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ヒトの飼い方

このnoteでは、「ヒトは、どう生きるべきか」という、スケール大きめの話をしようと思います。今、最後まで書き上げて、最初から校正しつつ成文しているんですけど。8万字になっちゃいました。ま、それぐらいの分量がありますので、お時間のある時に、お読みいただけたらな、と思います。

で、こういう話は、どこからとっかかりをつけて良いか分かりませんし、かといって理屈を積み上げていく話し方でも、面白くないし、そもそもそんなこと出来ないとも思うので、居酒屋の雑談みたいな感じで、つらつらと語っていこうと思います。

さて。どうですか、皆さん。元気ですか。それとも元気じゃ無いですか。日々、悩んだりしていますか。まぁ、悩みが無い、毎日ハッピーで仕方ないぜ!っていう人は、現代日本では激レアだと思いますので。多かれ少なかれ、何らかの悩みがあると思います。

学校に行くのが嫌だなとか、会社に行くのが嫌だなとか、家族仲が悪いとか、絵描きになりたいけど売れないとか。そんな具体的な悩みが無くなったとしても、その先に、そもそも、なんのために生きているんだろう、なんていう本質的な悩みが出てきたりとか。

悩みというのは、いくつかの「矛盾する物差し」から発生します。物差しが一つだけなら、悩みなんてありません。ただ、それをする。そんだけ。シンプルなものです。でも世の中には、いろいろな物差しがあります。「物差し」と言っていますが、これは言い換えれば、価値観、善悪、常識、文化、とも言えます。同じことです。

現代社会には無数の物差しがあるので、とある行動が、こっちの物差しでは「やるべき」なのだけど、こっちの物差しでは「やらないべき」のように、矛盾が起こる。そういう時に、どちらかを選ばなきゃいけないから、我々は悩むのです。



選択はストレス

意識高い系の有名な話ですが、ジョブズやザッカーバーグが、いつも同じ服を着ているのは、今日はどの服を着ようかという選択をしないことにより、仕事での選択へのエネルギーを保つため、なんて言いますよね。どの服を着ようか、という軽い選択ですら、ストレスがかかるのです。ジョブズやザッカーバーグのような、元気なヒトですら。何かを選ぶというのは、ストレスがかかることなんです。なので、とある行動が、自分の中の複数の物差しにより、矛盾した結果をはじき出している時、我々は、行為の選択を迫られるので、悩み、ストレスを抱えるのです。

我々が持っている物差しは、どの物差しが正しく、どれが間違っている、なんていうことも無いのです。物差しの中には「法律」という物差しもありますが、これだって、普遍的原理ではありません。究極的に正しい、というものは、何一つありません。人を殺すなんていう、絶対悪に思われがちな行動だって、時代や国によっては善になることは多々ありますし。そもそも、絶対の正しい物差し(行動の価値観)があるのならば、皆、それに従えば良いのですから、悩みなんて無いのです。そんな物差しが無いから、悩みが生まれます。

日常の例を挙げれば、「学校に行くのが嫌だ」という悩み。そこには、「学校に行かないと、先生に怒られる」という物差しがあります。また「不登校だと、親が悲しむ」という物差しもある。一方で「学校に行くと、気の合わないクラスメイトがいるので、疲れる」という身体的な幸福感の物差しがある。しかし一方で、気の合う友達もいて、その子に会いたいという、行きたい理由もある。また「学校の授業がつまらなくて、時間の無駄だ、それよりはビジネスの勉強をしたい」という、金銭的な物差しもある。

というように「学校に行く」という行為にも、いくつもの物差しがあり、それぞれで矛盾した結果を弾き出しますので、我々の意識に、悩みが発生します。

(ちなみに、最も強い物差しは「惰性」だと思います。昨日までそれをやっていたから、というのは、最も強い行動理由ですが、これはそもそもの行動理由では無いので、ちょっと別の次元の行動理由です)


ニワトリの話

さて。自分、親、友達、学校、常識、世間。いろいろな物差しがありますが、現代日本の主流な物差しは、お金です。この行為が、お金になるか、ならないかというのは、かなり広く受け入れられている物差しです。これを言い換えれば「ビジネスでは」という言葉になります。

ところで、僕はもともとは東京出身なんですが、15年ほど前に四国の山奥に移住しまして、そこに家を建てたり、ヤギを飼ったりしています。その辺の草を刈って、餌やりなんかして、可愛がっています。イヌ、ネコ、ニワトリ、ヒツジも飼ったことがあります。敷地は10ヘクタールぐらい、東京ドーム3個分ぐらいですかね。ポツンと一軒家です。

ちょっと、ニワトリの話をします。ニワトリは良いですよ。卵を産みますし、生ゴミも処理してくれますし。最後は、お肉にもなってくれますし。とても良い動物です。

ニワトリは、農協で買ってくるんですよ。1羽800円です。ヒヨコとニワトリの中間ぐらいの大きさの、大雛(おおびな)って言うんですけれども、そんなやつが来るんですよ。で、2年ぐらいはほぼ毎日、卵を産んでくれます。エサは、近所にあるホームセンターで買います。

で、2年ぐらいすると、ニワトリも老いてきます。卵の殻が薄くなってきて、黄身の盛り上がりも少なくなってきて、卵を産まない日も増えてきまして。ある日、産まなくなります。となると、適当なタイミングでお肉にして、チキンカレーとかになります。そんなのがニワトリの生涯です。


養鶏場のニワトリ

時々、近所の人から「ニワトリをもらってくれないか」という話も、来るんですが。ある時は、隣町にある養鶏場が廃業するので、10羽ほどもらってくれないか、なんて言われました。養鶏場のニワトリは、まだ1歳ぐらいで、あと1年ぐらいは産むと思うよなんて言われたので、もらうことにしたのです。田舎暮らししていると、そんな話が時々、飛び込んできます。

で、養鶏場の人が、我が家までニワトリを届けてくれたのですが、そのニワトリを見て、びっくりしたんですよ。なんていうか、ボロボロなんです。羽が抜け落ちているし、地肌(まさに鳥肌)が見えているし、そこも皮膚病みたいになっているし。やべぇ、気持ち悪いな、と思いましたよ。死にかけのニワトリです。でも聞いたら、養鶏場はゲージ飼いするし、普通はこんなものだと言うんですね。その道のプロがこんなものと言うんだから、そうなのでしょう。

その時、うちにはすでに元気なニワトリ(羽もツヤツヤ)が10羽ぐらいいたし、養鶏場からもらったニワトリは、カレーでもしちゃおうかと思っていたのですが、その、ボロボロのニワトリを見て、こんなの食べたくないな、と感じたのです。もっとも、僕は自給自足しているわけじないので、普通にスーパーで鶏肉も買います。スーパーの鶏肉も、生きている時は、こんな感じで病気ぽく、羽が抜けたりしているんでしょうが、パック詰めされていると、その光景は見えませんから、気にせず食べらるのですけど。見えちゃうと、食欲が失せますね。かといって、今更いらないと言うのもアレですから。しょうがなく、引き取ったわけです。

で、うちの先住ニワトリ(元気)と一緒の小屋に入れたんですが、養鶏場出身のニワトリたちは、怖がっているのか、小屋から出ることもしないんですね。うちでは、朝になると小屋のドアを開けて、ニワトリがそこら辺を動き回れるようにしているんですが、養鶏場のニワトリたちは、小屋の隅っこに固まって動かないんですよ。


お金という物差し

という話をして、養鶏場のゲージ飼いってひどいよね、ニワトリを身動きできないようにして日光に当たることもなく、目の前の餌をついばみ、卵を産むだけ。まさに「産む機械」。そんな飼い方は動物虐待じゃないか。

なんて言うのは簡単ですけど。ここで「物差し」の話です。ゲージ飼いは、お金という物差しの最適解です。ニワトリという前提条件。ビジネスとして利益を上げるという物差し。その最適解として、ゲージ飼いをして、病気にならないよう抗生物質とかを餌に混ぜて、という行動になるわけです。利益という、はっきりした物差しがあります。その結果として、ゲージ飼いという「行動」があるのです。

もちろん、我々はその恩恵を受けています。スーパーで週1の「たまごの日」に、1家族2パックまでの100円の卵が買えるわけです。で、今日は卵が安かったからオムライスにしようかとか言って、子供も、わーいオムライスだと笑顔になるわけです。微笑ましい食卓の風景が、日本中で展開されるわけです。

現代の主流な物差しは、お金(ビジネス)です。養鶏場のニワトリも、会社員のヒトも、その物差しの最適解となる行動をしています。しかし、ヒトは、産む機械として働けるニワトリと違い、ブラック企業だとか文句も言い出すわけですが。ちなみに、ニワトリは「産む機械」としての仕事を1年ぐらいで終えると、お肉になりますが、卵を産んだニワトリは肉も硬いですので、鶏肉として売られることはほとんど無く、ペットフードとか、ラーメンのチキンエキスとかになりますね。最後の仕事はチキンラーメンのチキン味です。

ま、それはそれとして、チキンラーメンも美味しいし、僕も時々、食べますが。現代社会の多くはビジネスの物差しで動いているので、ニワトリほどじゃないにしても、ヒトもストレスが溜まります。ニワトリだってストレスで羽が抜け落ちるんですから、ヒトだって10円ハゲぐらい出来ます。

最初に、悩みやストレスは「矛盾する物差しがある」場合に発生すると言いましたが。この場合、2つの物差しが矛盾しているわけです。

一方は、お金の物差し。企業に勤めて、働いて、お金を稼がないといけないという行動様式です。もう一方は、ヒトのDNA(身体)の要求。眠りたい、休みたい、っていうかそもそも働きたくない。もちろん、これ以外にも物差しはありますが(親に心配をかけたくないとか、法律を守らなきゃいけないとか)、話を単純にするために、2つだけにします。このように、矛盾した物差しがあるから、悩みやストレスが発生するのです。


幸福という物差し

さて、この8万字(現在)ほどの長い話は、「ヒトは、どう生きるべきか」という問題への、一つの答えを出すことを、目的としています。ここまで読んで、なんとなく察してくれていると思いますが、ろくに構成を考えずに、適当に書いていきます。最終的には、「ヒトは、どう生きるべきか」に行き着こうと思っていますが、寄り道もします。

というか、寄り道をしないといけないんですけど。いろいろな話をしないと、そこに行きつかないのです。一本筋の話でなく、いろいろな枝葉への寄り道をしながら、結論へ辿り着こうと思います。ちょっと言っておくと、生命・意識・自我・感情・文化、というようなものを、ひとつひとつ定義して考えながら、進めていくつもりです。

ということで、これは思想とか哲学とかのジャンルの話です。「ブラック企業なんかさっさと辞めて、ノマドワーカーで自由になろうぜ!」みたいな話じゃないです。そのぐらいで解決するなら、世の中で悩んでいるヒトなんて、いませんから。

というのは、物差しに対抗するためには、別の物差しが必要ですから。ノマドワーカーになっても、物差しは変わっていないわけで、その物差しの中(ビジネスの文脈)での行動を変えようという話です。でも、これからするのは、そもそも「物差し」とは何か、そして、お金に代わる別の物差しの話です。

で、その物差しは「幸福」だと思っています。そして、幸福とは突き詰めれば、ヒトのDNAが充足することなのですが、では、どうやったらDNAは充足するのか。そのためには、DNAが思い描いている「環境」を考えなければならない。想定された環境に近ければ近いほど、DNAは充足し、幸福度が上がるだろう、と。そういう流れです。

そして、これは「個人のヒト」を研究しても分からない。なぜならヒトは集団の動物であり、集団が最小単位だからです。DNAの満足というのも、集団ということを踏まえて考えないといけない。

というようなことを、これから一つ一つ、ときほぐして話していきますので、お付き合いいただければ幸いです。では早速ですが、まずは「生命とは何か」という話から、始めます。


生命とは何か

まず結論を言えば、生命とは環境からの情報入力と、行動出力の間にある、行動様式(アルゴリズム)です。アリゴリズムってのは、計算ということです。なので、関数と言ってもいいですが。入力と出力の間の、関数です。

例として、シンプルな生命を想定しますね。パンを作るときに使う、イースト菌。イースト菌は、ある一定の温度・水分・糖、そんなものがあるという「環境からの情報」を知覚、つまり入力すると、じゃあ、水分と糖を取り込んで、炭酸ガスやアルコールを分泌して、細胞分裂して増えていくという「行動」をします。これが、出力です。そして、美味しいパンが出来るわけです(焼かれてイースト菌は死にますが)。

このように、環境からの情報入力と、行動出力。この行動出力も、周囲の環境に対して行うわけですが。そういった働きを行うものが、生命です。そして、生命によって、いかに行動するかという行動様式(アルゴリズム)は決まっています。その行動様式を決めているのは、DNAという生命の設計図です。

入力された情報により、出力される行動が決まるわけですから、もし温度が適切でなければ、出力(イースト菌の細胞分裂)はゼロになる。水分がなければ、これまたゼロになる。出力がゼロとは、行動しないということです。スーパーの棚でイースト菌が売られていても、細胞分裂しないでいられるのは、出力がゼロになる環境にいるからです。

ヒトで言えば、視覚という感覚入力器官で感知できる電磁波の波長は、可視光線だけに限られています。ラジオの短波という電磁波も、そのあたりを光(可視光線)と同じく飛び回っているのですが、ヒトの眼では感知できない。環境からの情報入力ができないので、当然、出力も無い。だから、ラジオの電波は、我々の行動に影響を及ぼさない。

でも、ラジオという受信機があれば、短波放送を受信できるわけです。機械を使って、入力できる範囲を拡張しているわけです。なので、ラジオはヒトの行動様式を変えるわけです。新たな情報入力が行われるので、出力も変わる。例えば「ラジオで知った、バーゲンセールに行く」とかいう行動出力になるわけです。

イースト菌でも、ラジオを聞くヒトでも、同じです。生命の働きというのは、外部からの環境情報入力と、行動出力、それを結びつける行動様式(アルゴリズム)の働きである、ということです。


意識とは何か

イースト菌とヒトの違いは、何でしょうか。単細胞生物か多細胞生物か、すぐ増えるか遅く増えるか、違いはいろいろとあるのですが。意識に注目します。意識があるか、無いか、という違いがあります。なぜイースト菌には意識が無く(たぶん無いです)、人間には意識があるのか、という話をします。

で、意識とは、何か。まず前提として、意識は何か実態があるものではなく、脳(身体)の機能です。なので、解剖したところで、具体的な「意識」が出てくるわけもないし、死ぬ瞬間に魂が身体から飛び出すなんてこともありません。

胃腸の機能が「消化」であるように、脳の機能の一つが「意識」なのです。なので、脳が損傷すれば、意識は無くなります。胃が無くなれば消化できなくなるのと同じです。じゃあ、意識という機能の目的は何なのか。言い換えれば、イースト菌には必要なくて、ヒトには必要な「機能」は何か、ということです。

イースト菌とヒトの違いは、入力情報の中に、同種の他者の行動が含まれていることだと思います。その入力情報を計算しやすくするために、意識は作られたのだと思います。それが、意識の役割です。

ヒトは、社会的な動物です。群れを作る動物、ということです。さて、「意識」の話を続ける前に、どんな動物にも「適正な群れのサイズ」があるという話をしておきます。その後で、意識の話に戻りますので。


ヤギとヒツジの違い

最初から、ちゃんと構成を考えて書けばいいんでしょうが、まぁいいや。僕は、先ほど言ったように、四国の山奥に住んでいるんですが、ちょっと変わった体験としては、ヤギとヒツジを飼ったことがあるんですよ。仕事とかじゃなく、趣味ですが。ま、その理由の一つには「西洋文化の源流には、家畜文化があるはずなので、実際に家畜を飼って一神教の根幹精神を知りたい」なんて下心もあったのですが。

