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「良い政治」には、ほとんどの人が不満を持つ

 とある環境において、どう行動するか。生命とは「行動」ですから。で、どうやって行動するか、その方法が、本能とか、人間で言えば文化になるわけです。で、とある場所において、ある一定の期間(数百年とか)、通用する行動パターンがあれば「文化」として定着するわけです。

 もっとも、現代ではそのペースが早くなっており、数年で「文化」も出来上がりますが。大企業じゃなくてフリーランスが良いとか、SNSでフォロワー増やしてマネタイズして自由に生きていこう、とかいうのも、現代的な「文化」です。


 どのような行動パターンも、とある環境においてしか、通用しません。そして環境は様々な要因で変化します。

 インターネットやスマホのような技術的な変化もある。国際情勢による変化もある。大企業の行動による変化もあるし、政府の政策による変化もある。そして自然要因で言えば、気候変動とか、東日本大震災のような変化もある。ウクライナ情勢からの世界大戦に発展するんじゃないの?みたいな変化もある。それぞれの要因がそれぞれに変化して、環境は常々、変わっていきます。だから、最適解も変わる。

 ここで「昭和的な年功序列は古い」とか「食糧危機に対応するように自給自足しよう」とか「災害リスクの無い土地に住もう」というのも、それぞれの変化に対応する話としては、ま、それはそれで重要なんですが。

 もっとメタに、抽象的に考えると、そもそも、どのような行動パターンも絶対的では無い、ということです。再び「年功序列」や「真面目」が通用する環境になるかもしれない。自給自足は効率が悪いという時代がまだまだ続くかもしれない。大震災も起こらないかもしれない。そんなのは分からないです。


 言いたいのは、だから「変化しよう」、ということでは無いのです。むしろ、集団として、いろいろなパターンを想定しておこう、ということです。これは「集団」でなければできないし、集団のサイズが大きければ大きいほど、対処できる問題は多様になります。

 僕はよく「100人の集団」を基本的なコミュニティにすれば幸せになる、と話していますが、それは人間の本能が100人設定になっているからであって、100人の集団では対応できない問題は山ほどあります。

 例えば、安全な原子力発電をどうやって行うか、なんていう問題は100人集団の問題ではありません。少なくとも100万人ぐらいの集団の問題です。火星に植民地を作るというレベルになると、10億人ぐらいの集団の問題です。地球に落ちるかもしれない隕石に対応するにはどうするか、というのも、そのレベルの問題です。

 そのような問題は、想定して準備しても、起こらないかもしれない。人類が滅亡する隕石なんて数千万年に一度しか落ちないかもしれない。そうであれば、ほとんど、そこにかけるコストは無駄になるわけです。


 ですから言いたいのは、無駄を容認すべき、ってことです。というか、無駄じゃないんですよ。

 皆さんも、車を運転する人は、自動車保険に入っていると思います。で、事故が起きなかったら、ああ、自動車保険は無駄だったな、と思いますか? 思わないでしょう。生命保険をかけていて死ななかったら、ああ、無駄な出費だったなとは思わないでしょう。でも一方で、学問に対しては「何の役に立つんだ」とか、実用的なものにしか予算を出さない、とかになってくる。同じことです。それは、保険は無駄だというのと同じことなんです。

 食糧安全保障においても、国として孤立するとか、災害で輸出入が止まるという想定のもとに、農業に補助金を出して食糧安全保障をすれば、平時においては価格は高くなるし(予算を使うし)、無駄になるんですよ。農家ばかり優遇するより、もっと生産効率の良い産業に集中させて競争力をつけなきゃいけない、という話になるわけです。

 それは、去年、自動車事故が起こらなかったのだから、今年は保険を解約しようよ、というようなものです。


 さて。人間は、自分がやっていることを「当然」だと思います。そりゃ、それでいいんですよ。そうじゃなければ、あらゆることを、本気でやれませんから。だから、それぞれが違うことを思って、それぞれが本気でバラバラに動けばいいんです。そして、そのどれかが当たるかもしれないし、ずっと「無駄」な、つまり保険が適用されない安全な時代が続くかもしれない。でもそれはそれで良かったことだし、意味あることなんです。

 なので必要なのは、メタにそれらを認めて、集団のリソースを配分するということです。それが政治です。

 ですから「良い政治」というのは必然、ほとんどの人にとっては、意味わからない無駄なことになるんです。だって、多くの人は自分がやっていることが最も大切だと思っていて、他のことは無駄だと思っているわけですから。

 特に、現代の、その場所での「環境」に適応している人にとっては、なぜ最も生産効率の良い「自分の行動」にリソースが配分されないんだ、と怒ることでしょう。でも、リソースを集中させることは、環境変化に適応できないことになります。あらゆることに保険を適用させた方が、集団全体が永続する確率が高くなるんです。


 これが民主主義の矛盾の根本だと思います。個々の人間は、専門家です。自分の人生の周りの専門家であり、それが当然であり、世界一詳しいわけです。その目線で言えば、集団のほとんどの人は間違っているんです。なので、集団全体を永続させようとする政治的な行動は、ほとんどの人にとって、意味不明な、無駄なものと映り、不満が溜まります。ですから政治は権力を維持するために、その場の対応を繰り返す、近視眼的なことにならざるを得ない。てか、むしろそれを目指しているんです。

 意外と民主主義ではない国の方が発展したりするのは、目の前のことではない、長期視点の投資などもできるからです。もちろん、その一方で「今現在」の幸福度は下がり、抑圧などもあるでしょうが。

 特に現代のような情勢が不安定な戦乱期だと、そういう政権(国としての行動パターン)は適応しがちです。というのは、平時においては、多くの人の意見は一致しますから民主主義でいいんですが、危機的状況では様々な意見が入り乱れるから、船頭多くして船山に登る状態になります。そういう時は、専制政治が適応したりする。

 ってことで「完璧な政治システム」なるものも存在しないし、誰もが満足な政治も行われることは無い、ということです。しかし、それを皆が了承していれば、ま、ましになるかなとは思います。またあした。

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