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予想に反して 予想どおりに不合理だった

私は自分のことを比較的合理的にものごとを考える方だと思っていた。

何を重要視するかは、その時の状況に応じて変わる。時間や効率を優先することもあれば、楽しさを重要視することもあれば、曖昧さが重宝されることもある。

いずれにしても、その時々で重要視されるキーファクターに対して、妥当性の高い考えをすることが多いし、周りからもそう言われることも多かった。

だから尚更、自分のことを合理的に物事を考える方だと思っていたのだけれど、最近読んだ本で、いかに不合理な判断や考え方をしているかについて思い知らされた。

この本では、人間の意思決定プロセスについて、普段は冷静で合理的な判断する人であったとしても、特定の条件が加わるだけで、なんとも不合理な判断をしてしまうことを、様々な実験から解説している。

思考実験の解説書みたいな本なので、実験のテーマや内容は極端なものが含まれていたり、実社会と直接的な結びつきが弱いようなものまであるのだけれど、脳内で身近な例に置き換えてみると、自分の不合理さが露呈してくる。


例えば、こんな実験があった。
被験者は、パソコン上で3つのフォルダのいずれかを開いて中のファイルにランダムに記載された金額を受け取れる。ただし、クリックは100回までしかできない。

この実験では、出来るだけ多くのファイルを開き続けることが、受け取る金額の最大化に直結する。(フォルダを何度も移動することはクリック数のロスになる)

この実験の後に続けて以下の条件を追加して、再度実験を行う。

・12回連続でクリックされなかったフォルダは2度と開くことが出来なくなる

すると、12回以内に別のフォルダをクリックする被験者が続出した。

前述の通り、フォルダ間の移動はクリック数のロスとなるのだから、最初から一つのフォルダに絞ってファイルを開き続けた方が、受領金額は大きくなる。
にも関わらず、フォルダの喪失を免れようと12回以内に別フォルダを開いてしまうのだ。

これは、すでに手にしているチャンスや事物を喪失するという痛みは、想像以上に大きいもので、自ずとそれを回避しようとする意識が働くということらしい。

別の例として、
ある教育熱心な親が、子供の可能性を見出すために次から次に新しい習いごとをさせるようなものだと、本書では述べられていた。

早い段階で、特定の何かに絞って集中させた方が、習得や成長が早いことは分かっているはずなのに、潜在的(に感じる)可能性を捨ててしまうという痛みを許容出来ないことの表れということだ。


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私は将来的な可能性や可変性を下げてしまうことに強い抵抗感を感じていた。

例えば、マイホームの購入なんてものは、その最たる例である。
家を買うということは、その土地に縛られることになるし、ローンによって生活の自由度が限定される。

もちろん、引っ越したければ家を売って他所に移ればいいのだけれど、感覚的な“縛られる”という感情がとても強くある。

これはまさに不合理な判断で、家なんて金利の低いタイミングでさっさと買ってしまえばいい。気に入らなければ売ってしまえばいいのだ。
#現実問題そんなサラっとはいかないけれど

物事の経験、特に失敗に関するものは早ければ早いほどリカバリーの時間も長くある。
そういう意味でも大きな意思決定ほど、早めに行った方がよい。

にも関わらず、後回しにしてしまうというのは、やはり不合理なのだ。

分かりやすく家の購入を例に挙げたけれど、私は決めてからの動きはめちゃくちゃ早いのだけれど、意思決定自体を後に回すときがある。

これは練習だな。後戻りの出来る意思決定はとにかく早く。

頭では分かってんだよ。
#この時点で不合理なんだよな苦笑


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