それはそれとして。ヤギを飼っている人は、まぁまぁいるんですけど、ヒツジを個人で飼っている人って珍しいと思います。少なくとも、僕以外には知りません。北海道とかで、ビジネスとして牧場をやっている人はいますけどね。今まで、ヒツジは5頭ぐらい飼ったことありますし、自分で捌いて食べたこともあります(ちなみに、これは家畜法の許可を取らないといけません)。ヒツジは美味しい、特にサフォークは美味しいですよ。顔が黒いやつです。

さて。なぜヒツジよりもヤギの方が飼われているのかというと、ヤギの方が飼い易いからです。ヤギとヒツジ、一番の違いは、群れを作るか作らないか、ということです。ヤギは群れを作らないから、単独(もしくは少数)で飼える。ヒツジは群れを作る動物なので、単独で飼うのは難しい。

ヒツジは1匹だけで飼うと、不安でパニックになるんです。誰か、他者がいた方が良いのです。もちろん、同じヒツジならばベストなんですが、一緒に飼うのはヤギでも構いません。ヒツジを1匹で飼うよりは、ヤギと混ぜて数頭で飼った方が、ヒツジは安心します。

英語でも、ヤギには単数形・複数形がありますが(goat,goats)、ヒツジは無いんですよ。単複同型というやつです。1匹でもsheep、100匹でもsheepです。そもそも、ヒツジを単独で飼うことを想定していないから、単複同型になっているのでしょう。ちなみに、ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、って寝るときに数えるのは、sheepとsleepが似ているというダジャレ由来なので、日本語で「ヒツジが一匹、二匹」って数えても無意味です。

ヤギとヒツジの習性が違うように、動物によって、適正な群れのサイズは違います。ライオンならば、オスを中心とした10頭ぐらいの群れになります。ヌーならば数万頭まで膨れ上がります。ゾウならば数頭。動物によって、群れのサイズは決まっているわけです。そうなると、自然界におけるヒトはどのくらいの群れのサイズが適切なのかという疑問が出てきます。

この答えは、100ぐらいです。文化人類学とかが、原始社会のメンバー数を調査すると、大体、150を超えると分裂するそうです。収集がつかなくなるのですね。現代の会社でも、ワンマン社長が率いることができるのは150人ぐらいまでで、それ以上になると、組織を作らないといけなくなる。法律や宗教などの人為的な環境(文化)によらず、「本能」だけでまとまるヒトの群れのサイズは、150ぐらいが限度ということです。

もちろん、ある程度の幅はあるでしょうが、10ということもなく、1000ということもない。1000人の集団は、覚えられませんから。100ぐらいが、人間の群れの自然なサイズです。


イースト菌の世界と、ヒトの世界

意識の話に戻ります。イースト菌の「行動」に、他のイースト菌は関係ありません。イースト菌の行動に関係あるのは、温度、水分、糖、とかです。そのような条件が揃えば、行動様式(アルゴリズム)のスイッチが入って、周囲の環境から養分を吸収して、拡大して分裂する「行動出力」を行う。これは、イースト菌の周りに、他のイースト菌がいようがいまいが、関係ないわけです。

ヒツジのように、一匹だけだと寂しくてパニックになるなんてことは、イースト菌にはありません。周りのイースト菌のことを気にすることもありません。イースト菌の情報入力に「他のイースト菌の行動」は、関係無いのです。イースト菌の世界にイースト菌はいない、と言っても良いです。

ヒトは、100人ぐらいの群れを作る動物です。そして、他のヒトとの意思疎通も行います。相手が何を考えているか、それにより、自分の行動が変わるわけです。相手が怒っているからこうしようとか、喜んでいるからこうしようとか。そういう行動が、ヒトの群れ全体の利益になるわけです。ということで、群れを作る動物であるヒトは、行動のための入力情報に「同種の他者の行動」を含んでいます。イースト菌の世界(行動に影響を与える環境の情報)にイースト菌はいませんが、ヒトの世界にヒトはいます。

別の例を挙げます。ネコ。ネコはネズミを食べます。ということは、ネズミの行動は、ネコの情報入力の一部になるわけです。ネズミがこう動くはずだから、こちらに先回りしようとか。ネズミの行動を予測することは、ネコの行動様式に含まれています。(ネズミの行動予測ができないネコは、ネズミを食べるチャンスが減りますので、自然淘汰されていくはずです)

ネコは、ネズミの行動が分かる、言い換えれば「気持ちが分かる」方が、生存有利になるわけです。それと同じように、ヒトは、「ヒトの行動予測」をすることが、生存有利になるのです。


意識の目的は、行動予測

同種他者のヒトの行動予測をするために、最も良い手がかりとなるのが、「自分の行動予測」です。同種なんですから。ネコは、自分の気持ち(行動予測)が分かったところで、ネズミの行動予測には繋がりません。しかしヒトは、自分の気持ちが分かれば、同じ群れのヒトの行動予測ができるのです。ということで、自分がどう動くかという「意識」があれば、相手がどう動くかという予測ができます。これが、意識の役割だと思います。

さて、皆さんは意識的に「何かをしよう」と決めて、その後、行動していると思っているかもしれませんが。心理学とかで実験したやつだと(適当にググってください)、主観的に意識する前に行動が決まっているそうですね。コーヒーを飲もうと「意識」が決める前に、脳の運動野が活性化している。意識より先に肉体が動いている。無意識が、すでに「行動」を決定していて、意識は後追いに過ぎないのだ、という実験結果があるそうです。

意識は、行動を決めているわけでは無いのです。じゃあ、意識って何のためにあるのか。ヒトの行動が、意識より前に、無意識に決定されているのなら、意識なんて必要ないじゃん、と。実際、意識がなくても、イースト菌は行動できるように、あと、魚とか昆虫も意識が無いと思いますが、問題なく行動して生きているわけです。アルゴリズムが「自意識」を持たなくとも、入力と出力が適切に結びついていれば、生命として、何の問題も無いわけです。なのに、ヒトには現実として「意識」がある。しかも、行動の主体ではなく、行動の後追いとしての「意識」があるのです。

という疑問も、意識が「他者の行動予測」のためにあると考えれば、納得できます。ヒトは、無意識に動いていたとしても、その行動の結果を、意識として後追いなんですけども、理解する。自分はこう動いた、ということを理解する(これは思い込みに過ぎないかもしれませんが。だって、本当は無意識の決定なので)。

で、自分の行動を理解したならば、「他のヒト」もこう動くだろうと予測できる。完璧な意思疎通(相互理解)は不可能ですが、そこそこ理解し合い、群れの他のヒトの行動予測の精度が上がれば、共同作業がうまくなり、群れの生存確率が上がる。それがヒトの生存戦略であり、意識の目的です。


心の発生

僕は意識を、そんな感じで理解していますので、ヒト以外の動物にも意識はあるはずです。もちろん、薄い自意識から、はっきりした自意識まで、様々でしょうが、基本的に、群れを作る動物には意識があると思います。もっとも、群れのサイズにもよるでしょうけれども。1万ぐらいの個体数で群れを作る生命だったら、他の個体を個別に理解するよりも、デジタルに動いた方が良いかもしれませんので。(例えば、イワシの群れは、他者理解方式ではない行動様式で集団行動していると思うので、イワシに意識は無いと思います)。

おそらくですが、個体数が100以下ぐらいのサイズの群れならば、個別の他者の行動を把握した方が生存有利になるので、自意識が発生すると思います。ゾウなんかには、意識があると思いますよ。また、一方で、少ない個体数(2頭とか)だと、個別のフェロモンとかでいけるかもしれないので、意識を通した他者理解の必要性が下がるかもと思います。ともかく、意識というのは同種の他者理解のための機能(の一つ)です。

さて、そんなこんなで意識というものが生まれまして。次は「心」の発生、という話をします。意識と心、区別するのも微妙なんですけれども。心というか、私という個人がある、私はこう思っている、みたいな、現代人ぽい「心」です。意識と心もグラデーションであり、はっきり区別出来るわけじゃないんですけれども。ここでは「心」を、「まさにこれが自分である」ぐらいの、強い意味で使っています。

また、最初に結論を言いますと、おそらく2500年ぐらい前に、農業革命からの都市化で人口が増えたことで「知らないヒト」が生活圏に入ってくるようになったのです。それ以前と、それ以後では、ヒトの意識に大きな違いがあると思っています。それ以前の意識は、もちろん自意識はあったでしょうけど、集団(100人ぐらいの狩猟採取集団)と一体化した意識、だったと思います。そこでは「個人」という自意識は、弱かった。それが、知らないヒト、というか、自分と違う行動原理(文化)をもったヒトが環境に出現することにより、意識の「集団との一体化」が弱まった。そこで、「心(個人化した意識)」が生まれた、という流れです。

で、2500年前の「個人の心」といっても、これは現代人ほど個人化していませんので、現代のような心ではないと思いますが。5万年前よりは、現代に近くなっているはずです。その、大きな転換が、2500年ぐらい前にあったと思うので、その話をします。


四十にして惑わず

孔子の論語に「四十にして惑わず」ってやつ、ありますよね。僕は42歳なんですけど。じゃあ「惑わず」なのかっていうと、今日はマリオカートしようか、いやフォートナイトしようかとか、絶賛、惑い中ですけれども。この「惑」という漢字。実は、孔子が生きていた時代には存在しなかったそうなんです。別の漢字が使われていた。

「惑」の下の「心」の部分が無い、「或」という字だったそうです。もともとは「四十にして或わず」だったそうです。なんと読むのか、よく分かりませんが「或わず」です。孔子の時代には「心」って漢字が無かったのです。誰かがそんなこと言ってたのを、なんかの本で読みました。

じゃあ「或」ってどういう意味なのかっていうと、これは「区切る」という意味。国の旧字体が國でして、「或」を囲っているわけですが、囲われて区切られた範囲が國(国)ってことです。地域の域もそうですね。

ということで「四十にして或わず」というのは、「四十歳になったら、区切ったらいけないよ」ということ。四十歳になったら、自分の生き方はこれと決めるんじゃなくて、なんでもいろいろとチャレンジしてみなさい、ってことなんです。となると、「惑わず」と正反対の意味ですね。マリオカートもフォートナイトも、どちらもやれってことです。四十歳を過ぎたなら。

で、孔子の言葉、前後を挙げると「十五にして学を志し、三十にして立つ、四十にして或わず、五十にして天命を知る」となります。これが「四十にして惑わず」だと、五十歳の「天命を知る」と意味が被ってくるんですよ。お前、四十のときに迷っていなくて、生き方は決まっているはずなのに、五十で天命を知るって、意味がダブっているでしょう。ちょっとよく分からなくなるんですよ。

しかし、これが「四十では区切らず、いろいろチャレンジすること」だと、意味が通る。三十にして立つで、社会に出て、なんか仕事してみて、落ち着きかけたところで、四十になったら、自分の枠を区切らないで、いろんなことに手を出してみなさいよ、と。それで、五十で天命を知る、と。話が繋がるわけです。

で、これは話の本題じゃないんですけれども。孔子の時代には「心」という漢字が無かった、ということは、心という概念が無かったということです。では、心という概念はなぜ生まれたのかという疑問が出てきます。

現代人は当たり前のように「心」があると思っていますが、心は概念です。お金や、国や、資本主義や、神様や、時間や、色と同じように、概念です。心という概念が出来る前までは、ヒトに「心」は無かったのです。

孔子とほぼ同時代ですが、ギリシャ神話のオイディプス王とか、あの時代の戯曲って「個人の気持ち」が無いんです。「私は、こう思った」とかいう理由で、登場人物は動かない。そういう理由、つまり「心」で動くのは、もっと後の時代です。じゃあ、ギリシャ悲劇の登場人物の行動理由は何かというと「神の声」ですね。神様がこう言ったから、動く。「心」が無いんです。


集団が大きくなると「心」が発生する

もともと、ヒトは100人ぐらいの集団で生きており、その集団内では、個人の行動様式(自我)と、集団の行動様式(文化)が、ほぼ同じだった。もちろん、100%一致するということは無いにしても、集団と個人が同化している割合が、現代よりはずっと高かった。

集団と個人、これが完全に一致することも無いし、逆に個人が完全に独立することもありません。「個人」の行動様式が、完全に集団と違えば、そもそも言葉も通じないし、その人が何を言っているのか誰にも分からない。オオカミに育てられたオオカミ少女は、それに近いかもしれませんが。いずれにせよ、完璧な同化も、完璧な独立もあり得ず、割合の問題です。

「心」とは、集団から個人が独立していった割合が高くなった時の、個人的な「行動原理」を表現する概念として、作られたものだと思います。

100人ぐらいの集団なら、当たり前に意思統一(集団と個人の同化)ができると思います。生まれてから死ぬまで、その集団で暮らしていた。ほとんど同じ環境に住んでいる。となると、個人個人が「違うことを思う」なんててことは少なくて、ほとんど、同じことを思う。その集団意識を「神(とか精霊とか大自然)の声」と名付けたのだと思います。

集団との共感性、また、自然環境からの情報入力の敏感さ・鈍感さには個人差がありますから、「神の声」を聞きやすい人、聞こえない人、というのは、いるでしょうが。聞きやすいヒト(集団の行動原理を的確に表現できるヒト)が、シャーマンとか巫女という役割を果たすのでしょう。

古代では、神の声を聞いており、心(個人的な行動原理)は少なかったのですが、これは、自意識が無いということではありません。意識は、あります。仲間が痛がっているという、他者理解。そのために意識はあるんです。仲間が痛がっていることに共感(という意識の働き)できなければ、治療もできませんから。意識は、あるのです。個人の意識(というか、行動様式)と、集団の行動様式の、一致する割合の問題です。

神の声を聞く時代の「個人の意識」は、集団意識と、ほぼ同じです。同じなのだから名前が無い、つまり「心」が無いのです。名前とは、違いが生まれた時に、他のものと区別するために、生み出されるものです。

ということで、現代人が持つ「私のことを理解して」なんていう悩みは、狩猟採取100人集団には、ほぼ無かったと思います。じゃあ、そのような悩みは、いつ出てきたか。つまり、心はいつ生まれたのか。それは、周りに「理解できないやつ」が出てきたときに、出てくるのです。


集団サイズは100の指数関数

理解できないやつが出てくるということは、集団が大きくなったということです。集団が大きくなった、一番大きな理由は農業です。

農業を始めたことにより、単位面積あたりで養えるヒトの個体数が増えました。となると、集団の個体数が増えます。自然環境では100前後だったヒトの集団は、農業によって増加しました。集団の人数が増えると、強くなります。当たり前の話ですが、100人と500人が戦ったら500人の方が強いし、500人よりも1万人の方が強いのです。

ヒトは100人ぐらいまでなら、自己と同一化した集団を作ることができると言いました。しかし、農業により集団が1万人ぐらいになったとしたら。1人のヒトが1万人と親しくなることは無理です。ヒトの能力的には、理解しあえる他者の数は100人ぐらいと、決まっています。これは、大抵の人の身長が2メートルを超えないとか、100メートルを10秒では走れないというのと同じで、DNAで規定されている、ヒトの能力値の限界です。

1万人というのは100の2乗ですので、2段階で「知っているヒト」に行きあたる可能性があります。知り合いの知り合いぐらいで、1万人ぐらいをカバーできないこともない。フェイスブックでも「友達の友達」までの閲覧ができたりしますが、そのぐらいまでなら、まぁ信用できるかな、という人間関係の距離感です。

