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見えない中空の糸:自由な協調の社会

はじめに

競争と協調について考えてみると、現代は競争が過剰に強調される一方、協調についての意識が薄いのではないかと思う事があります。

私は、競争を否定するわけでも、自己をある程度犠牲にして協調をした方が良いとも考えていません。ただ競争が時を追うごとに過剰になっていくことや、協調が不自然にないがしろにされるような社会は、やはりどこか歪んでいるのだと思うのです。

この記事では、意志主義(Willism)の立場から、競争と協調について紐解くためのフレームワークを提示します。

主体と客体、アクターとオブジェクト

私は、個人や組織を、主体と客体の観点で捉えています。主体をアクター、客体をオブジェクトと呼ぶことにします。

身体やその能力、所有している財産や権利、その他自分の意のままにできるような物事を、客体として捉えます。これらがオブジェクトです。そして、それらを所有しているのが、私やあなた、あるいは組織であれば法人格といった主体です。これらがアクターです。

アクターはオブジェクトを所有しています。それは形のある物として所有していたり、能力や権利のような概念的、あるいは社会的に所有しているものもあります。近年は様々なものをシェアする文化も流行っていますが、多くの場合、オブジェクトは特定のアクターに所有されていると考える事が一般的でしょう。

例えば私の体というオブジェクトは、私というアクターが所有しています。私の体が持つ運動能力も、私の脳が持つ知識や知的能力も、私というアクターが所有しているオブジェクトです。家、車、財産なども、会員証や運転の資格、国民として国から保障されている権利も、私の所有しているオブジェクトです。

私というアクターは、一般的に私を構成していると思われるもののうち、どんどんオブジェクトを取り払っていって、最後に残る部分です。つまり、自由意志です。

所有するオブジェクトは道具であり、目的はアクターの情感にある

通常、アクターは所有するオブジェクトを自由に使用することが出来ます。従って、アクターにとって所有オブジェクトは、生活や活動のための道具です。車や財産は道具として分かりやすいと思います。運転資格や運動能力、知識や知的能力も、生活や活動のための道具と捉えることが出来るでしょう。また、国民としての権利や自分の身体や脳も、少しわかりにくいかもしれませんが、私の生活や活動を実現するための道具と言えます。

私たちが体の痛みを避けたり心地よさを求めたりするのは、身体という道具を守ったりケアしたりすることが目的ではありません。アクターがその痛みを避け、心地よさを欲するためと考えられます。その証拠に、辛い食べ物が好きな人もいますし、体に悪い事がわかっているような習慣を身に着けてしまう人もいます。また、自分の親しい人が傷つくことを自分の痛みのように感じる人や、誰かを守るために自らの体を危険にさらす人もいます。

それは特別な事ではありません。私たちには自分の身体に通っている神経だけでなく、共感という能力により、あたかも見えない中空の糸でつながっているように、他人の痛みを感じる能力が備わっているのです。

この時、私たちが痛みから守ったり喜びを与えたいと思う対象は、自分の身体や財産といった、所有しているオブジェクトとは限りません。他人の所有しているオブジェクトに対しても、そうした情感を抱くのです。

つまり、所有と情感は、分けて考える方が自然なのです。そして、私たちは私たちのアクターが情感を持つものを目的として、所有しているオブジェクトを道具として活動していると考えることが出来ます。

競争は自他を鮮明にし、協調は自他をあいまいにする

競争は、アクターが所有するオブジェクトを駆使して、他のアクターと競う事を促します。競争関係にあるとき、アクターは道具であるはずの自分の所有オブジェクトに強くこだわります。なぜなら、自分の所有オブジェクトを守り強化することが競争を有利にすることであり、かつ、他者の所有オブジェクトが強化されないこと(もっと言えば弱体化されること)も競争を有利にするためです。

このため必然的に、競争においては自己と他者を強く意識することになり、自他の意識が鮮明になります。

この強い自他の意識は、個人主義の考え方を強める傾向にあるように思います。このためでしょうか。競争が当たり前の社会にいると、社会のためになる行動とは、イコール自己を犠牲にすることだという誤解すら生み出しているように思えます。

アクターとオブジェクトのモデルに基づいて、協調について考えることで、この誤解を解くことが出来ると思います。

協調は、アクターが所有するオブジェクトを駆使して、自分の目的を中心にした行動をすることで達成することができます。他者や全体を中心に据える必要はありません。

なぜなら、社会において、自分は他者によって何らかの形で支えられており、多くの場合、他者にプラスになることを行えば自分の目的にポジティブなフィードバックがかかる事が期待できるためです。また、他者にマイナスになる事を行えば、自分の目的に対してネガティブなフィードバックがかかります。競争という枠組みではなく、協調の枠組みで物事を考えれば、それが当たり前です。誰しもわざわざ自分に良くしてくれる人に仇をなしたり、自分に危害を加える人に手助けをしようとは思いません。

