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キリスト教と霊性について思ったこと

(この記事は2021.2.14の連続ツイートをまとめたものです) 

 キリスト者における霊性ってなんやろ。僕は尽きるところ、神さまから与えられた愛の器である自分の「ココロ」を大事にすること、聖霊の息吹を迎え、熾火を灯し続ける「霊の宮」として整えていくこと、なんだろうと思っている。

 そのためには、時にはココロをストレッチしたり、あるいは耕したり、色々に思い乱れる心をファスティングしてみたり、時には精一杯抱きしめたり、時には心の赴くままに遊ばせてみたり・・・手をかけてあげないといけない。

 でも、自分の命の大切なところに触るのだからこそ、素人考えで無茶をしちゃいけない。そのために、練達した助言者や同伴者、ガイドレールになる技法、そうした環境を整える中で生まれる心理的安全性が必要なのだろうと思う。

 もちろん、修道者や修行僧のように、一定の技法のもとにあえて精神を追い詰める修行もある。ただ、それもまた「見守り」あってのこと。俗人は不用意にそこまでしちゃあ、いけない。日々の暮らしの中で心を養うこと、そこに専心すればいい。

 そのための技法や体系が、他の伝統宗教でもそうだろうが、キリスト教諸教会にも息づいている。無理のない、自分の信仰的立場に近い実践からアプローチしていけばいいのではないかと、私は思う。

 というのが、この数日の「霊性」を巡るやりとりを総括して僕が思ったこと。考えたこと。

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