集団の大きさは、このように、基本単位の100の何乗になるかということで、「関係の遠さ」を表せると思います。100(1乗)、1万(2乗)、100万(3乗)、1億(4乗)、ということです。1億は100の4乗ですので、4段階、離れているということです。1億人の集団(例えば現代日本)ならば、「知り合いの、知り合いの、知り合いの、知り合い」ぐらいで、日本全国の特定の誰かに繋がることができる、ということです。(もちろん、ざっくりした計算ですし、単なるイメージだと思ってください)

1万人の集団なら、知り合いの知り合いぐらい、これなら「知っているヒト」に含まれる範囲になると思います。でもこれが100万になると、知り合いの知り合いの知り合いですから、これはヒトの感覚として「知らないヒト」です。おそらく、集団が1万から100万になる間のどこかで、「なんか知らないヒトが周りにいる」という状態が、出現してくると思います。都会化した、ということです。

wikiで「世界人口の歴史」というページを見ましたら、紀元前5000年の世界人口は500万人だったのが、紀元前500年(今から2500年前)には1億人となっています。2500年ぐらい前に、孔子とかブッダとかキリストとか、まぁ、キリストさんはちょい遅めですが、いろいろな世界的宗教が芽生えたわけです。これだけ同時期に、世界中で、それまでとは違う「文化(集団行動様式)」が出現しているんですが、文化というのは、集団の行動様式(アルゴリズム)です。生物はアルゴリズムと言いましたが、文化は、ヒト集団のアルゴリズムです。

2500年前に、なぜ新しい文化や宗教(どちらも集団の行動原理)が生まれたかというと、環境が変わったからです。生命とはアルゴリズムであり、環境入力と行動出力を結ぶ関数と言いました。その環境入力が変化しているのですから、同じ出力、例えば「幸せに生きる」という出力をしようとするなら、環境入力が違えば、途中のアルゴリズムを変えなきゃいけないわけです。

y=2xという式の、xが環境入力、yが出力、で、もしx(環境)が5倍に変化したならば、同じyを得るためには、式をy=2x/5に変えなきゃいけない。式は行動様式なので、環境が変われば、同じ結果を得るために文化が変わるということです。新しい文化が生まれるのは、ヒトが覚醒したからじゃないし、賢いヒトが生まれたからでもなく、環境が変化したからです。(ちなみに、ここ1万年ぐらいの環境変化の主な要因は、技術革新です)

ちなみに、行動出力は「強さ」と「幸福」のバランスが成り立ったところを目指すと思います。強さというのは、集団(現代では個人の割合が高い)が生き延びるための方法。幸福というのは、DNAの要求。環境がDNAの想定(100人狩猟採取)とズレていると、その環境内での「強さ(生存)」の最適解は変化しますので、DNAの想定する行動との差異が生まれます。DNAの要求に従う(やりたいようにやる)と、生存できない。しかし、楽はしたい(DNAの要求には従いたい)。このバランスが取れたところが、その環境の中での、主な行動出力になります。

さて、話を戻して。2500年前あたりの変化というのは、人口が増えたことで、「知らないヒトが周りにいる」という状態になったことだと思います。言葉が通じないとか、見た目が違うとか、自分と違う行動をするヒト。言い換えれば「常識が通用しないヤツ」が増えてきたんです。

1万人ぐらいだったら、なんとなく同じだな、知り合いの知り合いだな、ぐらいで、幸せにやっていけたんですが。人口が増えて、違う常識のヒトが現れた。そのヒトたちとも、うまくやっていく必要ができた。環境が変化しました。そこで、新たな、皆に通用する文化(行動様式)を、作らなければならなくなった。孔子が「礼」を重んじるのも、そういうことで、とりあえず形だけは揃えましょう、という行動様式です。法律みたいなものです。

古代バビロニアのハムラビ法典は紀元前1700年ぐらいですが、wikiで見たら、そのころのバビロニアの人口は20万人ぐらいだったそうです。1万から100万の間なので、このあたりで、100の3乗への、行動様式の変化が起きたのです。バビロニアの人口が20万人にもなったら、言わずもがなの「常識」が通用する範囲じゃなくなったので、もう一段、メタの行動様式が必要になったのです。それの一つがハムラビ法典という法律です。農業による人口拡大から、環境が変化し、行動様式が変化したというのが、そのころの話です。


現代日本は100の2乗から3乗への移行期

100の2乗(1万人)ぐらいまでならば、言語・常識が通用する範囲です。この段階での、共同体の行動様式は、明文化されていないこともあります。というのは、そもそも明文化しないで済むのであれば、そのほうが便利ですから。実際の物事というのは、ケースバイケースで起こります。ケースバイケースの、千差万別の物事に対応するには、その都度、対応した方が良い。だから、個別対応できるのならば、それが良いのです。でも、決まりを「明文化」してしまうと、白黒はっきりつけることになりますので、ケースバイケースの柔軟な対応が、できません。

必要ない限りは、明文化ではないルール、つまり「常識」を共同体の行動様式にしていた方が便利です。しかし、人口が拡大し、「常識が通用しない相手」が出てきた時に、明文化された決まりが必要になる。複数の物差し(価値観)が混在するので、個別対応では、揉め事の解決が出来なくなります。こちらとあちらで、善悪の価値観が違うのですから、解決できないのです。だから、普遍的な、白黒はっきりした共通ルールが必要になる。明文化されているのですから、これは、誰にでも理解できるものです。

常識(不文律)から、法律(明文化)への移行というのは、メソポタミアではハムラビ法典の頃に、中国では孔子の頃に、また、中東ではモーセが十戒という明文化された「法律(禁止事項)」を定めた頃に、発生したのだと思います。では、ちょっと視点を足元に持ってきまして、現代日本について考えます。

現代日本は、形は「法治国家」となっていますが、実際は、ほとんどの日本人が感じているとおり、「常識」の方が強いです。その意味で、日本は100の3乗文化に移行しておらず、100の2乗(1万人〜100万人)の行動様式が、主流となっています。

そもそも、日本国という共同体ができたのは明治以降のことです。それまでの「国」は、藩の範囲であり、江戸時代の日本人は、ほぼ、自分が生まれた藩の中で暮らしてきました。江戸時代の人口は3000万人、藩は300ほどですので、一つの藩の人口は10万人ほどです。これぐらいの共同体の規模であれば、常識が通用する範囲です。ましてや、日本は島国であり、大陸のように、全く違う言語や文化を持つ他民族が入ってきにくい地理特性がありますので、大陸よりも、多くの人口規模まで「常識」が通用すると思います。

実際、現代日本でも、法律よりも「常識」が強い面は、多々あります。例えば、高速道路の速度。80キロ制限や、天候が悪い時は50キロ制限にもなりますが、これを守っている日本人は、まず、いません。「常識」で考えれば、50キロ制限の時に高速道路を50キロで走るのは迷惑です。110キロぐらいまでなら、常識の範囲内なので大丈夫です。でも、130キロになると、捕まっても文句は言えない。なぜなら、130キロは「常識」の外に出てしまうからです。

また、東京ではエスカレーターの右側を開けるという「常識」がありますが、あれも、決まり(法律ではないけど、エスカレーター管理者の要請)では、立ち止まって使うように、要は、右側を空けずに右側でも立ち止まるように、となっています。しかし、誰もが右側を空けます。なぜなら、それが「常識」であり、常識は法律よりも上位の行動様式だからです。

労働基準法を守らずに残業するのも、常識に従えば当然のことです。一番大きなところでは、自衛隊の問題。憲法を普通に読めば、軍隊は保持しないと書いてありますが、「常識」に従えば、軍隊が無いなんてあり得ない。だから、常識を優先しています。(ちなみに、だから自衛隊を廃止しろとかいう話じゃなくて、単に、日本文化において、常識は法律よりも強い行動原理である、と言っているだけです)

というように、例を挙げればきりがありませんが、日本の行動原理は、不文律である「常識」であり、その常識は、時代によって変化します。不文律ですので、明文化されているわけではないから、変われるのです。変わるから、時代への対応は早いのですが、書かれていないからこそ、その決まりを理解し、守るために、エネルギーを割かなければいけません。この、明文化されていない変わり続ける常識を読み取ろうとする行為を、「空気を読む」と言います。また、常識の変化を察知できずに、行動を変えないでいると、「時代遅れ」と言われます。

変化への対応が早いというのは、コロナ対応を見れば分かります。法律を変えるには手間も時間もかかりますが、「マスクをするのが常識」という「空気」が蔓延するのは、法律よりも早いです。飲食店へ自粛するように「要請」するのも、法律ではありません。このような「常識」を守りなさい、と言っているのです。

しかし、この「常識」がこれから先も通用するかというと、疑問です。なぜなら、コロナで小さなぶり返しがあったにしろ、これから先、国際化が進み、多くの外国人、つまり「常識が通用しない人」が日本に入ってくる流れは、進んでいくことでしょう。また、インターネットにより、諸外国の行動様式(日本から見れば非常識)が入ることにより、常識が通用しない、小さな共同体も多く発生します。この流れが進めば、紀元前1700年のメソポタミアのように、我々日本人も遅ればせながら、「法治国家」にならざるを得ないと思います。それは、日本人にとっては、常識が通用しなくなった、血の通わない法律に従わなければならない、心が通じない、という苦しみを生み出すのですが、メソポタミアも中国も、数千年前に通った道ですから、日本もそのうち通らなくてはならないと思います。


他者と自分と「同じ」にする

さて、現代日本の「空気を読む」という文化に、寄り道しましたが。寄り道をしつつ、本流に戻りつつ、最後にはなんとか着地できればなと、目指しています。一応、こんなことを書こうというメモ書きぐらいは用意していたのですが、今、見直して、ここまでで話そうと思っていたことを、まるっとぶっ飛ばしていたことに気づきました。ということで、ちょっと、話を巻き戻します。

どこまで話を戻すかというと、「意識は他者理解のために生まれた」というところです。他者理解のために、意識は「同じ」という働きを作り出し、そして言語が生まれた、っていうのを、書いておきたかったんですが。忘れていました。で、今から、そこを書きます。で、書いたら、「心」が生まれたという話に戻りますので。よろしくです。

意識は、共同体を作る哺乳類に、主に発生しました。哺乳類に発生するのは、哺乳類は育児をするからです。育児は「他者の行動が入力される行動」です。メタが入る、行動の入れ子構造になるんです。同種他者の行動を入力して、行動する。この子(他者)がミルクを欲しがっているのか、それとも眠りたいのか、他者の気持ちを理解しないことには、育児は難しいのです。

無理矢理、数式的に説明してみます。y=5x、という式があるとして、xは環境入力、yは行動出力。で、このxの中に、他者の行動結果であるy'(ワイダッシュ)が入っている、x=y’+2、という式があるとする。すると、y=5(y'+2)てな感じになります。y'という他者の行動が、yという行動出力に影響を与える、ということです。もちろん、他者の行動だけが環境入力ではありませんので、y'は環境入力の一部に過ぎないのですが。で、前に書きましたが、この計算を簡単にするために、yという「自意識」が生まれた。そして、y=y'とすれば(実際には、ちょっとは違うんですけど、少なくとも同種族なので全く違うということも無い)、行動しやすい。yだけの一次方程式になりますから。で、意識がyを理解すれば(自意識の発生)、y'も分かる。なので「行動」しやすくなる。という、計算を楽にするための機能が、意識なのだと思います。育児という、シンプルな他者理解において、この機能があった方が、行動出力計算をしやすくなったのだと思います。


共食いのコスト比較

魚に意識は無いと思います。意識、っていうか、自意識。自分が何者だということを、イワシは考えないまま、お寿司になっていると思います。なぜなら、魚は育児をしないから。あと、共食いする生物は、自意識が無いでしょうね。「同種の他者」を、環境入力の素材に入れていないから、共食いするのです。目の前の動いているものは餌だ、というような、同種他者を考えないシンプルな行動原理(アルゴリズム)になっているから、共食いが起こるのです。

共食いする生物が、自然界ではあまり共食いしないのは(していたら絶滅するし)、出会う確率が低いからです。なので、環境が違う飼育下だと、共食いが起こりやすくなる。

これは、共食いで失うコストと、同種他者を認識するコストを、比較しているのです。一方は、共食いという事故が起きてしまうデメリット。もう一方は、アルゴリズムに「他者」を書き込んで、共食いを防ぐという、そちらにリソースを割かなければいけないデメリット(まぁ、フェロモンなどで区別して、共食いを避ける方法はあるでしょうが)。

この両者を比較したときに、共食いのデメリットをとった方が有利だろうという選択をした生物は、同種他者を認識できず、時々、共食いをしてしまうのですが、その生物のDNAにすれば「折り込み済みの事故」だと思います。


ロボットに意識は発生しない

魚や虫と違って(育児をする虫もいるとか細かい話は置いておきます)、哺乳類は育児しなきゃいけないんですから、完全な同種(成体の同種)ではないものの、子供が「他者」として、入力の要素になるわけです。また、他者を認識して、いくらお腹が空いていても食べない、というようなプログラムも、しなきゃいけない。なので、育児において「同種他者の認識」は、不可欠なのです。

で、その他者の行動の予測は、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)で得るわけです。視覚は、表情とか身振りですね。聴覚は、鳴き声とか。嗅覚は、フェロモン出したり、化学物質伝達によるものです。そのような情報の受け渡しを、同種族間でやりとりし、他者を認識するという作業が無いと、育児は出来ないのです。

育児という行動の必要性により、他者認識が生まれました。そこからさらに、群れ(共同体)を作る動物が出てくると、成体の同族他者の情報を入力しないといけない。で、他者がどう動くか、というのを理解するためには、自分がどう動くかを「意識」するのが手っ取り早いから、自意識が生まれたわけです。先ほどの式の、y'(他者の行動)を理解するための手がかりとして、y(自分の行動)を理解する。そして、y=y'とする。

さて、この「意識」の働きは、「自分が思っていること」と「他者が思っていること」が「同じ」だろう、というものです。y=y'。これが、意識が最もやりたいことなんです。で、同じ「だろう」というのは、同じとは限らないからです。yとy'は違うんです。でも、同じだろうと「思わせる」。思わせないと、動けないですから。強引に「=」で結ぶのです。なんか怒っている相手を見て、ああ、この相手は、私が怒っている時と、同じ気持ちなんだろうと思わないと、話が進まないですから。実際は、わかりませんよ。竹中直人みたいに、笑いながら怒るやつもいるかもしれないので。でも、どうにしろ、視覚や聴覚や嗅覚や触覚や味覚という、あやふやな五感を通してしか、情報伝達できないんですから。あるところで、ざっくりと「同じ」だと思わないことには、話が進まないので、同じだと思うことにしたんです、意識は。

現代人だってそうですよ。泣いている子供を見て、あの子は悲しんでいるんだなと、同情する。それは、私が「悲しみ」という感情を知っていて、それと同じだから、相手もそう思っているだろうと思うだけであって、なんの確証もないんですけど。ま、脳同士をLANケーブルで繋げば、その問題は解決するかもしれませんが、それは我々の子孫のこめかみにUSB接続口ができるまで進化するのを待つとして。現代人だって、どこかで「同じ」だろうと思って、えいやっと、飛び越えなきゃいけないんですよ。

そういう文脈で言えば、ロボットがいくら進化しても、自意識は発生しません。なぜなら、ロボットは通信で完璧な意思疎通ができるからです。我々、ヒトを含めた哺乳類は、完璧な意思疎通が出来ないのに、意思疎通をする必要があるから、自意識を生み出したのです。ですので、そもそもの目的である意思疎通が完璧に出来るのならば、意識はいらないのです。目的は「行動(集団行動)」なのですから。意識は、そのための手段に過ぎないのです。だから、ロボットに意識は生まれません。


