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似たもの同士で集まると、あんまり良くない

 人間って一人一人で結構、考えが違います。何十年、連れ添っている夫婦だって考えが違うことが多いですから。そもそもなぜ考えが違うかというと、遺伝子が違うからでして。

 逆に言えば、遺伝子が同じ一卵性双生児は、好みや考えがほとんど同じだったりします。遠く離れたところで育てられた一卵性双生児(養子に出されたとかで)でも、好みが一緒だったりするわけです。ま、それをまともに考えると「自分」なんて無いんじゃないかと思ちゃいますが。それは置いといて、ともかく、好みや考えは遺伝子で決められている。

 そして、遺伝子に多様性があるのは、めっちゃそもそも論を言えば、有性生殖が始まったからです。生物は元来、分裂して増えていた。今でも単細胞生物は、ただ分裂して増えていきます。パンを膨らますイースト菌とかです。

 で、分裂して増えていくんですから、これは「死なない」ということでも、あります。死の心配もなければ、恋愛や結婚の問題も無い、そして皆が同じ遺伝子ですので、意見が揉めることも無いという、イースト菌の世界はある意味、理想郷にも見えます。ま、パンを膨らました末に焼かれてしまいますが。

 そのような平和な無性生殖の無限分裂の生命は、でも結果的には弱くなった。遺伝子が変わらないから、です。突然変異に頼るしか無い。分裂時のコピーエラーですね。で、そうじゃなくて、意識的に遺伝子の多様性を持たせようという仕組みが、有性生殖です。

 有性生殖のためには、生殖能力(分裂能力)を持たない、遺伝子の運び屋としての「オス」を持たないといけない、というデメリットはあるんですが、それ以上に、遺伝子を素早く組み替えるというメリットが大きかったから、有性生殖がこれだけ世界にはびこったわけです。

 有性生殖というのは「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」です。有性生殖で遺伝子をごちゃ混ぜにしたら、いろいろなものが出来る。そのどれかが環境に適応すれば良い、ということです。自然選択の結果、生き残るものが生き残る。なぜ、このような方針がうまくいくかというと、環境が変化するからです。地球環境の変化は、コントロールできません。太陽の活動でも左右されるし、隕石が落っこちてきても影響がある。そういう予測不可能な事態には、有性生殖で遺伝子を混ぜて、下手な鉄砲を打ちまくるのが良かったわけです。

 で、ついでに、有性生殖で有用な遺伝子を残せたら、その生物は用済みですので、いなくなった方が良い。ということで、死というシステムも取り入れました。

 死神という落語に「命の蝋燭」が出てきますが、テロメアっていう命の蝋燭を埋め込んで、ある一定の活動をしたら停止するようにしたわけです。で、こいつもとてもうまく働いたから、生物は死ぬようになったわけです。原始的なイースト菌は死にませんが、死なないから変化できない。遺伝子で見れば、有性生殖と死によって変化スピードがめちゃめちゃ上がったわけです。


 めっちゃそもそも論を言いましたが、何が言いたいかというと、多様性は大事だということです。ただ、我々は一方で「似たもの同士」で集まりたくなります。違う考えの人を、嫌います。違うもので集まった方が良いのに、違うものを嫌ってしまう。

 この矛盾は、そもそも人間は集団で生きてきた、という前提を入れると解決します。集団は、前提として在るのです。どうにしろ集団はあるのだから、その中で「似たもの同士」で集まった方が良い。そして、違う人とも一緒に行動する。集団には、それ以外の選択肢が無いわけです。

 現代社会は「個人化」が進んだ社会ですから(もちろん国や文化によって差異はありますが)、一人で生きるか、それとも集団に所属するか、という選択肢があります。でも、人間の設定から言えば、そもそも、そんな選択肢があることがおかしい。おかしいというのは、遺伝子は想定していない、ということです。集団で生きることしか、想定していない。コンビニに甘い清涼飲料水が溢れているのを想定していないように、遺伝子は、一人で生きる(生きられる)社会を想定していない。そもそも集団ありき、だと想定しているんです。

 そもそも、集団を前提としているのならば、その集団はランダムな構成になっている。誰かが意識的に選んでいるわけではなく、ただ、そこに生まれたということで所属してきますから。

 そして、有性生殖により遺伝子はランダムになりますから。とすれば、個人化社会になった我々が、これから集団を形成しようというときに(僕はしようとしているわけですが)、気をつけなくてはいけないことは、人を選んではいけない、ということです。そもそもが、ランダムな集団が前提なはずなので。似たもの同士で集まってはいけない、ということです。

 うっかりすると、我々は自分と似たものと仲良くなり、心地よくなりますが、前提としての「集団」は、もっとランダムに、来るもの拒まずでやったほうが上手くいくはず。で、一方でそれは、きつくもあるんです。縛りゲーですから。だから、ほとんどの集団は、試験だとか、宗教に帰依するとかいうことで選抜するわけですが。でも、コンビニを使わないという縛りゲーをすると、まぁまぁ健康になるのと同じで、人を選ばないという縛りを入れた方が結局は上手くいくのではないか、と思っています。理想論として。またあした。

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