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自分ができることを、誰もができると思うな

 僕は2006年に東京から高知に移住して、もともと、山奥の一定のエリアを、自分たちだけの王国みたいにしたいと思って、土地を買って家を建てた(半セルフビルド)のですが。

 山奥の土地は安いし、家も、個人で大工さんを雇って、建材も中古を使うとか、ネットで買うとすると、普通に家を建てる3分の1ぐらいの価格で建てられると分かりました。もちろん、自分もかなり働きますけど。でも、経験が無くても出来るから、山で暮らしたい人にも、そうしたら良いよと言っていたんです。


 それが間違いだったなと気づいたのは、2〜3年ぐらい前で。何かきっかけがあったわけではないんですけど。何十人にも、そういう話をして、こうやったら買えるよ、こうしたら安く建てられるよ、という話をしてきたんですが、実際に土地を買って家を建てた人は1人もいなかった。

 自分ができるからといって、誰もができるわけではないんだな、というのに気づいたんです。というと、なんか自分ができる人のような表現になっちゃいますが。ま、実際、見も知らぬ土地を買って家を建てるということに関しては、できるのでしょう。

 自慢的な表現を中和するために、できないこともいろいろある、音楽も全く覚えられないし、歌も歌えないし、走るのも苦手(特に短距離走)だし、コツコツ努力するとか向いていないし、とかカミングアウトして中和しておきますが。人間、僕も含めて、現代人はほとんど「他人」を知らないのです。この人は何が得意で、何が苦手で、ということを詳細に知っている相手が1人もいない、というのは、普通。僕もそのレベルで知っているといえば、家族ぐらいのものです。ほとんど知らない。


 そして現代では、似たもの同士が集まります。例えば、大阪桐蔭の野球部にいたら、周りは野球がうまい人ばかりになる。東大に行ったら、周りはテスト勉強ができる人ばかりになる。大阪桐蔭の野球部にいたら「ボールをまっすぐ投げられない人」が世の中にいるなんていうことは、想像できない。そのレベルでの「野球が下手」というのは、バッティングが下手とか、守備の送球がそれることがある、とかいうレベルの話で、そもそも走れないとか、ボールが投げられないとかいう人が世の中にいるというのは、想定外になる。

 自然と、自分を中心として似たものが集まった世界の中で、自分ができることは当然、ほとんどの人ができると思うようになるわけです。それも、自分が大して苦労もしていないことであれば、より、できて当然、できないのはサボっているからだとか、そう思ってしまうわけです。

 でも、できないものは、できない。人間は多様性があるんです。僕だって、たぶん、どんなに努力しても(するつもりも無いけど)、歌がうまくなることは無いと思うんですよ。短距離の100メートル走で12秒台とかになることも、有り得ないと思う。


 その一方で、ちょっと走り方を習ったら、12秒ぐらいで走れる人はいるわけです。同じように、僕も、こうやって文章を書くのは努力しなくてもできるし、っていうか、ほとんど楽しみでやっていますし、知らない人と交渉して土地を買うとかも、大好きというわけではないけど、特に苦労せずに出来る。だから、山に住みたいという人に「登記簿閲覧して、所有者と連絡とって、交渉して、買って、大工さんを雇って家を建てればいいよ」とか言っていたんですよ。

 これは今、思えば、長嶋茂雄が「来たボールを見て打てばいいんだよ」と言っているようなものです。意味、無いんですよ。いや、そりゃそうやろ、と。それで出来りゃ世話ないよ、と。で、今、コミュニティづくりという方向になっているのは、お互いが違うのだから、違うことをして、協力し合うのが一番良いということに、やっとこさ気づいたからです。苦手なことをしなくて良い。得意なことをすれば良い。


 日本の教育の方向性は「得意を伸ばす」ことよりも「苦手を無くす」ことに注力しています。ま、小さな問題としては、その方が大学入試テストに通りやすい環境だ、ということでしょう。90点のものを100点にする努力を、苦手な、現在30点の科目に向けたら、それが70点ぐらいになれば、トータルの点数が上がるでしょう。90を100にするより、30を40にする方が簡単です。ま、小さい理由としては、そういうことだと思います。