言語の誕生

意識の働きは、自分と他者を「同じ」だと思うこと。そうなると、応用として、何かと何かを「同じ」と思えるようになるわけです。意識の働きは、「=(イコール)」です。さらに、ヒトは二足歩行して、両手が空いて、行動の自由度も上がった。声帯が発達して、さまざまな発声を行えるようになった。ってことで、無数の行動や音声と、意識の「同じ」という働きを組み合わせると、言語の誕生です。

言語って、本来は千差万別で、同じものなんて何一つ無い「環境世界」を、無理矢理「同じ」とくくって理解する、ということです。そして、言語を通じて、不完全ながらも世界を理解し(言語を使うことで、認識能力は減ります)、集団内での共通理解に繋げるのです。言語を使うことにより世界理解の解像度が下がることよりも、言語による意思疎通で集団行動が取れることのメリットの方が大きいと、ヒトのDNAは判断したのでしょう。

(とはいえ、ヒトは集団の動物ですので、集団内に解像度高く世界認識できる個体がいれば、意思疎通して、その世界認識を集団の他個体と共有することができます。このように、個体の特徴を集団で生かせるのが、ヒトの強さです)

話を言語に戻して。例えば、リンゴという言葉。世の中には、いろいろなリンゴがあります。赤いのも、青いのも、小さいのも、大きいのも。で、それらを全部まとめて「リンゴ」って言おうというのは、特に理由がある話じゃないし、恣意的、つまり適当に決めているだけなんです。もうちょっと範囲を広げて、キウイとかミカンも含めれば「果物」になるし。草とか木を含めれば「植物」になる。

数も、そうですよ。そもそも1とか2というのは概念ですから。世の中に「1」なんて無いんですよ。リンゴがひとつある。こちらには、アルマジロが1匹いる。だから何だよ、って話です。リンゴとアルマジロは全然違うじゃないですか。でも、抽象概念の「1」というものを生み出して、リンゴがひとつと、アルマジロが1匹というものを、無理矢理くくって「1」という数を作るわけです。

という感じで、言語というのは全て、そういうものです。何かと何かを、同じだと思うこと。で、意識の「同じ」といういう働きは、応用して(声帯と組み合わさって)言語になったのですが、違う方向に応用すれば「自我の永続」ということを思って、昨日の私と今日の私は同じである、という発想に至るわけです。他者の気持ちを理解しようという主目的の、副作用ですね。昨日の私、明日の私、未来の私はどうなるのか、死んだらどうなるんだろう、生まれる前はどこにいたのだろう、ってことになるわけで。それで、先祖はクマさんだという物語とか、死んだら魂になるとかいう、各文化で何とか理屈をつけて、どうにかこうにか納得したわけです。これは「同じ」という意識の機能の副作用ですので、主目的じゃなかったんですけれども。(何度も言いますが、意識の主目的は育児と、共同体内での意思疎通です)


心の誕生

さて、書き忘れていた「言語」の話を書き終えました。戻って、孔子の時代には無かった「心」が生まれた話をします。もちろん、孔子の時代にも「自意識」は、あったんですよ。チンパンジー(育児もするし、群れも作る)にも、自意識はあります。チンパンジーもそう思うし、孔子もそう思います。孔子は自分のこと、孔子だと思っていただろうし。私は私で、死んだらどうなるんだろうとかは、思っただろうし。でも大体、ヒトは同じようなもので、なんとなく理解し合えると、今よりは、思っていたんだと思います。

人口が増えてきて、都市化が進んで、知らないヒトが増えてきた。どうも、そいつの「行動」が分からない。今までだったら、私とあなたは「同じ」だと思えて、それでまぁうまくやってこれたんだけど(なので、皆が共同意識としての「神の声」を聞いたりする)。場所が違えば、文化は違う。ああ、この話も先にしなきゃいけなかったのですが、忘れていました。文化は千差万別になるという話。ま、あとでやります。先に、心の話を片付けます。

違う行動をとるヒトを理解するために、古代中国では「心」という概念を生み出して、その心の働きで、悲しみとか、怒りとか、そういう行動が発生しているのだろうと、名前をつけて理解するようにしたのです。理解できない他者を、どうにか理解しようと思って、生み出した概念が「心」です。理解できないから、名前をつけて理解しようとするわけです。

心という文字が生まれたこと。そして、悲や怒、それに惑もそうですね、心を使った文字が色々と生まれたこと。これは、その当時の中国で、何とか「他者の感情」を理解しようとして、そのような名付けを行ったのです。もちろん、これは虹の色が何色だというのと同じで、正解がある話じゃないんです。グラデーションの、区切りのない「感情」を、適当に区切って、名前をつけて理解しようとした、ということです。

似たような例で言えば、明治期に日本は西洋文化を輸入したことで、いろいろな概念が生まれました。「社会」とか「哲学」とか「時間」とか「科学」とか。現代だって、何かを理解しようとすれば、新しい名前をつけます。ADHDとか、LGBTとか。

逆に、理解する必要の無いものに名前はつけません。だから、植物に興味の無い人は「雑草」と言うのです。これは、草に名前をつけない、ということです。

さて、ということで、理解できないヒトの出現により、「心」という概念と、その心を細分化した「悲」「怒」「惑」というサブ(下位)の概念が誕生したのです。明治期と一緒で、古代中国でも、環境が変化した(異文化との交わりがあった)から、新概念が誕生したのです。環境の変化が、行動様式(文化)の変化の原因です。


文化の定義

さて、今まで普通に使ってきましたが、「文化」の定義をしておきます。もちろん、僕なりの定義ですよ。ここで使う「文化」とは、こういう意味だ、ってことです。

文化とは、集団の行動様式(アルゴリズム)です。

という一言で終わるのも乱暴な話ですので、詳しく言いますと。生命とは、入力と出力の間のアルゴリズムだと言いました。アルゴリズム、行動様式、関数、どれでもいいんですけど。

で、意識を経由しない行動を、「本能」と呼ぶことにします(僕の定義)。イースト菌が増えるのは、本能です。で、意識を経由している、というか、実際は無意識の本能的な行動が先に発生しているから、意識を経由していると、意識が思っているだけなのですけど、まぁ、意識経由の行動もあるわけです。

個人としてのヒトに着目しますと、そのヒトの行動パターンというのが、出てきます。ヒトも一人一人、DNAが違いますから、微妙に、行動だって違うわけです。リンゴが好きなやつもいれば、ミカンが好きなやつもいるわけです。で、ヒトはその人生の中で、いろいろな経験を積み重ねて、これは成功パターンだなとか、これは失敗パターンだな、というのを学んでいく。そうやって、個人的な行動様式を育てていく。この、個人的な行動様式を「自我」と言います僕はそう言います、ってだけのことですけど。

意識は、チンパンジーにもある、他者理解のための脳の機能ですが、その意識が、個別の体験から導き出した特定のパターン、個体独自の行動のクセのようなもの。それが自我です。意識は、自我よりも大きな概念です。

で、個人個人のヒトの自我は、違います。そりゃ、身体が違うし、経験も違うんですから、同じじゃありません。でも、集団で生きる動物であるヒトは、その集団内で共通している行動様式も、あるわけです。言語だって、そうですね。同じ言語を習得しなければ、話が通じませんから。とある集団で共通する行動様式を「文化」と、言います。繰り返しますが、僕がそう言う、ってだけの話です。

言語は、文化の一部です。かなり大部分を占めているとは思いますが。ま、日本人で言えば、お互いに会釈をするとか、玄関で靴を脱ぐとかも文化ですが、言語ではありません。そういう感じで、文化は言語より大きな範囲を含む、共同体構成員に共通する行動様式です。

文化がどうやって出来るかというと、その集団が住んでいる環境にも左右されます。狩猟採取をしている民族と、農業をしている民族なら、もちろん、食料獲得のための行動様式は違うので、違う文化になります(共同体構成員の協力の仕方も違う)。

で、共同体はそれぞれ違う文化を持ちますが、そのお互いが、たまに取引するぐらいの間柄なら、干渉せずに、文化も交わらずに棲み分けるんですが。農業で人口が拡大したら、奴隷も必要になるし。他の部族を吸収していって、多様な文化のヒトが近くに住むという「都市」という環境が出来た時に、文化の違うヒト、つまり、話が通じない理解できないヒトってのが、身近に現れたわけです。で、先ほどの話のように、理解できないやつを理解しようと思って、心っていう概念を作ったり、法律を作ったり、宗教を作ったり、ということを、2500年ぐらい前に試行錯誤したんです。(で、前に話したように、日本は今、この段階に入りかけているところです)


自我はアプリ

ずいぶんと昔の話を続けてきましたが、飽きてきましたので、現代の我々に身近な話をしましょう。悩みは自我の葛藤で起きる、といういう話です。このnoteの冒頭で少し話しましたが、その続きです。

現代日本では、多くの人が悩んでいると思います。鬱病の人も多いし、自殺する人だって年間2万人ぐらいいるでしょう。なんでこういうストレスや悩みが生まれるかというと、自我の中に、矛盾する物差しが存在しているから、悩むのです。どちらの計算をしていいか分からなくなるんです。

先ほど、自我は個人のヒトの行動様式である、と言いました。現代に生きる我々の自我は、一体、どんな風に出来上がるのか。自我は、すくすくと真っ直ぐに成長するわけではなく、いろいろな矛盾する行動様式もコピーして取り込みながら、あるものは封印され(封印されたところで消えないけど)、あるものは現役で使われ、というように作り上げられていきます。

今、コピーと言いましたが、自我は基本的に「コピー」するものです。まず、普通は、親。で、兄弟とか。保育園。友達。小学校に入ったら、学校、先生。同級生。で、各種の漫画とか小説とか映画とかドラマとかも材料に、コピーしていきます。社会に出たら、社会の文化もある。尊敬できる先輩とかも出てくる。その都度、他者の自我や文化という行動様式をコピーします。ミラーニューロンってのがありますが、そいつらの働きとかで、行動をコピーしていきます。ま、適当に言っていますが。

と同時に、あらゆる行動で、成功と失敗を繰り返して、行動の精度を上げて行きます。で、おそらくだけど、一度、作られた自我を組み替えることは難しくて、それは「上書き保存」ではなく、「名前をつけて保存」の別ファイルを作るみたいな感じで、必要に応じて、別の自我を作り上げていきます。小学生の頃に使っていた行動様式(自我)は消えるわけじゃありません。何十年と使っていなくても、別ファイルでとってあるのです。別ファイルというか、別アプリみたいなものですかね、プログラムなので。で、還暦を過ぎてからの同窓会で、何十年ぶりに小学校の同級生に会ったら、そのアプリが何十年ぶりに発動して、あだ名で呼び合い、小学生のような気持ちになり、小学生のように振る舞うのです。気持ちとは行動様式ですから、小学生の時に使っていた自我アプリが動けば、当然、その頃の気持ちになります。環境(同級生に囲まれている)に対応した自我アプリが発動する、ということです。環境が行動様式を決定します。

さて。社会人になったら、いつまでも学生気分でいるんじゃねぇぞとか言われて、社会人としての行動様式をコピーするわけです。新人研修とかいって。ま、僕は就職したことないので、イメージだけで言っていますけど、そんな感じじゃないですかね。すると、学生の行動様式とは別に、社会人の行動様式ができるわけです。

ほとんどの自我はコピーだと言いましたが、一番根幹には、生物としての行動様式もあります。ヒトだって生命ですから。熱いストーブに触ったら、本能的に手を動かして、離れようとするわけです。まぁ、それを上回る行動様式を作ることも、できますけれども。カイジの焼き土下座みたいなやつです。あれは、本能の行動様式と、帝愛グループの行動様式が矛盾しているわけです。だから、焼き土下座しようかどうか悩むわけです(物差しが複数あるから悩む)。という感じで、生物の行動様式を超える行動様式(自我)だって作れます。これを作れるから、ヒトは自殺できるのです。

自爆テロという例を挙げましょうか。とある団体とか、宗教とか、そういった概念を「自我」に含めて、自分の肉体は、自我の中でも割合が少ないとすれば、自分の肉体を滅ぼす自爆テロによって、団体とか宗教を永続させることが出来るなら、そりゃ、自我(団体や宗教)を永続させるという目的に叶うわけです。実際、ほとんどの人は、自分の肉体よりも別のものを、自我に多く、含んでいます。自分の子供が大切で、子供のためなら死んでもいいという親は、子供を自我に多めに含んでいるわけです。会社のために過労死しちゃう人は、会社(や世間体とかお金とか)という概念を、自我に多めに含んでいるわけです。


学校と会社の、文化の違い

現代日本の例で言えば、学校と社会の文化が、かなり違いますので、そんなのもストレスの一因になっていると思います。学生時代は、真面目に先生の言うことを聞いていればよかった。でも社会では、他の人と協力して、コミュニケーションをとって、時には嘘もつかなければいけないとかいう行動様式になる(その行動様式が、資本主義社会での金銭的利益を最大にしやすい)。とすると、学校で真面目だった人ほど苦労するとか、矛盾が発生します。で、社会は嫌だ、となるわけです。これは、学校の文化、つまり、行動様式と、社会の行動様式のズレが大きくなったので、どちらを選択しなきゃいけないかという、悩みが生まれるということです。

社会に出てうまくやっていける人は、学生時代に使っていた自我アプリを脇に起きながら、社会人自我アプリをサクッとコピーして、活用するわけです。この辺は、個人で得意不得意がありますが。で、不得意な人(学生自我アプリを使い続ける人)から見れば、そういう奴は「あいつ、変わったよな」と思うわけです。逆から見れば、いつまでも学生自我アプリを使い続けている人は、「甘いっちょろい、学生気分が抜けないやつ」になります。

違う行動様式が出てくると、上書き保存ではなく、「名前をつけて保存」すると言いました。なので、場面により、言葉遣いが変わったり、態度が変わったりというのは、複数の自我を、うっすらと使い分けているということです。還暦過ぎても、小学校の同窓会で小学生の気持ちにすぐ戻れるのは、上書き保存ではなく、「名前をつけて保存」されているからです。親の前では、いつも「子供」になってしまうのは、子供自我アプリが発動するからです。

さて、現代人は誰しもが自我を使い分けていますが、これを、うっすらと使い分けないで、ガッツリと使い分けるのが、乖離性同一性障害、いわゆる多重人格というヒトです。自我というのは、何度も言うように、入力と出力を結ぶ行動様式という、脳の機能です。だから、複数を使い分けるなんて芸当も出来るわけです、脳味噌は。複数の自我を併用するぐらいのことを出来るので、多重人格が生まれますし、そのどれもが、本当の自我です。もちろん、あなたも私も、これが自分だと思っている「自我」なんて、脳味噌の作り物に過ぎません。過ぎないのですが、意識(自我)はそれを自分だと、もちろん思うので、何よりも自我が大切になるのです。

また、幻想(理想)の自分、みたいな概念も、ありますね。自分はこうあるべきだ、という概念が、自我の大部分を占めていると、何かそれに反することが起きた時に、その自我を守るために自殺しちゃうとか。一般的にはそういう人格を、プライドが高いと言います。

