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仕事のクオリティの決め方と、評価の捉え方。

先日、メンタリングをしているときに、
同じ給与をもらいながら、人によってどこまでを最低限の責任範囲と感じるかが異なるという話が話題に上がった。


そこから少し派生して、今日は仕事のクオリティについて考えていたので、その内容を少しだけここに記しておこうと思う。


そもそも仕事のクオリティとは何だろうか。


アウトプットされたものに対して、速さ、正確性、量など、定量的に比較できるものもあるし、優しさや賢さのように定性的で比較が難しいことがある。

定量的な指標で判断することは、すなわち世間一般の尺度での判断ということになる。

野球で言うならば、打率3割打てば好打者と評価するようなものだろう。


別の観点で仕事のクオリティについて考える際に、アウトプットのクオリティが高いかどうかは、相手の期待値を超えているかどうかがポイントになることもある。


またもや野球で例えるならば、昨シーズンまで10年連続して打率が2割5分だったバッターが、いきなり2割8分も打とうものなら、期待値以上の好成績と言える。


さらにさらに別の観点では、自分自身がアウトプットに納得感を持てるかどうかということも、クオリティの良し悪しを判断するポイントにもなり得る。

これも野球で例えるならば、5年連続で3割3分打ってるバッターが、今期3割4分だったとしても、本人が3割5分は打てると自分に期待して十分な努力もしたと認識していれば、想定よりも低いアウトプットとなる。



3つのパターンについて、超簡略的に例示してみたけれど、実際には成果を計る指標というのは1つではないし、アウトプットされる成果物も1種類だけではなくいくつもあり、一つ一つを評価することもあれば、総合的な評価を必要とすることもあるため、飛躍的に複雑になる。


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極論を言うと、自分自身が納得できていれば、世間一般の尺度や評価、他人がどう思うかなんてことは度外視しても良いのかもしれない。

けれど、社会という他者との関わりの中で生きている以上、他者からの評価が、自分自身の自己評価に影響を与えることは多々ある。


自分が思うような評価が得られないときに、ストレスやフラストレーションを感じてしまうことがある。

それは、自分が期待した評価より低い場合もそうだし、思っていたよりも高すぎる評価を得てしまったときも同様にストレスになることがある。


大事なことは、期待した(想定した)評価が得られないことを嘆いてしまうよりも、自己評価(自己満足)を優先して考えるのか、周囲から納得のいく評価を得るために何かしらのアクションを起こすのか、ケースバイケースで判断していくことなのだと思う。


誰かに認められなくても、自分を認めてあげることをヨシとするのか、
誰かに認められるために努力する自分をヨシとするのか。

そんな観点を増やせば、評価を受けるときのストレスは緩和できるのかもしれない。

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