また、自分の活動の目的についても、自由に決めることができます。自分の身体を大切にしたり、心地よさを得られるように努めることも良いですし、共感を発揮して家族や友人のためになる事を目指すのも良いでしょう。共感の範囲が広ければそれだけより広い範囲に、活動によるプラスの効果を与えることができるでしょう。多くの場合、目的の対象だけでなく、その周辺にもプラスになるように行動することが合理的な行動です。

このような形で、競争ではなく協調を基軸にして捉えれば、自他の境界はあいまいになります。中心はあくまで自分でも構いません。異なる目的を持っていても、合理的な行動をとる個人が増えれば、必然的に社会にポジティブな影響があり、豊かになっていくことが期待できます。

意志主義の在り方

競争を否定はしませんが、時間が経過して回を重ねるごとに、競争は先鋭化していきます。先鋭化した競争は疎外を生み出し、過剰な努力を要求されることによる体と心の疲弊を招きます。

こうした状況は、さらに悪い現象を生み出します。疎外や疲弊を避けるために、個人はルールの穴を見つけて短絡しようとしたり、人の足を引っ張ることでのし上がろうとしたり、あるいはこの疎外や疲弊をあきらめて受け入れてしまいます。

問題は競争自体にあるわけではないと私は考えています。競争を先鋭化していくことを社会がコントロールする術を持っていないことが本質的な問題です。

もちろん、競争の先鋭化を社会が問題視し、良識を持って先鋭化を抑えることができるのなら、それが一番です。しかし、これまでの世の中の流れを見ても、なかなか簡単にはいかないと思えます。一方で、競争の先鋭化を強いルールや規制で押さえつけるやり方でうまくいくかも疑問です。

理想的なやり方は、ESG投資の例のように、各主体が合理的な判断を行うことで、自動的に社会にプラスの作用が働く無ような仕組みを社会に持ち込むことです。

ESG投資では、機関投資家は年金などの運用という自身の目的に照らして、長期的な社会の安定や持続可能性を追求する方向で投資を行います。これは純粋に合理的な選択です。そして大企業にとっても長期的なビジョンを掲げて経営を行うことは合理的です。

ESG投資の例は持続可能な社会という観点でしたが、これを競争の先鋭化のコントロールにも応用できるような仕掛けができれば、しなやかなコントロールができるのではないかと思います。この考え方は、個人や組織が自由意志を発揮することで社会を豊かにするという意志主義の理念にも合致します。

競争の先鋭化を押さえる事とは別に、協調の考え方についての教育や啓蒙にも取り組むことが重要です。これは自己犠牲や利他的な道徳教育だけでなく、合理的な行動が社会にプラスの影響を与え、結局は自分自身のためにもなるということを理解してもらうためのものです。

理論や事例の紹介だけでなく、実際にワークショップやロールプレイのような形で、自分の心の動きや真剣な思考の過程を経験しながら納得してもらうような仕掛けが望ましいでしょう。また、あえて短絡的な思考や、ズルをした場合に、社会からネガティブなフィードバックがかかり、結局が自分が損をしたり害を被ったりすることを理解してもらうような形で学ぶことも効果的でしょう。

さいごに

私のアイデアは、理想主義的に感じられるかもしません。しかし、協調的な思考や行動は、家族や友人関係などの親しい人たちの間ではごく自然にみられる考え方や行為です。むしろ近代から現代にかけての資本主義や工業社会に基づく競争的で画一的な考え方の浸透が、人間の持っているこの素直で素晴らしい能力を阻害しているのだと私は考えています。私のアイデアは、決して理想主義ではなく、地に足の着いた現実的な実践を伴うことで現実になり得ます。

一方で、このアイデアが実るためには、社会にある程度の余裕が必要です。社会的な余裕がない状態では、確かに現実離れした話になりかねません。しかし、現代社会にはこのアイデアを実らせるのに十分な余裕が既にあると思います。もし余裕がないと感じる人がいるとすれば、それは社会の豊かさから疎外されている人か、あるいは物質的な豊かさがありつつ、先鋭化した競争の中で心に余裕を持てなくなっている人なのではないでしょうか。意志主義の目指す社会は、まさにそうした人たちに対する提案なのです。

私たちは本来、神経でつながれた自分の体だけでなく、見えない中空の糸でつながり合っているのです。一人が全てとつながっているわけではありませんが、フェルトのように糸が絡まり合って、誰一人取り残されないような社会になっているはずなのです。

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