自我の説明は、それこそキリが無いのですが。ともかく、ヒトは複数の文化をコピーして、複数の自我を使い分けることも出来ます。これは、DNAの想定外の世界だとは、思いますが。というのは、DNAは狩猟採取100人集団を想定しているので、複数の文化(共同体の行動様式)をコピーするという世界は、想定していないはずです。一度、子供時代にコピーすれば、それで十分だったはずです。ただ、現代は文化が混じり合う社会になっていますので、複数コピーが起こり、その結果、いくつもの自我を持ち、時にはそれが矛盾するので、「選択」しなければならず、ストレスがかかり、悩みが発生する、ということです。


悩みを解決する3つの方法(のうちの2つ)

「悩みを解決する3つの方法」なんていう、ネット記事ぽい小見出しをつけましたが。さて、今、説明したように、自我はさまざまな矛盾する行動様式を含んでいます。行動様式は、それぞれに価値観(物差し)を含んでいますので、ある行動が、とある物差しではやるべき、他の物差しではやらないべき、と、違う計算結果を弾き出すので、その選択に「悩む」のです。

また、現代人はさまざまな行動様式(他者の行動様式、文化、法律、常識、憧れのマンガの登場人物など)を取り入れ、少なからず、その行動様式の中での「理想像」もあります。これはもちろん幻想です。で、その幻想と、現実には、ズレが生じます。このズレがあると、自己肯定感が下がります。「矛盾する物差し」は、その選択がストレスだと言いましたが、別の話で、幻想の自己像と、現実(感覚知覚している)の自己像のズレが生じます。で、今から話すのは、幻想の自己像と、現実の差を埋めるための、3つの方法ということです。

幻想と現実がズレているのですから、これを一致させれば良いのですが。まず2つの方法があります。幻想を現実に近づけるか、また、現実を幻想に近づけるか、です。あっちがこっちに来るか、こっちがあっちに行くか、という2パターンです。で、3つの方法と言いましたが、最後の3つ目の方法は、ちょっと違う感じのやつなので、最初に、幻想と現実を近づける2つの方法を解説しておきます。

まず、現実を幻想に近づける、から行きます。例えば、年収1000万円ないのが悩み、としましょうか。1000万円、欲しい。1000万円ぐらいないと、みっともないし、尊敬されないし、それが夢だから。そういう自我(物差し)の理想像はもちろん、幻想です。で、この幻想を固定した場合、今の年収、例えば300万円を、1000万円に上げないといけない。現実を、幻想に近づけるのです。そのために、スキルアップとか、努力するわけです。一生懸命、働いたりするわけです。自己啓発本やビジネス書を読むわけです。これは、現代では最も普通の方法です。「夢を実現する」ということです。夢(幻想の自我)に現実を近づける、ということです。

ただ、この方法の欠点は、皆の夢が叶うわけは無い、ということです。「オリンピックの金メダリストになる」という夢を、100人が叶えられることは、あり得ないです。特に、現代ではさまざまな情報をコピーして幻想を作りやすくなっているので、そのような、実現が難しい幻想(冠番組を持つお笑い芸人になるとか、トップアイドルになるとか、プロ野球選手になるとか、大富豪になるとか)を持ちやすいです。ただ、現実は現実として、幻想とは関係なく存在しますので、多くの人は、夢破れるという結果になります。

さて、逆に、幻想を現実に近づけるという方法もあります。現実が、非正規雇用の300万円、独身ニートだとしましょうか。幻想として、年収1000万円になりたい、なるべきだ、と思っている。で、この幻想を現実に近づけるんですから、夢を諦める、ということです。別にいいじゃん、300万円で。楽しいし。飢えるわけじゃないし。というように、現実の姿を肯定するように、幻想を変えるわけです。

この幻想を変えるというのは、今までと違う文化をコピーするのが、楽です。行動原理は、自分で生み出すよりも、コピーして取り入れる方が楽です。最近は、そういう本もあるでしょう。年収300万円で楽に生きる、みたいな。ヒトは、他者の行動をコピーしやすいですが、本というのは、その亜流でして、作者の行動を、情報を通じて想像してコピーするわけです。(視覚や聴覚情報でしか入力できないので、コピーしにくいですけど)

で、年収300万円でハッピーに生きる、という、新しい自我を「名前をつけて保存」しまして、そちらを積極的に使うようにすれば、そのうち自我を書き換えられます。幻想(新たな自我)と現実の差が少なくなるので、ストレスが減ります。(ただし、今までの自我が消えるわけではないので、夢破れた胸の痛みは、多少は残ります)

また、別の方法としては、インドに旅に行くとか。コロナなので、あんま行けないでしょうけど。違う文化(行動様式)で生きる人を見る、その文化をコピーして自我に取り込み、その自我(インドコピー)の物差しが、自分の現実と近ければ、悩み(幻想と現実のズレ)は少なくなります。偏見ですけど、インド人が「生きてるだけで良いじゃん!」という文化を持っているとして、それをコピーすれば、現に生きている自分は、その物差しでは評価が高いわけで、幻想と現実のズレは少ないのです。なので、インド旅行で人生が変わるヒトがいるのです。「インドで自分を見つけた(言い換えれば、現実と近い幻想自我をインドでコピーできた)」となるのです。

コピー対象は、歴史も良いです。時代が変われば、違う文脈で生きていますので、年収1000万円なきゃいけない、とかいう幻想を相対化できて、その幻想の、自我に占める割合を低くできます。この方法の究極系が、仏教が言う「悟り」で、現実をあるがままに見つめなさい、というやつです。要は、幻想とか捨てろということです。で、幻想が無くなれば(というか、限りなく現実に近い幻想を作り上げれば)、幻想と現実が一致するのだから、感情もなくなります。そして、苦しみもなくなります。たぶん、喜びとかもなくなるんですけど。だって、感情が無くなるから。というアプローチが、幻想を現実に近づけて、悩みを無くすという方法です。


悩みを無くす3つ目の方法

ということで、悩みを無くす3つの方法。一つ目は、自己啓発本を読んで努力する(現実を動かす)。二つ目は、インドとか行って究極的には悟る(幻想を動かす)。で、最後の三つ目。僕は、これから言う三つ目の方法が、最もおすすめです。それは「自我を拡大する」という方法です。自我を拡大すれば、自我の範囲が広くなりますので、その分、現実と幻想のギャップが少なくなる、という方法です。

先ほど、自我は他者(の自我や文化)をコピーする、また、自分の身体を超えて拡大も出来る、会社や宗教といった概念すら取り込むことが出来る、と言いました。また、親が子供を大切に思うように、そして、子供のためなら死んでも構わない、とか思うように、現実の他者を自我に含めることも可能です。

現実には、自分の肉体と、自我が同じという人は、ほとんどいません。たまにそういう個性があるヒトもいますが、「共感性が無い」とか「自己中心的」と言われて、サイコパスと名付けられます。大半のヒトは、多かれ少なかれ、いろいろなものを取り込んで自我拡大しています。親が死んだら悲しい、日本がオリンピックで金メダルをとったら嬉しい、これは、多少なりとも、親や日本(概念)を自我に取り込んでいるから、発生する感情です。ということで、ほとんどの場合、自我には他者を取り込んでいますが、これを、意識的に拡大していこう、という話です。

まず、一人の他者を取り込みましょう。子供がいるとします。この子は大切。この子も、自我の一部です。そうなると、例えば、自分が死んだとしても、この子が元気ならば良い、となる。もし、子供を自我に取り込まなければ、自分の死によって、自我は消滅します。だって、自我は全部、自分ですから(ですから、サイコパス的なヒトほど、死が怖いと思います)。でも、自我の半分が子供になっていれば、自分が死んだところで、自我の消滅は半分で済みます。

自分の肉体が死ぬというのは、確実に来る「現実」です。で、この現実が、「子供は生き続ける」という幻想とは矛盾しないわけです。なので、現実と幻想が、近づいた。幻想として、自我(子供)は永続しているけど、それは「自分(子供から見れば親)の死」をも含むことが出来ます。ということで、子供を自我に取り込むと、自分が死ぬという現実とのズレが少なくなるので、悩み(死の恐怖)が少なくなるわけです。

続いて、どんどんと自我を拡大していきましょう。子供が10人、孫が50人、いたとしましょうか。それらの、子や孫、ついでにその配偶者とか、すべての子孫が可愛くて愛らしくて、自我に取り込みまくった、おばあちゃんがいるとしましょう。このおばあちゃん、自分の身体は、自我のほんの一部しか占めていないと思います。というと、死ぬのが、あんまり怖くないですよね。なんか、ニコニコして死んでいける感じがしませんか。これは、自分が死ぬという現実が、自我の永続(自我は意識の「同じ」という機能によって、延々に生き続けると勘違いしています)にほとんど影響を及ぼさないので、死ぬことも平気。現実(いつか来る自分の死)と幻想のズレが少ない。つまり悩みが少ない、ということです。


愛とは自我の拡大行為

しかし、普通のヒトは子供が10人で孫が50人とか、難しいです。なので、とりあえず、いろいろな他者を自我に取り込むのが、良いと思います。これはつまり「愛する」ということです。愛するということは、その対象を自我に取り込むということです。で、何度も言いますが、自我というのは、そのヒトの個別の行動様式のことです。つまり、愛する人のために生きるということが、自我を拡大するということです。

この方法の良いところは、最終的に、最もキツいであろう現実の「死(自分の肉体の死)」を克服しやすい、ということです。最初の2つの方法、特に一つ目のスキルアップして理想の自分になるというのを、いくら頑張ったところで、最終的には自分は死んじゃうんですから、どうも、そこが辛いですよね。で、悟りは、そりゃ悟れればいいんですけど、お釈迦様じゃあるめぇし、そんなポンポンと悟れたら苦労しません。みんな禅寺とかで修行しても、そんな悟れないんじゃないですか。ま、適当に言っていますけど。

それよりは、愛する相手を増やしていくという方が、簡単だと思います。そもそも、ヒトは群れを作る社会性動物なので、愛するというのは、簡単に出来るのです。悟るよりは簡単だと思います。愛の対象は、犬や猫のようなペットでも、また、会社や宗教法人という概念体でもいいのですが、本能的には、ヒトはヒトと自我を同一化する方が、やりやすいと思うので、現実のヒトを愛する方が、簡単だし、自我が安定すると思います。(いくら犬を愛しても、どこかで、やっぱり犬だよなこいつ、って思っちゃうのです。だって我々はヒトなので)


この話のきっかけ

長くなりました。このぐらいで、折り返し地点だと思いますが、ちょっと閑話休題しましょうか。そもそも、なぜこんな話を思いついて、ここに書いているのか。昔話をします。

そもそも僕は、ヒトはどう生きるべきか、みたいな疑問は昔から抱いていまして。別に、学者でも無いし、それに本腰を入れて研究したりしていないんですけど。頭の片隅に、ぼんやりと常に存在していた、みたいな感じです。で、哲学書とまでは行かないけど、心理学の本とか、文化人類学とか、そんなものを趣味として楽しく読んだりしていたわけです。

というインプットを続ける中で、これはデカかったな、という素材がいくつかあるのですが。本で言えば、まずは高校生の頃に読んだ、岸田秀さんの『ものぐさ精神分析』。これは、世の中の全ては幻想だ、っていう主張の本ですが。今でも、全くその通りだと思っていますし、最近ベストセラーになった『サピエンス全史』のエッセンス(ホモサピエンスは虚構により発展した)と同じことを、岸田秀さんは40年ぐらい前に言っていたと思っています。ま、その前にも、同じことを言っている人は、たくさんいたでしょうけれども。荘子の胡蝶の夢なんかも、同じ意味っぽいですし。

養老孟司さんの本も好きで、いろいろと読んでいます(まぁ、今まで話した自我とかの話は、養老さんの話に少し、意識の発生原理とかを付け加えたぐらいのものです)。もちろん『サピエンス全史』も面白かった。で、世の中の全てが幻想であり、サピエンス全史は虚構と言っていますし、養老孟司さんは脳化社会と言っていますが。それはそれでいいんですが、その先に、何か、とっかかりは無いものか、と思っていたのです。全てが幻想、それは分かった。でも、その上で、我々は何らかの幻想や虚構を抱かないといけない。ここに、ノーヒントで挑むのではなくて、何かのとっかかりが欲しい。そう、ずっと思っていたんです。

で、そのとっかかりになったのが、TEDトークで見た、ハーバード大学の研究で『人間の幸せの条件』みたいな話をしたんですね(動画リンク貼っています)。どんな話かっていうと、何十人かの市民を、生まれた時から死ぬまで、アンケート調査して、追跡して、データとって、最終的に、どんな要素が「幸せ」と相関関係があるか調べる、というようなスケールでかい実験、やっているんですよ。欧米の大学って、こういうことやりますよね。

結論から言うと、幸せと相関関係があったのは、年収でも地位でも子供の数でも健康でもなく、唯一「良好な人間関係の数」だった、という話なんです。

それを見て、ひょっとして、ヒトは「集団が完成形」の生物なんじゃないのかと思ったんですよ。それまでは、とっかかりとして良いのは「身体」かと思っていたんですが。個別の身体、です。個人としてのヒトが、何を心地良いと思うのか、どういうものを食べるべきなのか、そういう身体の規定を土台として、これからの文化(幻想)を築くべきじゃないかと考えていたんですが。いや、そもそもヒトの単位が「個人」ではなくて「集団」なんじゃないか、と思ったんです。

そういう目線で日々の生活を送っていると、やはりヒトは集団の生物だなと思うことが、出てきました。例えば、僕は育児をかなりしているんですが。っていうか、日本人男性で言えば、トップクラスに育児をしていると思います。で、育児って大変なんですよ。親1人で無理ゲーなのはもちろん、2人でも、なかなかきつい。

そんな育児生活の中で、近所の仲良い人に、育児を手伝ってもらったことがあるんですよ。土日とかに、面倒を見てもらう。で、近所の人も、自分の子供でもないのに、たまに子供の面倒を見るっていうのは、嬉しいみたいで、楽しくやってくれるんですね。また、僕は田舎に住んでいるので、スーパーに赤ちゃんを連れて買い物に行くと、よく、おばあちゃんとかに話しかけられるんです。わぁ、かわいいわね、抱っこさせて、みたいな。田舎ではまだまだそんなコミュニケーションも残っています。

さて、リチャード・ドーキンスが言う「利己的な遺伝子論」では、生物は遺伝子の乗り物であり、遺伝子の分布が最大化するように生きているそうですが。そう思うと、スーパーで、他人の赤ちゃんを可愛い、抱っこしたい、もっと言えば世話もしたい、なんて思うことは、生物としておかしいですね。明らかにDNAが繋がっていないんですから。というか、犬や猫を我が子のように可愛がるのなんて、もっとおかしいんですよ。ペットと飼い主は、遺伝子を全く共有していないですから。

なのにヒトは、そういうことをする。遺伝子を共有していない相手の世話をしたくなる。これは、現実として、確実に存在しているものです。だったら、その根本には、法則があるはずです。「利己的な遺伝子」ではない、別の法則が。それが「集団」だと思ったのです。集団で一単位である。ヒトは、その集団と自我を共有して生きるという習性を持っている。その集団は、DNAと関係なく作られる(なので、犬や猫が入ることもある)。そして、そのような集団に属していること、つまり、豊かな人間関係があるということが、ヒトにとって最大の幸福である。という考えに至ったのです。


DNAが想定している環境

ヒトは10万年ほど、遺伝子が変わっていないそうです。10万年前のヒトの赤ちゃんを現代に連れてきて育てたら、普通にスマホを使いこなす子供になるでしょうし、また逆に、21世紀の赤ちゃんを10万年前に連れていっても、それなりに狩猟採取民族として、やっていくと思います。

