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人間の適温は20度前後であり、人間の適集団は100人ぐらい、ということ

 何ヶ月か前かな、noteに「ヒトの飼い方」というタイトルで、考えをまとめたんですが。

 僕が「人間は集団で生きるべき」と言っているのは、人間という動物を飼うとしたら、こうするのが良いよ、というだけの話なんです。生き物ってのは、それぞれに最適な環境というのは違います。適温も、湿度も、どのくらいの密度で飼うかとか、どういう植物と一緒に飼育するか、餌は何が良いか、人間とペンギンとヤギとでは違うわけです。で、僕が言っているのは「人間の場合は、こうしたら良いよ」という話です。


 人間の「適温」は、18度〜23度ぐらいです。そして湿度が40%ぐらい。このぐらいだと心地よいのは、人間は熱を発散しているんですが、その熱が自然と発散できるからです。

 これ以上の温度や湿度だと、もっと熱発散させないといけないから、汗をかく。発散できないと熱中症になる。また、適温より低いと、熱を必要以上に発散してしまうから、そうならないように、もっと発熱したり、服を着込んだりしなきゃいけない。

 人間の場合は、熱の発散量とちょうどバランスが取れているところが、18度〜23度ぐらいだということです。でも、これがペンギンの適温かというと、違う。ヤギの適温かというと、違う。

 当たり前ですけど、生き物によって適温は違う。生き物によって「適切な環境」は違う。で、人間の場合、適切な温度や湿度、食べ物、などがありますが、それに加えて「適切な群れの頭数」がある、ということです。僕がいつも言っているのは「人間の適切な群れの人数」という、環境の話なんです。


 毎度言うように、人間の群れの適切な頭数は、100ぐらいです。それが最も自然。温度で言ったら18度〜23度ぐらいのものです。

 でも、これより温度が低くても高くても、人間は生きられる。零下のシベリアでも、40度の中東の砂漠でも生きられるように、人間は技術を発展させた。そういう、最適ではない環境で生きるためには、それなりの設備が必要です。家を作る、火をたく、服を着る、などなどの対策が必要。宇宙だったら、宇宙船が必要。でも、そういう対策の必要無い、適温の場所だったら、人間は最も楽に生きられる。

 人間の本来の適温は18度〜23度であり、人間はそこで生きるようになっている生き物です。そこで、最も快適に生きられます。

 でも技術の発達により、生息域を広げたわけです。零下の世界から、40度の世界まで生きられるし、宇宙という絶対零度に近い世界でも生きられる。それと同じように、群れの人数も、最適な人数ではなくても、人間は生きられる。技術や思想の発達(宗教とか)により、生きられるようになったのです。


 群れの人数も、1人という極小の群れから、70億人という極大の群れまで、人間は適応しようと思えば、できる。

 1人で生きるのは「ライフハック」であり、FIREして好きなことしよう、みたいなルート。70億の群れで生きるのなら、地球のためにとか、世界の恵まれない人のために、みたいな「社会的な活動」になる。でもそれは、零下や40度の世界で生きるようなものであり、やろうと思えばできるけど大変だよ、ってことです。どうせなら適温の、ゆるい世界で生きたいよね、と僕は思います。それが100人の集団です。


 でも一方で、今まで零下の世界で生きてきた人が、20度の「適温」で生きるためには、やらなきゃいけないことがある。服を脱がなきゃいけないのです。毛皮のコートを着たままでは、零下では良くても、20度は暑すぎる。

 「孤独な社会」に適応した我々が、「100人の社会」に適応するためには、服を脱がなきゃいけない。

 それは、お金とか、プライバシーとか、所有物とか、プライドとか、そういった思想です。それは、孤独な社会に適応するために身につけたもの。それを脱ぎ捨てないまま100人の社会に入れば、ストレスになる。


 今、適当に、お金とかプライバシーとか所有物とかプライドとかと言ったけれども、それらは後天的なものです。それがあったほうが、この孤独な零下の環境では「普通」であり「生きやすい」、ということで、それを頑張って身につけてきたわけです。

 当たり前ですが、子供にそんなものはありません。服を着て生まれてこないのと同じです。でも、それをただ捨てればいい、というのも、ちょっと違う。それを捨てても大丈夫な環境をまずは作らないと、孤独な零下の社会において、損をすることになる。シベリアで服を脱いで凍えちゃうようなものです。


 だから、我々は、ちょっとずつ環境の温度を適温に近づける──群れの人数を拡大していくと同時に、お金やプライバシーや所有物やプライドというものを、少しずつ捨てていく。それが、楽になる道です。

 100人の信頼できる人がいる、という人は、現代社会ではほとんどいないけど、1人や2人の愛する人がいるというのは、まぁまぁいるし、それぐらいは想像できると思います。配偶者と子供とか。で、そういう存在ができたら、自分が所有している(と思っている)お金とか、プライバシーとか、そういうものは減っていくでしょう。

 ただ単に、それを拡大していくだけです。で、100人が適温なのは、100人以上は人間は覚えられないし、共感できないという、簡単な理由です。

 で、こういうのは0か100か、白か黒かという話ではなく、グラデーションの話です。ですから、愛する人が2人より3人になったら、幸せ。10人だったら、もっと幸せ。それが100人ぐらいになったら、おそらく最高に幸せ。でも1万人になると、それは行き過ぎ。そう思っています。


 孤独な社会とは逆に、1万人とか70億みたいな「巨大な群れ」の世界で生きている人。地球のためとか、他人のためとかに生きている人。こういう人はこういう人で、生まれながらにそういう思考にはなれないから、暑い砂漠に住む人が風通しの良い白い服を着るように、それなりの思考で身を包みます。

 お金やプライバシーとは逆の、利他心です。宗教的な理念とか、愛国心とか、未来のためにとか、人類のために、といったようなもの。そういう思想が、砂漠の服のように、その環境には合っているということです。


 利己的なプライバシーもお金も、また逆に、利他的な崇高な理念も無く、ただ思うがままに「自然」にいられるのが、100人ぐらいの共同体だろうと思うのです。利己心も利他心もなく、ただ普通にいられるのが、最も楽な世界だと思います。

 ただ、我々がそこに適応するためには、着込んだ服を脱ぐような、ちょっと頑張らなきゃいけない適応が必要だということです。また、崇高な理念を捨ててしまうような適応も必要。20度の適温の中では、ほとんど裸でいても快適なように、そういう群れが、人間が最も快適にいられる世界だと思います。


 ま、でも実際に、僕とか、これを読んでいる人たちが、そこで完全な適応を得られるかというと、それも難しいかなとは思っている。まだやっていないから、本当のところは分からないけれども。

 というのは、もう何十年と、服を着るのに慣れてしまった我々が、ヌーディストビーチでリラックスできるのか、ということですよ。できないでしょう。おっぱい出てるじゃん、とか思うでしょ。たぶん、できないと思う。でも、我々の子供や孫の世代は、そこに適応できるのかなと思う。100年後ぐらいに。またあした。

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