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彗星が見えなくなる前に

またひとり、私がカッコ良いなぁと思った女性が 重い器を抜け出して空へと還った。一足先に彗星の尾っぽにつかまって青い地球を眺める権利を得たんだろう。空に行っちゃったら、美しいことしか見えなくなっちゃうのに。ずるいなぁ、でもいいなぁ。

私自身は癌、という病気そのものに’感情’は持っていない。それは癌を患われている方やご家族の方には腹立たしいことかもしれない、「医師になったのなら何かしろ」と。

顕微鏡下でみるその細胞にはときどき怖いくらいのエネルギーを感じたが、意思や気持ちなんてものを持たない癌そのものを 憎んだり怖いと思ったり、ということはあまりない。あるとすれば腫瘍(癌)が患者さんの最後に痛みや吐き気といった身体的苦痛をずっと与えることに「それだけは、止めて欲しいなぁ、お手柔らかにやって欲しいなぁ」という気持ちか。

数年前、母を胆道癌で亡くした。その過程でも意図を持たない癌がただただ母の身体を蝕んでいくのを悲しいと思いながら、腫瘍そのものへの気持ちはなく あったのは母の時間を思うことだけだった。

それでも。
黒々とした影が光の強さや眩しさを実感させるように、幸せや喜びや美しさというものが真逆のものに修飾されてさらに輝くのなら、こんな完璧な「自らの身体の創造物」はないとも思う。

身体という器がだんだん「もう不具合が多くてダメです」と悲鳴をあげる。そのひとを愛する者は手をとっていてあげることしか出来ない。
そして限界まで働いた器を魂が離れるとき、そこに器とともに残された人間は「ああ、痛みから苦しみから解放されてよかった」と理解する。縋り付きたい気持ちとともに、よかったね、と手を離してあげることができる。風船を空に飛ばすように。

ご本人が人生を共に歩んだその器から、
見送るほうも「逝かないで」という執着に近い気持ちから 

解放される。

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そういう意味では 癌というのはとても優しい、自らの細胞の産物ともいえるのか。そう仕組まれたエラーコードは自分のため、愛するひとたちのために自ら生まれる時に握りしめてきたのか。

魂が重たい器を置いていくときに、沢山の周りの人間が状況を受け入れ前に進めるようにと、人生交響曲のフィナーレへと時間と覚悟を静かに導くものなのかもしれない。

彼女は高校の同級生で、当時とても仲が良い、というわけではなく、すれ違えば手を振る、そのくらいの「知り合い」だった。
同じキャリアを目指した私達の大学同士は距離的にも近かった。もちろん、学生時代にとくに会ったことはなかったし、高校の同級生だったからといってその後の消息を聞いて回るほど近しくもなかった。あの人だからきっとみんなに愛されているのだろうと、素敵な医者になったのだろうと ただ思っていた。

二年前、たまたまフェイスブックのタイムラインで「退院」の文字を見てコメントしたのが再会のきっかけだった。「腫瘍(癌)の増大による臓器破裂で緊急手術となり、すったもんだした挙げ句ようやく家に戻って落ち着いた」と明るく、医師らしく淡々とした返信をもらってそんな大変なことだったと初めて理解した。


最初の手術から半年強、一次帰国したときに彼女に会いに行った。
病状を言うと妹が泣いちゃうの。だからどんなことが起きてて、どんな次の手があるかが基本的にわかってるひとと話すとホッとする。そんなことを彼女は話してくれた。

昔からの仲良しであった訳じゃ無い分、うん、うん、と聞くことしか出来なかったけれど、丁度よかったのかもしれない。私は彼女にちょこちょこと連絡をするようになった。

彼女に私がしてあげられる事なんて殆どなかった。声をかけてあげること、私の周りの素敵な人達を紹介すること。会えるときに会いに行くこと。
なのに、腫瘍の増大で彼女が緊急入院したり、緩和ケアに入ったりというときには 何を言ってあげたら良いのか分からず凍り付いてしまい、その声をかける、ということすらできなくて、数日経ってやっとメッセージしたりした。

2月に私用で一次帰国した。会いに行こうとおもって事前に連絡したら、ちょうど関西に行く予定があるからその後なら、と。

ぴん、ときた。すぐに「行こう、といっていた香川への旅行を決行しようよ」と提案した。弾丸関西旅行が突然決まった。

彼女を含めた友人4人で、神戸空港からレンタカーで淡路島へ向かった。夕焼けが本当に綺麗で、そして楽しくて、大笑いしながらの車中だった。あるとき突然彼女が黙って、涙を流し始めた。みんな言葉が出なかった。いや、要らなかったのかもしれない。この美しくて幸せな時間をありがとう、彼女の全身から届いた気持ちを、ちゃんと全員が受け取った。

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私は彼女にとって特別親しい友達、ではなかったと思う。ただ病気が分かってから少しだけ、ほんの少しだけ「医業を人生の途中で離れた仲間」として関わらせてもらった。

彼女はカッコ良い女性だった。女性として、娘として、姉として、妻として、母として、医師として。全部の切り口が格好良かった。


彼女に格好良いとは、を教わった。
それは自分の中で見定めるbetterに向かってただ進むという途中経過を見せて生きること。
変化し続けること、betterに向けて歩みを止めないこと、そして


満点じゃない自分を それでも今のベストに近い所に持ってきてるなぁと認めてあげて、その状況にいくことを後押ししてくれる周りに感謝すること。


それを毎日体現している彼女は本当に素敵だった。

彼女は日本時間での8月4日夕方、空をも飛べる女神になってしまった。
テレパシーみたいな「ことば」はなかったけど、虫の知らせは静かにあった。だから驚きはなかった。

癌は 少しずつ少しずつ彼女の体を蝕み機能不全状態へ押しやっていった。その癌への 怒りとかやるせなさとかは 私にはない。そこそこの数見てきた腫瘍死と同じ道を彼女は辿っていった。ただただ、彼女の痛みが最小限であるよう、怠さ、吐き気が落ち着く時間が1分、1秒でも長いことをずっと祈っていた。

ご家族にはお悔やみの言葉しか伝えられない。けれど、彼女が「そのとき」にご家族ができるだけ自然に受容できるよう準備していたのを知っているから、きっと大丈夫だと思う。

沢山の涙と感謝の言葉と愛とで 彼女は送り出されたのだろう。

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彼女の人生という壮大な交響曲は静かに終わって、今は音のない余韻を皆が想い出を辿りながら追っている。もうすぐ見えなくなるネオワイズ彗星に間に合うように空に昇ってしまった。

私の中で 彼女が聞かせてくれていた交響曲は多分これからもリピート再生されるんだ。彼女の生に対する姿勢、格好良い生き方は確かに私の中で新たな何かを育んだ。

またひとり、私がカッコ良いとおもった女性が 重い器を抜け出して空へと還った。そういう格好良さを追いかけて、私は私の重い身体と一緒にもうすこしだけ、みっともなく地の上を歩く。
一緒に笑った時間を大事にします。また上で会おう。


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