さて、今までの話を少し、おさらいしますと。DNAは生物の設計図であり、生物は入力と出力を結ぶ行動様式(アルゴリズム)です。その行動様式の大半は、本能的な、無意識の行動なのですが、ヒトは他者理解のために「意識」によって動いていると「思って」います。実際は、0コンマ何秒か遅れで意識が発生するので、ただ主観的に「意識で動いていると思っている」だけなのですが。もし意識が無いと、他者を理解したと「思えない」し、共同体の繋がりが作れないので、意識は、集団生活のために必要な機能なんです。(ちなみに、アリやハチは、意識無く集団生活を行っていると思います)

では、ヒトのDNAは一体、どのような「環境」を想定して、ヒトの行動様式を規定しているのか、ということを考えます。

ヒトのDNAの行動様式は、「ヒトがいるであろう」環境を想定しています。行動様式は、環境の中での行動なのですから、そもそも、DNAには「想定している環境」が存在しているんです。例えば、DNAが設計する「ヒト」は、気温がどのくらいのところで生きているだろうとか、想定している。別に、ヒトに限ったことじゃなくて、ホッキョクグマなら、気温マイナス20度のところで生まれるだろうと、ホッキョクグマのDNAは想定しているから、豊かな毛皮を生やしているわけです。(ヒトはそんな環境を想定していないから、毛皮が生えません)

ヒトのDNAは10万年ほど変わっていませんので、ヒトのDNAが想定している環境は、10万年前の狩猟採取の世界になります。ヒトの行動様式は、「10万年前の環境」に最適化された行動様式になっているのです。その環境と、「集団(個人ではない)の存続」という行動出力を結びつける、行動様式を、ヒトは設定されています。

しかし、21世紀の世界は、狩猟採取の世界ではありません。ですので、DNAが想定している環境(10万年前の狩猟採取社会)と、現実世界(21世紀の社会)とのズレが、多々、生じることになります。

例えば、ヒトは「甘いもの」や「しょっぱいもの」や「油」が好きです。スナック菓子(塩分と油)やラーメン(やっぱり塩分と油)やスイーツ(砂糖と油)なんかを食べたくなります。これは、DNAの行動様式です。「甘いもの・しょっぱいもの・油を食べろ」という行動様式が、組み込まれている。なので、それらを美味しいと感じ、食べられるだけ食べたいと「感じる」ようになる。そう感じさせて、身体を動かすわけです。

なぜ、このような行動様式があるのかというと、ヒトのDNAが想定する環境においては、このような行動をとることが最適解だからです。狩猟採取の世界には、そもそも、糖分や塩分や油分というのは、そんなに存在しません。それらを「食べすぎる」というリスクは、ほぼ、無いのです。それよりは、糖分を取らないで飢えてしまうリスクの方が高い。なので、幸運にも、糖分や塩分や油分を見つけた時には「食べられるだけ食べる」のが、10万年前の環境での最適解になります。

しかし21世紀の社会は、そこら中に、安価な糖分・塩分・油分を含む食品が溢れている世界になった。DNAが想定している環境とのズレが生じたのです。それなのに、行動様式は変化していない(ヒトは10万年前から進化していない)。だから、「本能のおもむくまま」に食べていたら、肥満になり、健康を害してしまう。健康を維持するためには「我慢して」野菜を食べて、「頑張って」運動しなければならない。肥満の原因は、DNAが想定している環境と、現実の環境とのズレにあるのです。

これは「食べ物」の話ですが、DNAが想定している環境というのは、他にもあります。いかに食料を得るかという行動も、ヒトのDNAは、狩猟採取を想定していますので、狩猟採取に特化した行動を取れるように、我々の感覚(本能欲求)は作られています。赤い実があれば、とりたくなります。そのような行為は「楽しい」からです。だから、ヒトはお金を払ってまで「イチゴ狩り」なんかするわけです。そもそも、DNAが「やらせよう」と思っている行為は「楽しい」と感じるように、出来ているのです。楽しいと感じさせて、生存に必要な行動をとるように、DNAは我々の衝動を設計しています。

子供は、虫取りを楽しんでやります。これは、狩猟です。昆虫も立派な食料ですから。楽しいことをやっていれば、食べ物が手に入るわけです。春に、野山に山菜とりに行くのも、楽しいものです。そもそも、散歩したりするのも、楽しいものです。これらの「楽しいこと」は、狩猟採取という環境の中で、食料を得る確率を上げて、ヒトが生存を続けるのに最適化されるように、DNAに設計されているのです。

しかし1万年ほど前に「農業」が発明されたことで、食料を得る手段は、大きく変わりました。狩猟採取時代は終わったのです。しかし「農業」は、ヒトのDNAの行動様式には、組み込まれていません。想定外の環境なのです。農業で食料を得るためには、同じ行動を繰り返し、行うことが必要です。雑草をとり、水やりをし、害虫がいれば取り除きます。ヒトのDNAは、これらの行動を「させたい」と、設定していません。なので、これらの行動は、「頑張って」やらなければならない。だから、大変なのです。努力しなければならない。真面目に、畑仕事をしなければ、ならない。やりたいことではないので、農業は、ヒトにとって苦痛なのです。
(でもそれは農業社会では必要な行為ですので、「真面目にコツコツと働くことが善いことである」という「文化」が誕生しました)

ヒト以外にも、農業をする生物はいます。例えば、ハキリアリ。ハキリアリは、葉っぱを持ってきて、地下の巣の中でキノコを育てています。まさに農業です。ハキリアリに、どんな気持ちで農業をしているか、聞くことができれば、おそらく、すごく楽しんでやっていると思います。ハキリアリの行動様式は、農業に最適化されているからです。ハキリアリのDNAは、ハキリアリが葉っぱを巣に持ち帰り、キノコの世話をすることが「楽しい」と感じるような報酬系を用意していると思います。しかし、ヒトにはそのような報酬系が無いので、農業は苦痛ですので、ハキリアリのように「真面目に農業する」生物を見て「偉いなぁ」と思うのです。

ヒトは農業を始めて1万年ほど経ちますが、まだ、農業が「楽しい」と思えるようには、DNAが書き換えられていないようです。ひょっとしたら、そういうヒトも誕生しているのかもしれませんが。狩猟採取よりも、農業が楽しい。イチゴ狩りよりも、家庭菜園で雑草を取る方が好きだ、というヒトです。新人類です。ひょっとしたら、農業が好きだという突然変異が誕生し、優秀な農家として子孫を繁栄させて、世界のどこかで、着々と広がっているのかもしれませんが。少なくとも僕には、その遺伝子は無いようです。雑草取りよりは、イチゴ狩りの方を楽しいと感じますので、僕の遺伝子は10万年前のままのようです。(ちなみに、サラダよりも豚骨ラーメンを美味しいと感じますので、やっぱり10万年前の遺伝子のままのようです)

ちなみに、この「農業にアップデートされヒト」は、以下のような特徴を持っていると思います。コツコツした単純作業が好き。遠い目標(農業は少なくとも数ヶ月先の目標のために行動する)のために努力するのが好き。他の人のことを、そんなに気にしない。応用力が無い。臨機応変さが無い。方向音痴(農業は定住なので、地理把握能力の必要が無い)。旅行とか、新しい体験をしたいと、そんなに思わない。タンパク質や脂質よりも、炭水化物が好き。など。もし、あなたにこういう特徴があるのならば、あなたは、僕よりも進化したヒトだと思います。(ただ、この10年ぐらいの情報革命により、社会は狩猟採取的になったので、逆に、農業適応したヒトは生きにくくなったと思います)

さて。このように、狩猟採取という環境を想定して設計されているヒトのDNAは、現代社会の環境と、いたるところでズレが生まれています。真面目に田んぼで働いていれば(農業社会での最適解行動)、ヒトの腰は曲がってしまいます。想定していない行動をしなければならないので、その皺寄せが身体にきて、腰が曲がるのです。

食料を得る手段としての、狩猟採取と農業の不一致を挙げましたが。僕が、実はもっと大きい「環境の不一致」があるんじゃないか、と思っていることがあります。それが「集団」なのです。ヒトのDNAが想定している「ヒトの集団」と、現代の環境とは、大きくズレており、それが、食料で言えば「肥満」のような問題を生み出しているんじゃないのか、ということです。

現代人が、甘いものを食べて糖尿病になるのは、食料に関する環境のズレが原因です。それと同じように、集団という面において、DNAが想定する環境と、現実の環境がズレていることで、現代人が抱える多くの精神的な不安や病気が引き起こされているのではないか、と思うのです。


DNAが想定する、ヒトの集団

食料を得る手段として、ヒトのDNAは狩猟採取を想定しています。そして同じように、ヒトのDNAは、この世に生まれ落ちるヒトの赤ちゃんの周りには「100人ほどの、生まれてから死ぬまで、ずっと一緒にいるヒトの群れ」がいるだろうと、想定しています。

しかし現代社会に生まれ落ちるヒトの赤ちゃんには、両親や兄弟、せいぜい祖父母の数人の家族という、ごく小さな集団に所属することになります。そして「同い年の子供」が何十人と集められた学校に、毎日、決まった時間に通わされ、文字を覚え(文字もDNAの想定外)、スマホを使い(当然、想定外)、愛する1人のヒトと添い遂げ(後で言いますが、一夫一妻も想定外です)、浮気はせず、会社で単純労働を真面目に行い、老後は施設に入り、亡くなる時は病院のベッドの上である。このような21世紀の暮らしは、どれも、ヒトのDNAは想定していないのです。

では、ヒトのDNAは、どのような世界を想定しているのでしょうか。これはもちろん、僕の勝手な想像ですが、おそらく、こんな感じだと思います。

ヒトは、この世界に生まれました。暖かな、気温が20度から28度ほどの地域です。たまに気持ちの良い雨が降ります。私は、お母さんのおっぱいを吸います。時々、他のヒトのおっぱいを吸うこともあります。誰がお母さんということも思わないまま、いろいろなヒトに抱っこされ、あやされています。男のヒトも、おじいさんも、おばあさんも、そして私より少し大きなお兄さんやお姉さんもいます。

彼らは、いろいろなことを、話しかけてくれます。笑いかけてくれます。気がついたら、私は、言葉を覚えていました。そして、いろいろなヒトと話します。話すのは、とても楽しいです。私が話すと、ヒトは、聞いて、そして何かを言ってくれます。年をとったヒトたちは、私にやさしく、付き合ってくれます。そして、世界のことを教えてくれます。世界には、いろいろな生き物がいる。いろいろな食べ物がある。私たちは、その世界の中で暮らしている。

大きくなって私は、お母さんや、少し大きなお兄さんやお姉さんについていき、甘い実があるところや、美味しい虫の捕まえ方を、教えてもらいます。最初は、なかなかうまく取れませんでしたが、虫をとるのは、とても面白いです。赤い実を見つけると、とても興奮します。嬉しくなります。もっと大きくなったら、みんなと一緒に、遠くまで獲物をとりに行きたいと思います。

大きくなってきたら、好きな女の子が出来ました。夜、その子とイチャイチャしていたら、とても気持ちが良くなりました。そうしながら、おしゃべりをするのも楽しいです。他の女の子とも、仲良くすることもあります。また、赤ちゃんの世話の仕方も、教えてもらいました。小さな子に、いろいろなことを、教えたりもします。小さな子から、尊敬のまなざしで見られるのは、とても心地良いです。赤ちゃんは可愛いので、たまに世話をするのは、とても楽しいです。

仲良くしていた女の子が、赤ちゃんを産みました。赤ちゃんは、みんなで育てます。私は大人になったので、遠くまで、友達と一緒に狩りに出かけます。何日か行くこともあるのですが、村での生活とは気分が変わって、楽しいです。ずっと村にいるよりも、時々は、何日かの狩りに出る方が楽しいのです。知らない景色に出会ったり、珍しい木を見つけたりすると、興奮します。そして、獲物をとって村に帰ると、みんなが喜んでくれて、とても誇らしい気持ちになります。

いつのまにか、私は、年寄りになりました。狩りに行くことも、少なくなりました。もう、村で一番の物知りになったのかもしれません。遠くに行きたいとも、思わなくなりました。それよりは、村にいながら、小さな子供に森のことを教えたり、時々は赤ちゃんの面倒を見たりするのが、楽しいのです。狩りに出る若者に、遠くにある川のことを教えたりします。私は、村で一番の物知りになりましたから、そのように、話をして伝えることが、私のやりたいことであり、役に立つことなのです。

とまぁ、こんな話は当然、想像で書いていますが。DNAは、想定している環境での「最適解行動」をとるように、ヒトを設計しているはずなのです。DNAが想定する世界においては、「やりたいように」やっていれば、全てがうまくいったのだと思います。

もちろん、我々の社会がこうなるべきだとか、昔(数万年前ですが)を懐かしむとか、そういう話じゃありません。ここで言いたいのは、「ヒトのDNAは、このような世界を想定しており、その世界の中で最適に動けるように、我々の行動様式(衝動)を設定している」ということです。我々は、ヒトの「衝動」を知っていますので、その衝動が上手く働くような環境を逆算して想定する、という作業をするわけです。本来、衝動は行動させるためにあったのですが、我々が「DNAが想定する社会」を知りません。それを知るには、衝動が手がかりになります。衝動という状況証拠により、現場(想定する環境)を再現する、ということです。


現代人に残る衝動

21世紀の我々にも、その衝動は残っていますが、現代の環境でそれを発揮できる場所はありませんので、「趣味」や「消費」として、その衝動を発散して「楽しむ」ようにしているのです。イチゴ狩りは、食料採取です。ペットを可愛がるのは、子供(自分の子供に限らない)の面倒を見たいという衝動です。旅行は、遠くまでの狩猟採取です。街歩きやショッピングも、同じです。イオンモールで買い物をするのは、近くの森で木の実を探すことの代替行為です。安い掘り出し物を見つけて興奮するのは、ジャングルで美味しい果実を見つけた喜びと同じです。

おじいちゃんが、うざがられても孫に昔話を語りたいのは、そもそも、若者に自分の経験を伝えることが、狩猟採取社会での最適行動だからです。子供がおじいちゃんやおばあちゃんに懐くのは、知恵をもらうためです。スマホゲームに熱中するのは、虫や木の実の採取です。ガチャにハマるのは、狩猟採取の偶然性(自然界は偶然性が高い)で失敗を繰り返しても、何度もチャレンジするように、DNAがヒトの衝動を設計しているからです。「当たりを引くまでやめない」という衝動を持っているヒトが、森から素晴らしい獲物を持ってくることが出来るのです。だからギャンブルに興奮します。

ケーキバイキングに行きたくなるのは、ジャングルの中で幸運にも見つけた熟れた果実を、腹一杯食べることが、その世界での最適解だからです。だから、ケーキバイキングで腹一杯食べることで、ヒトは幸福感を得るのです。女性が細かなものづくりに熱中するのは、村の中で、手作業で服や道具などを作る必要があったからです。友達とおしゃべりをしながら、道具を作るのです。それは現代では、編み物や、「おかんアート」として、衝動の吸収先になっています。

時には、近隣の部族と、危うい関係になることもあります。この村を守るために戦う必要もあるのです。その衝動は、現在ではスポーツになっています。体を動かして戦うのは、気持ち良いのです。なぜなら、その必要があるから、その行動をすれば気持ちよくなるように、DNAが設計しているのです。仲間と協力して、体を動かして、敵と戦う。少しぐらいは怪我するかもしれませんが、快楽や衝動が、危険性を上回ります。現代では、その衝動を発揮する場所は、河川敷の野球場やサッカー場になりましたが、古代では、隣村との境の森で行われていたと思います。

