役割である。

仏教徒の大和民族にも、自然界を仏教で説明しようとする仏教徒が存在する。しかし、それは仏教の役割でない。仏教は仏教系統の社会を形成する。仏教は仏教系統の善悪や性規範を仏教徒に授ける。それは分析や説明でない。

儒教系統の認識2 宗教は信仰者を救済する何かでない。

ある種の範囲では、宗教は人類を救う何かであると感じられているように見える。しかし、それはキリスト教的な宗教観であるかもしれない。新儒教では、宗教は儒教系統の社会を形成する何かである。そのため、新儒教では、宗教は信仰者を救済する何かである必要はない。


2. 新儒教

ここから先は

6,455字
この記事のみ ¥ 500

この記事が参加している募集

自己紹介

お金について考える

社会システムの設計に関する寄付は「ここから」。 君の寄付をありがとう!とても嬉しい!