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お盆に考える、人生の後半のこと。

実家に帰省して墓参りにいった。年に一度の大事なタスク。お盆から少し遅れてしまったうえに線香が湿気って火がつかないまま置いていったわけだけれど、子孫たるかわいい子どもたちを見せてきたので、ご先祖さまも概ね満足してくれたと思う。

僕の実家のお墓は、すでに鬼籍に入った祖父・祖母のお墓の隣に、だいたい6-7世代前ぐらいまでのお墓が連なっている。人生7人分で考えると軽く400年を超える歴史があったわけだし、ていうか血筋を辿れば当然のように人類誕生まで遡るわけで。決して由緒正しい血統ではないけれど、僕がここにいるのは気が遠くなる数の先人たちのおかげだなぁ、なんてお盆らしいことを考えていた。

そしてその延長線上で、自分のこれからの人生を考えてみる。40歳、50歳、60歳、そして今や珍しくもなくなった100歳まで生きると仮定して。思うことは二つ。子どもと仕事だ。

僕が年を経るのと同じだけ、子どもたちも成長し、それぞれのターニングポイントを経て家を出て行くわけだけれども。下の子が今2歳だから、大学卒業を想定するとあと20年か。たぶんあっという間だね。勉強ができなくてもいい。元気でいてほしいと願うばかり。その頃の僕は57歳。今の親父の年齢には届かないにしろ、同年代といっても差し支えない年齢になるわけだ。

それからさらに40年超、生きていく。大きな事故や病気をしない、という幸運を前提としてね。その頃の、今では想像つかないほどのテクノロジーの進歩を思えば楽しみだ。自動運転が当たり前で操作はぜんぶSiri的なもので済んで、おお、老人でも十分快適そうだぞ。でもやっぱり、社会の中で役に立ち続けられるのかな? という不安は残る。

それってつまり、僕の仕事だと「呼ばれる」ことに対する不安だ。
去年、こんな記事を書いた。

僕は45歳にはコピーライターを引退する、引退せざるを得ない、という内容だ。気になる人は読んでくれたら嬉しいけれど、それは記事に任せるとして。

リアルにまだまだ働きたい50歳、60歳あたりを想像して、どうやったら「呼ばれる」ようになるかなぁと考えてみた。コピーライターの講師? ミッションステートメント系のコンサル? 言葉のアドバイザー? なんて、妄想しながら……いやいや、違うぞ、と考え直した。「呼ばれる」って、つまり自分に重きを置く働き方だなと。現場に立ち、手を動かす、頭を動かす仕事を想定しているから「呼ばれる」ことに固執しているのかも。

そうではなく、「呼ばれずに食える」つまり、僕以外の「何か」がちゃんと価値を出せないとこの社会の中で長く生きていけないぞ、と幾度となくたどり着いた場所にたどり着く。制作会社だったら、それは「若手社員」だったりする。メーカーだったら「人気商品」だ。

左ききの道具店は妻の事業であり、妻が主役であると決めている。僕にとっての「何か」ってなんだろう。そんなことをぼんやり考えているお盆休みです。みんなの「何か」も聞いて回りたいなー。

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