仲の良い異性と、性行為をしたくなります。できるだけ、いろいろな人としたいと思います。それは、一夫一妻制の現代では不倫であり、重婚であり、法的にも常識的にも認められないものですが、多くの人に、そのような衝動があります(だから、多大なリスクがあっても、不倫したがるわけです)。なぜなら、そうやって、集団内の多くの人と性的な関係を持つことで、共同体内部でのコミュニケーションを図り、意思疎通が円滑に行われるように、ヒトは設計されているからです。DNAは、愛する2人が衝動のおもむくままに性行為をしたら不利益をこうむるなんていう「環境」に、ヒトが生まれ落ちることは、想定していないわけです。


なぜ個性があるのか

DNAは、100人ほどの集団が、熱帯から亜熱帯にかけての地域で、狩猟採取を行いながら暮らしているという「環境」を想定しています。その環境の中で最適な行動を「集団」として行えるように、設計しています。21世紀になっても、ヒトのDNAは10万年前と変化していません。(ひょっとしたら、少数の農業アップデート済み人類はいるかもしれません)

さて、DNAは「集団」が生き延びるように、行動設計しています。そもそも、狩猟採取社会のジャングルを「個人」が生き延びるとは、想定していません。100人ぐらいの「集団」が、最小単位なのです。

ですので、個人としての「ヒト」は、集団の一部でしか、ありません。個人は、それで完璧な存在では無いのです。100人ぐらいの集団で「完璧な存在」になるのです。DNAの設定では、100人が1セットです。

DNAの目的は「個人のヒトの生存と子孫繁栄(いわば利己的な遺伝子論)」ではなく、「集団のヒトの存続と子孫繁栄」なのです。時には、個人のヒトが犠牲となり(主観的には、犠牲を厭わず)、集団の存続の確率を上げる、という働きをすることも、あります。現代でも、自己犠牲の精神で他者に尽くす「ヒト」は、普通に存在しています。

さて。100人の集団を存続させることが目的ですので、個人としてのヒトは、集団の「部品」でしか、ありません。もっとも、その当時の(DNAが想定している環境での)個人は、集団と自我を相当に一体化させていたと思うので(「心」が発生する前のことです)、自分はそのまま集団です。だから、部品なのですが、部品という意識も、我々が思うほどには無かったと思います。

個人は部品ですから、それぞれに役割があります。多様性があった方が良いのです。例えば、リーダーシップ。現代社会のビジネスでは、リーダーシップが必要なんて言われますが、100人の集団で、100人がリーダーシップを持ってしまったら、それは「船頭多くして船、山に登る」ということになるのです。

適当に言いますが、5人ぐらいの現役リーダー、その見習いが3人ぐらい、OBやOGなどの経験を伝える元リーダーが3人ぐらい。せいぜい、100人のうちで10人ぐらいが「リーダーシップ」を持っていれば、十分です。ま、多かったところで、5人に1人ぐらいでしょう。2人に1人がリーダーシップを持っていたら、収拾がつきません。ましてや、全員が持っていたら、混乱の極みになることでしょう。リーダーシップは、普遍的な個人のヒトに備わった素質ではなく、集団の中で「リーダーシップ」という役割を担う部品としてのヒトが必要である、ということです。

他の例を挙げますが。「夜型」の人って、いますね。どうしても朝は調子が出ない。夕方ぐらいから、絶好調になる。そういう人は、現代社会では生きづらいと思います。学校だって昼にやりますし。勉強にも、集中できないでしょう。でも、100人の集団の中には、何人かの「夜型」がいなければ、夜が危険になります。集団の中には、夜に絶好調になって、火の番をして、見張りとして起きているヒトが必要なんです。もちろん、ヒトの活動は昼間が中心になるでしょうから、大半の人は「昼型」なんですが、100人のうち5〜6人ぐらいは「夜型」がいてくれた方が、集団としては、強くなります。これもまた、ヒトは普遍的に昼型であるということは無く、集団内に昼間対応の部品(多め)と、夜間対応の部品(少なめ)があるということです。

出産で言えば、全員が「自分の子」を産み育てる必要も、ありません。おそらくですが「産むのが得意」な人もいれば、「育てるのが得意」な人もいたと思います。集団内での役割分担です。出産と育児も、集団内分業(役割分担)されていたかもしれません。しかし現代では、産むの「だけ」が得意な人は、ポンポンと産んでしまい、大家族になって、でも育てるのは苦手だから、貧乏な大家族になってDQN一家を生み出してしまいます。一方で、産むのは苦手だけど、育てるのが得意という人だって、いるはずです。でも、その人は産めないから(産むのが苦手だから)、子供は欲しいけど、なかなかできない。だから不妊治療を頑張る、とかいう話になってしまいます。でも、子供は大好きなので、可愛がりたい衝動の吸収先として、犬を可愛がったりするわけです。

でも、これが100人の集団だったら。そして、子供は「みんなの子供」だったら。産む人は産み、育てる人は育てる。現代人の感覚では「自分の子供じゃない子供を育てるなんて、損した気分」となるかもしれませんが、それは現代人の自我が孤立化しているからであって、DNAの設定では、100人の集団自我に、自分の自我は溶け込んでいるので、皆が私であり、私は皆である。ラグビーのone for all,all for oneみたいな精神です。というか、ヒトはそういう生き物なので、スーパーで見た他人の赤ちゃんでも、かわいい、抱っこしたい、という「衝動」が湧くのです。DNAは、個体のDNAを存続させるための最適解を提示しているのではなく、集団を存続させるための最適解を提示しているのですから、このような役割分担が生まれます。

ということで、このような前提で考えれば、人間の才能というのは、せいぜい、100人集団の中で最高のもの、ぐらいが関の山です。100人のうち、子供や高齢者を除いて、70人ぐらいとして。性別で分けて、片方がせいぜい40人ぐらい。ということは、40人のヒトのうちで、最も自分が得意なことは、そのヒトの才能です。1万人に1人の才能とか、100万人に1人の才能なんてものは、ありません。才能は、せいぜい40人のうちのトップというぐらいのものであり、そのぐらいの世界観で生きるように、ヒトは設計されています。

ですから、もしあなたが、クラス(40人くらい)で一番「絵が上手い」とか「話すのが得意」とか「子守が上手」というのであれば、それは明らかに、天性の才能であり、集団内でそれを役立てるように、あなたのDNAは「集団内の部品」として設計されている、ということです。

現代の環境と、DNAが想定する100人集団狩猟採取環境の、ズレ。「コンビニにスナック菓子がある」というズレもあり、そちらは最近、注目されたので、タンパク質中心の食事(DNAが想定しているもの)をとると健康になる、なんて話も一般的になりましたが。

僕は、この「100人の集団を想定している」DNAと、「個人で生きなければいけない。また、理想の(個人の)人間像がある」という現代社会の価値観が、すごく乖離しており、さまざまな問題の元凶になっていると思っています。実際は、ヒトは集団の部品なので、それぞれの役割があり、普遍的な理想像というのは存在しないのです。


必要な行為に、幸福感が付与される

さて、話の方向性を少し変えます。ヒトはどんな時に「幸福」を感じるのでしょうか。

まぁ、もう答えは出ているようなものですが、DNAは我々が必要な行動をとるように、報酬を準備しています。幸福感というのは、言い換えれば、オキシトシンとかドーパミンとかの脳内物質が分泌されているということです。で、その分泌の目的というのは、先ほど言ったように、「DNAが想定する環境において、適切な行動をとった場合に、報酬がもらえるようになっている」のです。そして、集団(個人ではない)での生存確率を上げている、ということです。これが、DNAの目的であり、ヒトの幸福感の根源です。

じゃあ、我々が感じる「幸福感」を、いくつか紐解いてみましょうか。まずは、性行為。多くの人が、性行為で幸福感を感じます。それも、(男性目線で言いますが)ソープランドに行くとかじゃなく、好きな人と初めて行為に及ぶ時の方が、幸福感を味わうんじゃないでしょうか。

では、DNAはなぜ性行為に「幸福感」を、付与しているのでしょうか。

何度も言いますが、集団存続のため、ですね。性行為をしなければ、そして子供を産まなければ、集団は存続できません。そもそも「個人」で言えば、子供を育てるというのは、損な行為です。特に女性は、妊娠から出産で何年も、子供に関わらなければなりません。また、出産で死ぬ危険もあります。個人の利益を考えたら「子供は産まないほうが良い」に決まっています。(ちなみに、それを現代の「個人社会」の文脈で言えば、「結婚はコスパが悪い」ということになります)

個人は犠牲になりますが(生存確率が下がる)、集団のためには、性行為をして(DNA目線では「させて」)、子育てをしないといけない。なので、性行為を「してくれるように」、DNAは幸福や快楽という報酬を与えているのです。性行為をすれば、気持ちが良い。快楽報酬がもたらされる。特に、女性の方が気持ち良いそうですが(一般的にはそう言われます)、それは、女性の方が性行為におけるリスクが高いのですから、報酬も多くなければいけません。

子育ても、大変な行為です。ですから、子育てすると、幸福感に満たされるように、設定されているわけです。もっとも現代社会では、その代替物として犬や猫を可愛がって、幸福感を感じるという行為になっていますが、本来は、子育てという大変な作業をさせるために、幸福感という報酬を準備しているわけです。

子育てへの報酬は、お母さんだけではなく、血縁関係もない高齢者にも発動されますので、スーパーでおばあちゃんが「あらかわいい赤ちゃん」とか言って、寄ってくるのです。DNAは、おばあちゃんに、目にした赤ちゃんを抱っこして、集団内での子育てに参加させるために、脳内物質を分泌させて、血縁でもない赤ちゃんに近寄らせてくるのです。


なぜ父親は育児をしないのか

父親があまり子育てをしてくれない、仕事ばっかりで、お母さんのワンオペ育児になっている。現代社会の、そういう問題もありますが。これも「100人の集団」を想定すれば当たり前のことです。

健康な成人男性は、集団内で子育てなんかせずに、遠くに狩りに行って、大きな獲物をとってきてくれることが、集団としての「最適解」だからです。子育てという、高齢者や年少者でも出来る作業に、狩りが出来る成人男性(希少)を関わらせることは、集団の最適解ではありません。だから、子育てしたいなんていう衝動が働かないようになっているのです。外でパチンコでもしていたくなるのです。パチンコは、現代における、狩猟の代替物ですから。そして、高齢者や少女には、子育てしたいという欲求が働きます。少女が子育てしたくなるのは、育児の練習でもあります。

もちろん、現代社会でも意識的に「頑張れる」男のヒトは、パチンコや風俗に行きたいのを我慢して、家に帰って「イクメン」を黙々と行えるでしょうが、DNAの報酬系が働いていないので、大変だと思います。パチンコや風俗というのを、DNAの文脈にすれば、「健康な成人男性は、狩りに行き、そして村では、多くの女性と性行為をして、優秀な子種を残すべき」というメッセージです。まぁ、その場合、性行為の相手は「知っている女性」になるので、風俗よりは、女友達との不倫と例えた方が適切ですが。

性的な話をずいぶんとしましたが。他の例を挙げましょうか。例えば、ツイッター中毒。これは、仲間と情報交換をして、いろいろな情報を得ることは、集団の利益になるので、そのような行為をすれば報酬(幸福感・快楽)がもたらされるように、DNAが設定しているのです。なので、スマホでSNSを覗きたくなるのです。本来は、これは「仲間とのおしゃべり」をすると働く報酬系なのですが、現代では、ツイッターなどのSNSが代替物となっています。

ついでに言えば、スマホを触る、指の動き。細かい規則的な動きですが。これらは、村で行われる無数の手仕事の代替物だと思います。木の実を割る、糸を撚る、道具を作る、などなど。単純な労働というのも、DNAは「必要」だと想定していますので、ただただ指を動かすみたいなことにも、報酬系が働きます。ゲームなども、そうですね。で、スマホをいじりながら、SNSをチェックするというのは、「手仕事をしながら、おしゃべりする」という行為の、現代的な代替物です。ちなみに、この行為は女性がやった方が良いので(女性は授乳しなければいけないので、村にいることが多い。男性は外にいることが多い)、女性の方が、スマホのSNSにハマりやすいと思います。

スポーツが好きな男性は多いですが、これは、狩りや戦いの代替物です。体を動かして、戦って、獲物を得る。英語ではgameという単語に「獲物」と「スポーツのゲーム」という意味がありますが。DNAは男性に狩りをさせて、集団の役に立たせたいので、そのような行動をしたくなるような報酬系を用意しています。

会社で、上司が部下を飲みに誘いたいのは、知恵の伝達です。残念ながら、現代社会は「環境の変化」が激しいので、高齢者の知恵は、若者の役に立たなくなってしまったのですが、DNAは100年やそこらで環境が変化すると想定していないので、高齢者の知恵を、若者に伝える必要があるのです。

ただ、ここで「若者」の定義もズレているのは、DNAが想定している「伝授される若者」は、まだ、狩に行けない子供たちがメインだと思います。小中学生、とかですかね。だから、高齢者は、本当は孫と遊びたい(知恵を伝授したい)のです。孫も、そのぐらいの年頃には、祖父母と会うのが楽しみになっています(高齢者から知恵を受け取ることに、子供の報酬系が働いている)。

ただ、現代の環境では、高齢者(50〜60歳、体力が衰えて、狩猟の現役から退いた世代)の周りにいるのは、二十代や三十代の若者です。この年代は、DNAの想定する環境なら、独立して狩猟している年齢ですので、そんなに「話を聞きたくない」のですね。高齢者の経験を聞くことに、報酬系が働かないのです。すでに、勉強は終わって、行動する時期なのです。なので、新入社員は自分で判断して行動したいし、上司の話を聞きたくありません。だって、もう一人前の狩人だから、話を聞くよりも積極的に行動しろと、DNAが言っているのですから。

あと、小さな子供が、公園で見知らぬ人に連れていかれそうになるなんてこと、ありますね。1歳ぐらいの子供が、知らない人と手を繋いでいたとか、全然知らない家族のところに混じっていたとか。育児あるあるです。これは、そもそもDNAは、子供の周りに「知らない人」がいる環境を想定していません。周りにいるのは「信頼できる人」しか、いないのです。だって、100人の村なんですから。ならば、周囲の(DNAも繋がっていない)誰にでも懐いた方が、みんなで子育てしてもらえるし、そのほうが育児の成功確率は上がりますので、DNAは、子供が、そのような行動をとるように設定しているのです。もし、DNAが「核家族」という環境を想定しているのなら、赤ちゃんは、両親や祖父母以外には決して、懐かないはずです。

ちなみに、「人見知り」の時期は1歳ぐらいから始まりますが、1歳まで会ったことない人は、100人の村に所属していない人のはずなので、そんな見知らぬ人に抱っこされたら「泣く」という、危険アラートを発動するように、赤ちゃんは設定されています。人見知りの時期の前まで、たくさん触れている人は、安心できる対象(同じ集団の仲間)ですので、いつでも子育てを受け入れられるのです。

と、まぁ、こんな感じで挙げていけば、いくらでも例が挙げられるのですが。もう長くなりましたから、やめますけど。ともかく言いたいことは、DNAは「狩猟採取して、100人ぐらいの見知った人が、ずっと周囲にいる環境」を想定しており、その集団の行動が最適になるように、ヒトの報酬系(DNAの一部)を設定している、ということです。そして、集団ですので、それぞれの役割がありますので、一人一人が同じわけではない。「ヒトの理想像」があるわけではない。いろいろな役割があり、それぞれの役割が必要であり、それぞれの役割に応じた報酬系が働きますので、ヒトには個性があるのです。(といっても、集団は100人ぐらいですので、個性はせいぜい数十種類ぐらいにしか分けられないはずです)


