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なぜ学校の勉強は役に立たないのか

 なぜ学校の勉強は役に立たないのか、という話をします。まず言い訳ですが、テストができて良い学歴、良い会社に入ったら収入が増えるから役に立つ、という話は、置いておきます。それは実際には、役に立っていませんから。ただ、そういう変なシステムに上手く入り込むことができた、ということです。役に立つというのは、実生活で役に立つ、ということです。

 試験の元を辿れば、中国の科挙です。中国の古典から出題される、世界一deathなテストです。科挙を真似て欧州が「テスト」を作り、それを明治日本がコピーしているので、元は科挙です。さて、科挙は何のための試験かといえば、官僚を選ぶためです。中国は古来より皇帝が絶対であり、その命令を忠実に実行するのが官僚です。なので、官僚は発想する必要がなく、言われたことを忠実に行うのが何より大切、というのは、一般的な「試験」への反論ですし、僕もそれはそうだと思いますが。ちょっと違う理由を説明します。

 官僚の仕事は命令を実行する「だけ」だ、とか言われても、その実行というのは大変です。大変だからこそ、優秀な人間を選抜するわけです、それがたとえ丸暗記の能力であっても。何が大変かというと、中国というのは広大な領土があります。広大な土地をまとめるためには、どうにかして「同じ」にしないといけない。始皇帝の度量衡なんていうのも、そうです。同じにするということは、抽象化するということです。つまり、官僚に求められているのは、物事を抽象化する能力です。

 命令系統がピラミッド型であれば、現場から遠い中央であればあるほど、物事が抽象化します。そして、抽象化しないといけないんです。法もそうです。一つ一つのケースを裁くのではなく、文章という抽象化したルールを作らなくてはいけない。それが法です。一つ一つの事情を鑑みて裁くのは、大岡越前です。そこに事情があるから、ドラマになるんです。法律をそのまま守る裁判官がドラマになるわけないんです。ということで、広大な中国の官僚は抽象化能力が高いはず。それを選ぶための試験です。

 試験というのは、そもそもペーパーテストですから、誰が見ても同じです。それが、抽象度が高いということです。誰もが理解できるのです。で、一方、我々の生活というのは具体的なんですよ。個別の人間がいて、個別の土地がある、そこで人間は生きるわけです。何より、我々の肉体というのは具体的なんです。実際のモノですから。一応、抽象的な、ホモサピエンス共通の特徴は、あるんですよ。100メートル上から落ちたら死ぬとか、せいぜい120年しか生きないとか。ま、共通するのは、そのレベルのことです。

 我々の肉体は具体的であり、我々の生活も具体的です。ですから、役に立つことというのは、具体的なノウハウです。そんなものを、科挙に由来する試験、そして学校が求めるわけが無いんです。だから昔の人は、学校に行くと馬鹿になる、と言ったんです。実際、目の前の畑、目の前の人間、それを無視して机上の空論を宣う馬鹿になってしまうと憂いたわけです。でも、先ほど言ったように、国を運営する官僚には「机上の空論」は必要な能力なんです。それを末端で具体化するためには、共通項は抽象的になるんですから。

 ただ、そんな能力が必要なのは、本当にごく一部の人だけです。99%の人は、具体的なノウハウが必要だし、それで暮らしが豊かになります。微積分の公式よりも、カレーライスの作り方の方が、ずっと役に立つわけです。でも、良い学歴から良い会社に入って、それが既得権益なのかどうかは、僕は社会にそんなに参加していないので知りませんが、お金がもらえるわけです。役に立っていなくても、働いているような気になるわけです。で、定年してみたら洗濯機も炊飯器も使えない、と。そんな人が役に立つ仕事できるわけないじゃないですか。

 ってことで、学校の勉強が役に立たないのは、勉強は抽象度の高いことを教え、世間的にもそれが頭が良いとされるけれども、実際に生活を豊かにするのは具体的なノウハウだ、ということです。具体的なことというのは、人の役には立ちません。自分のため、家族のため、周りのためのノウハウです。だから、本になるわけでも無い。よその人には、役に立ちませんから。でも、周りが幸せになり、自分の暮らしが豊かになります。リソースを少し具体的世界に向けた方が、豊かになると思います。またあした。

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