 大きな理由としては、人の生き方が「個人化」してきているから、オールマイティになんでもできる人が良い、ということです。最近の「イクメン」なるもの、というか、理想の「3高」ならぬ「3低」ってのがありますね、低依存とか、低燃費とか。ま、いわゆる「自立」もそうです。これらに何が共通しているかというと、オールB、全てで70点、ということです。「普通の人が良い」というのも、全てで70点、ということです。そりゃ普通じゃないじゃん、というツッコミは置いておいて、それが理想とされているということです。

 仕事もそこそこできる、家事もそこそこできる、そしてプライベートもそこそこ楽しく面白い。「個人化」した社会の理想像は、必然、そうなります。というのは、個人(せいぜい夫婦)で生きるのだから、どこかに穴があると、ダメなんですよ。欠点主義になる。栄養素の、ドベネックの桶理論というのがありますが。ググってください。一番「下」の数値が影響するんです。仕事がいくらできても、家事が全くできない、育児が全くできなかったら、この「個人化」した社会では不幸になりがち。だから、オール70点が最高なんです。

 
 でも、これは社会の前提が「個人」の場合です。チームを組んだら、どうか。仕事と家事とプライベートの面白さと、分けられたら、どうか。そしたら「仕事だけできる人」は、その能力を伸ばせば良い。個人ではなく、親族なり、コミュニティなりで、フォローできるのであれば、得意を伸ばした方が良いんです。1人だとオール70点が理想ですが、10人の集団だったら、仕事が100、他は0、という人がいたら価値がある。その人に仕事を任せれば良いわけですから。

 サザエさんのような大家族であれば、マスオさんは、仕事だけしていればいいわけです。波平も家事をしないでしょう。だって、人数がいますから。タラの面倒も、カツオ(タラのおじさん)が見てくれますし。核家族であれば、カツオは役立たずの負債ですが、そこにタラとか、近所のイクラがいたら、その面倒を見ることぐらいはできるわけで、プラスになるんです。そのぐらいの、せいぜい10人未満の集団でも、人数がいれば、仕事や家事に専念できる人が生まれるわけです。分業できる。


 分業すると、人間を評価する物差しは増えます。それぞれの人の数だけ、本当は、あるんです。それに近くなっていく。みんな違ってみんないい、という金子みすずの例のやつですよ。それは、個人化した社会ではできない。ま、よく知らないで言うけど、「個性を伸ばす教育」をやっている国は、コミュニティがしっかりしているんじゃなかろうか。そのコミュニティが地域ベースなのか、親族ベースなのか、企業ベースなのか、国(福祉)ベースなのかは知らないけれど。

 イメージだけで言うけどl、北欧なんかは高福祉社会で、国がケツ持ちしているから安心して個性を伸ばせるんだと思います。低福祉で、自立を目指す社会になると、没個性になるんです。それが、その環境での最適解ですから。でも、没個性というのは生産性が低いんです。

 人間の能力は、不得意なことをすると、伸びません。得意なことをすると伸びます。当たり前です。大阪桐蔭の野球部に「勉強も大切だよ」といって、東大とは言わないまでも、そこそこの大学に行くレベルの学力をつけさせようと思っても、割に合いません。東大生に「野球もするべきだよ」といって、試合が成立する程度の野球技術を教え込んでも、意味がない。人間は特性が違うのだから、それぞれの得意を伸ばした方が、最も、本人も幸せだし、能力も伸びる。当たり前です。

 すると社会としても、そのような人材がいた方が全体として伸びる。ということで、個人化して、自立を目指す社会は、必然、オール70点を目指し、不得意なことに時間を費やし、生産効率が悪くなり、ストレスも溜まり、疲弊していくんです。ということで、解決策は、個人ではなくコミュニティを作ること。個人という枠ではなく、ある一定の集団が、みんなが運命共同体だという意識を持ち、信頼し合って、生きていくことです。はい。またあした。

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