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なぜあなたは絶妙なタイミングで僕の背中を押してくれるのか

 今朝「#教養のエチュード賞」に記事をエントリーした。エントリーと言っても先週書いた記事にハッシュタグ「#教養のエチュード賞」をつけただけだ。

 昨日まで、いや今日の朝まで「#教養のエチュード賞」に参加しようかどうしようか迷っていた。あと1週間ちょっとで応募期間終わっちゃうなぁと。でもやっぱり僕には「教養」とか「エチュード」っていう言葉の響きが何だかこそばいというか。オヤジギャグ言ってふんがふんがと素人ながらも料理とか作っちゃってるオヤジには「ちょっと高めのところにある何か」に見えてしまう。

 まぁそんなものは錯覚だし、僕がこんな風に言っていても嶋津さんは「いやいや、かとしんさん、そんなこと言ってないで試しに参加してみてくださいよ」って、優しく諭すように言ってくれるんだ。

 僕は今までZoomでだけど嶋津さんと2回ほどお話している。実際にさわやかで優しい人だ。選ぶ言葉の一つ一つがとても繊細で優しいイメージ。みんなが集まってくるのもうなづける。あ、このままいくと褒め殺しになってしまう。控えよう。

 参加した記事はこれだ。


 そして参加を決めた背景にはともこさんのこの記事がある。

 記事の本文から引用させていただく。

もし「敷居」というものを感じていらっしゃる方がいたら・・・こんなに敷居だとか線を引くという言葉と無縁なひとはいないから、ぜひご自分の言葉を携えて1歩近付いてみて欲しい。第3回のエチュード賞はあと10日もある。

 これだ。

 この言葉が僕の背中を押した。絶妙なタイミングで。絶妙な力加減で。

 実は以前もやはり嶋津さん主催のコンテスト「# ナイトソングスミューズ」にも参加したのだが、その時もともこさんの記事を見て、全く自然に記事を書いていた。この時の記事にも書いたが、当初は参加するつもりはなかったのだ。

 なんなんだろう、なんでなんだろう。なんでこんなにタイミングがいいんだ?朝早く出勤して駐車場で音楽を聴きながら手にしたスマホに丁度ともこさんの記事が映った。これ読んでから出社しようと思って記事を読んだ。そして読み終わってから自分の記事を開き、「#教養のエチュード賞」のハッシュタグをつけた。

 僕がエントリーしたこの記事は、もともと「#教養のエチュード賞」の出品を目指して書いたものではない。お願いすることが苦手な僕がSNSバトンリレーについての考えを書いたものだ。「#教養のエチュード賞」には新しく書くものをどうしようか迷っていた。だけど僕は先週公開したこの記事をエントリーした。なぜか、この記事とこの記事のコメント欄を見てほしいと思ったからなのだ。

 SNSバトンリレーで盛り上がっているところに水を差すなんて考えていない。僕は盛り上がっているのを見るのはスキだ。だけど人にお願いすることが苦手だからバトンリレーの参加を躊躇してしまうのだ。そんなことを書いたこの記事にありがたいことに十数名の方がコメントをくれた。

 バトンリレーが得意なひとも苦手な人もいた。そして苦手な人は僕と同じように次にお願いすることが苦手という人が多かった。もしかしたらこの記事を読んだ人が、近しい人が同じ考えとわかった時にホッとしてくれるかもしれない。僕と同じように先に手を上げて遠慮して言えなかったご自身の気持ちが出しやすくなるかもしれない。そんな気がしてエントリーした。

 もう一度いうが決してバトンリレーに水を差す気持ちはない。純粋に盛り上がれる人は盛り上がって楽しめばいいし、僕も外から見て楽しんでいる。だけど近しい人の中には走者になるのが苦手という人も一定数いることを、バトンを渡すときにちょっとだけ考えてほしいだけなのだ。


・・・

 ともこさんの記事はカラフルだ。そしていろいろな形をしている。強くもある。弱くもある。楽しくもある。悲しくもある。毎回飽きず、毎回楽しみだ。

 ともこさんご本人的には「いったい何のこと?」だろう。僕が勝手に感じてアクションしただけだからだ。でも「ありがとう」と言いたい。ぼくはともこさんの記事を見て一歩を踏み出すことができたから。ともこさんの記事が、ちょっと高いところにあった「教養」と「エチュード」を僕の目線の高さに下ろしてくれた。

 ともこさん、嶋津さんに話しかけようか迷って立ち止まっていた僕の背中を、絶妙なタイミングで押してくれてありがとう。

★今回の記事は「#教養のエチュード賞」参加記事ではありません。


#教養
#エチュード
#ともこさん
#嶋津さん

 

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