DNAが想定する「性」の話

性のことについて、掘り下げて書いておきます。ヒトのDNAが想定しているのは「生まれてから死ぬまで、ほとんどメンバーが変わらない、100人ほどの群れでの、狩猟採取生活」です。では、DNAは、どのような「性行動」を想定しているかというと、おそらく、集団内でのフリーセックスです。

もちろん、この話も状況証拠しか無いのですが。10万年前の生活なんて分からないので、我々は、自分の衝動とか身体を手がかりに、逆算して、「DNAが想定している環境」を想像するしか無いのです。で、状況証拠で言えば、ヒトの性行為において、他の動物にはあまり見られない、特徴的なことがあります。例えば、ヒトの女性は、性交のときに大きな声をあげることがありますが、生命として考えた時に、性交時は無防備ですし、その無防備な状態で、声を上げて自分の存在を周りに知らせるというのは、おかしなことです。普通に考えれば「黙っている」方が、合理的です。

なぜ声を上げるかというと、他の男性がそれを聞いて興奮するから、ですね。「メスをめぐっての争い」をする動物もいますが、ヒト(の男性)は、あまり、そういうことをしません。これは現代のアダルトビデオなど見ても分かりますが、男性側は、仲良く協力することが多いです。大人しく順番待ちをしていたり。男性の気持ちとしても、女性と男性(自分以外)が性交しているのを見て「この男をぶん殴って、自分が女性と性交しよう」とは、思わない。また、その男性が知っているヒト(友達とか)であれば、仲良く順番待ちするようなものだし、他人の行為を見て興奮したりもします。闘争心ではなく、興奮なのです。このような報酬系(興奮は報酬)が働くことから見ても、DNAの設定としては、ヒトのオス同士(仲間のオス)は、メスをめぐって争うというよりは、仲良く協力する、性行為を通じてコミュニケーションを行うのです。

また、他の動物と比較しても、ヒトが性交にかける時間は長いですが、そもそも安全面から言えば、性交の時間は短い方が良いのです。どう考えても、危険な行為ですから。性交には、子供を作る以外にも、コミュニケーションとしての役割があります。なので、ある程度の時間をかけた方が良い。また、これも「集団内」で行われると想定しているので、現代でも、ヒトに見られながらの性行為で興奮したり(ハプニングバーとか)するのです。集団内で行う想定なので、無防備な性行為時間が長くても、危険が少ないと判断しているのでしょう。

身体的な状況証拠としては、ヒトの男性器には、かえしのような形状、いわゆるカリクビがありますが、これは、他の動物には見られない特徴的なものです。このカリクビの機能は、膣内に残る「他のオスの精子」を掻き出すためのものです。ピストン運動することで、膣内の空気圧を下げ、カリクビで掻き出す、その掻き出したところに射精する、という身体機能です。

これが意味することは、ヒトの男性器は「メスの膣内に、他のオスの精子がある」と想定している、ということです。DNAは、そのような環境を想定しています。動物の種類によっては、メスをめぐって、オスが争う動物もいますが、このような種類の動物のように、そもそも戦いによって、確実にメスを確保している場合は、性交で精子を掻き出す必要も無いのですから、性交の時間は短ければ短いほど良いです(無防備な時間が減る)。

では、ヒトのオスは、どこで争うかというと、「精子がメスの膣内で争う」のです。代理戦争みたいなものですね。本体(ヒト自身)は仲良くしている。争うのは、精子。そうやって、性を通じて、コミュニケーションをとるというのが、DNAが想定しているヒトの世界です。性の面からも、ヒトのDNAが想定している環境というのは、100人ほどの狩猟採取集団だったと推測できると思います。


なぜ幸福な世界は、滅びたのか

DNAがそのような世界を想定していましたので、DNAが想定する環境にいたヒトたち(想定と現実が一致している)には、存分に報酬系が働き、幸福に、その一生を終えることができたと思います。

もちろん、DNAが想定していないような「環境の変化」が訪れることもあり、その場合は、苦しみの中で生きなければならず、苦労したと思います。例えば、7万年前のトバ火山の噴火からの寒冷化は、DNAの想定外だったので、人類はほとんど滅びかけました。と、このような想定外の出来事もあり、そして滅んだ集団も無数にあったでしょうが、人類史のおおむねにおいて、DNAが想定する環境の中で人類は「思うがままに」行動していれば、大体うまく物事は運び、その一生を幸せに過ごしたと思います。

これを我々、現代人に置き換えれば、スマホゲームに熱中し、パチンコに行き、草野球を楽しみ、気の合う異性と自由にセックスをして、おしゃべりをし、それで問題なく豊かに暮らせるような世界観です。ついでに、自然環境も素晴らしいので、常にリゾート地にいるようなものです。

では、なぜそのような幸福な世界は、失われたのか。大きな原因は「農業」です。農業という発明を、どこかのヒトが行い、それが広まるというのは、DNAの想定外の出来事であり、いまだ、DNAはその社会(農業社会)に対応した行動原理へアップデートされていません。狩猟採取は楽しい(DNAが楽しくなるようにしている)作業ですが、農作業は、辛く苦しい作業です。雑草とりや、種まきに、報酬系は働きません。収穫は「狩猟採取」に近いので、ちょっとは報酬系が働きますが。おまけに言えば、農業によって摂取する食料に偏りが出て(例えば、小麦ばかりを食べる)、身体的には弱くなります。不健康になるんです。辛い思いをした上に、不健康になってしまうのです。

なぜ、そんな苦しい「農業」が、こんなにも広まったのか。それは、農業をすれば人口が増えて、集団の人数が増える。そうすると、戦った時に強いのです。その流れは、今も続いています。農業以降の、主要な物差しは「強さ」です。戦った時に、どちらが強いか。19世紀までは、武力は人数に大体、比例していましたが(少し弱い理由として、幻想への狂信性)、現代では、科学技術や経済力の方が重要になりました。現代の「強さ」は、人数よりも経済力です。

ということで、農業の発明以来、ヒトは「人生は苦しいもの」という、軽い地獄の中で生きています。おそらくですが、その辺の物語が、聖書のエデンの園の追放じゃないでしょうか。昔は楽園にいたというのは、やりたいようにやってうまく行っていた、狩猟採取時代のことです。農業以降は、やりたいようにやっていては、うまくいかないので、「頑張って」「努力して」行動しなければ、ならなったのです。もちろん、21世紀の今もです。

日本を例に挙げれば、江戸時代は、狩猟採取ではないまでも、現代に比べれば、まだ幸せな時代でした。というのは、そこまで「強く」なる必要が、なかったからです。ヒトは「強く」なるためには、大変な努力をしなければなりません。一方で、基本的には「楽」をしたいのです。必要に迫られない限り、楽をしたいというのが、基本的な生命の行動原理です。(楽をするということは、エネルギーを消費しないので、生存確率が高まります)

さて、ペリーが黒船でやってきて、日本は「強く」ならなければいけなくなりました。富国強兵です。富国とは言い換えれば、工場労働。強兵は、軍隊。つまり、工場労働者と兵隊を生み出さなければ、ならなくなったのです。

当たり前ですが、軍隊は「強さ」のために、あります。その軍隊の土台として、工場があります。富国強兵は、どちらも「強さ」を目指したものです。

明治時代に、日本が軍隊を創設し、国民国家としてスタートを切ると同時に、日本国(大日本帝国)に忠誠させて、兵隊を作り出しました。その養成期間として「学校」が作られました。言うことを聞く、疑問を持たず、きちんと自己犠牲の精神で働く。なぜ、このような「行動原理」を教え込んだかというと、それが「強さ」という物差しの最適解だから、です。

入力と出力が決定すれば、その間を結びつける行動原理が決まります。この場合、環境入力というのは、世界の列強が植民地拡大を繰り広げ、軍事力の拡大を続けているという「環境」です。出力(目的)は、日本国という集団を、その中で生き延びさせることです。という、入力と出力が決まれば、その間を結ぶ最適解たる行動様式(文化)が決まります。

この流れは今も続いています。流石に、兵隊になろうということは無くなりましたが、それは、現代の強さは、筋肉の強さではなく、経済力の強さなので、現代の教育は、「自分の個性を生かして起業する」とか「マネタリー教育」というものに、変化しています。もちろん、これらはDNAの想定外の世界ですので、その行動に報酬系は働きません。もっとも、報酬系を働かせることができれば、効率よく出力に至れるので、「ゲームを使った教育」とかを行い、成果を上げているところもありますが。基本的には、やりたくないことをやらされています。繰り返しますが、やりたいことというのは、DNAが報酬系を働かせる行動、ということです。

という感じで、現代社会は辛く苦しいという話も、いくらでも出来るのですが。ここで言いたいのは、農業の発明以降、つまり、ここ1万年ぐらいの人類文化の価値観は「強さ」であり、その目的に叶う価値観が「善」とされてきた、ということです。もちろん、場所によって環境は微妙に違いますので、多少の差異はありますが。善悪というのは、その環境での最適解の行動の物差しであり、農業以降は、「強さ」という物差しが最重要でした。そして現代社会は、農業以降の1万年の戦いに勝ち残った文化によって作られているので、世界中のほとんどで、「強さ」の物差しが受け入れられています。

DNAが想定する行動でも、「強さ」の価値観(物差し)にそぐわないものは「悪」とされたのです。欲望のおもむくままに行動していては、集団が「弱く」なる。だから「悪」だ、という流れです。でも、DNAは変化していないので、人間の欲望は、10万年前と変わっていません。相変わらず、浮気をしたいし、ギャンブルしたいし、雨の日は会社に行かず寝っ転がりたいし、知らない人と話すのは嫌だし、お父さんは子育てなんかしたくない。でも、そういう行動は、農業以降の社会では「弱さ」に繋がってしまうので、文化的には、よくない事だとされてきたのです。というか、それを認める文化は「弱い」文化になるので、滅びる確率が高く、現代にまで残っているものは非常に少ないのです。(日本は、安全な島国という地理的特性から、比較的「弱い」文化でも生き残れたのですが)


「強さ」の限界

では、この辛く苦しい「強さ」を追い求める社会は、これから先も続いていくのでしょうか。しかし、希望があります。というのは「強さ」が、そろそろ限界に来たな、という事です。地球環境という有限の天井に、当たってきたのです。これは当然、人類が自滅するピンチでもあるのですが、その反面、農業以降1万年以上続く、軽い地獄から抜け出すチャンスでもあります。

まず軍事的に言えば、核兵器です。核兵器の発明により、人類は大規模な戦争を「起こせなく」なりました。だって、世界的な核戦争が起きれば人類が滅亡することは、分かっているのですから。また一方で、経済的な発展も、地球資源の限界が近づいてきたので(環境破壊の進行からの、自滅の恐れ)、このまま続けるとヤベェな、っていう価値観になります。グレタさんや、ドイツの緑の党のような動きが出てきます。

というか、このまま強さの競争を続ければ、おそらく数百年以内に人類は自滅する可能性が高いので、人類が今後も発展し続けるためには、どこかで「強さ」という文化から、方向転換しなければなりません。方向転換するか、滅びるかの二択です。(もちろん、方向転換した方が良いです)


100の指数関数での、文化の違い

さて。このnoteの最初の方に書きましたが、僕は、人間集団を「100の何乗」という区切りで考えています。指数関数で「人間関係の離れ具合」を表せると思っています。で、離れ具合により、最適な行動様式(つまり文化)が変わると思っています。見方を変えれば、それが「文明の発展」とも言えるのですが。「このぐらい離れたヒト同士をまとめるためには、このような行動様式が最適である」という話です。環境(人間集団のサイズ)が変われば、行動様式(文化)が変わるということです。ちなみに、出力は農業(100の2乗)以降は常に「強さ」であり、生き残ることです。

100の1乗は、DNA設定の100人集団。エデンの園の、幸福な狩猟採取時代です。DNAの想定と、現実世界は一致していますので、衝動のおもむくままに行動していれば、やっていけます。時間的に言えば、人類史の8〜9割ぐらいは、この時代です。(まぁ、寒いところというDNA想定外の環境の場合は、服を作ったりする苦労は、ありますが)

100の2乗は、農業が始まって集団が、最大数万人にまで拡大したような集団です。しかし、ここでも「知り合いの知り合い」ぐらいで、大体、辿り着きますので、言語も似ているでしょうし、まだ、なんとか「本能的」な行動様式で、やっていけたと思います。文化に共通項が多い集団ですので、明文化されない、不文律の「常識」が、主力の行動様式になります。江戸時代の日本は、ここですし、現代日本も、この段階だと僕は思っています。(日本は島国という安全な立地のため、そこまで「強さ」を求めなくても、集団を拡大することが出来ました)

100の3乗は、100万人レベル。これが紀元前500年ぐらい、世界的に哲学や思想が勃興した時期です。ハムラビ法典、仏教、儒教、ユダヤ教の成立、ギリシャ哲学、などです。この辺りでは「知らないヒト」がそこら中にいるという「都市」の環境が普通になりました。例えば、ユダヤ教の成立は、エジプトの奴隷という、いわば「多民族」をまとめ上げたことにあるので、常識の違う者同士をまとめる、明文化された「十戒」が必要だったのです(聖書の出エジプト記です)。明文化されたルールで統治される「法治国家」です。繰り返しますが、日本はこの行動様式を本格的には採用していないので、法律よりも常識が優先されています。

100の4乗は、1億人。うーん、この辺はしっかり考えたことないんですが、適当に言いますと、共産主義や資本主義、アメリカの場合は、アメリカニズムとでもいいますか。イスラム教も、ここに入るかな。イメージで言いますが、もっと広く薄く、抽象的になるんですよ。100の3乗と4乗の違いは、抽象度の違い(4乗の方が高い)のですが。集団内に、複数の言語や人種(見た目が違うヒト)を含みます。言語を超えた普遍的な概念により、集団をまとめ上げるのだと思います。ま、ここは僕は、あまりピンと来ていないので、適当に言っていますが。最近のGAFAMとかも、ここに入るかなと思います。

さて、言いたいのはここから。100の5乗、100億人をまとめあげる文化です。100億人は、地球環境という有限にぶち当たったことで、ブレーキをかけざるを得ない文化なのです。これを今後、作らなければならないというのが人類課題だよ、という話です。

100の4乗までと違うのは「環境制限」が出てくることです。100の4乗までは、その集団規模に比べて、地球環境は、ほぼ無限と考えてよかったので、「強さ」のために、いかに集団をまとめるかという、行動様式(文化)だけに集中すれば良かったのですが。100の5乗は、地球環境の制限に当たります。自滅しないように環境を維持しつつ、軍事力をコントロール(封印)しつつ、集団をまとめ上げなければならない、という課題です。

100の2乗〜4乗までの出力は「強さ」で統一されていたのが、この出力を変えなければいけない、ということです。「滅びない」という出力は、最低限クリアしなければなりません。当然、入力も変わります、人数が変わりますから。また、技術の発展により、入力環境は日々刻々と変化しています(新しい技術が生まれ続けている)。入力の変化と、出力の変化が同時に起こり、そこを結ぶ最適解たる行動様式(文化)を作らなければならない、という課題です。

で、その文化(行動様式)の素材となり得るものは、おそらく「環境問題」と「世界平和」と「宇宙開発(科学の発展)」です。ま、そのぐらいじゃないですかね、世界が一致できそうな価値観といったら。

で、その100の5乗文化を作るときの材料として、ヒトのDNAをきちんと研究して、考慮した方が良いよというのが、僕の主張です。DNAは10万年ほど変わっておらず、我々は、そのDNAにより幸福感を感じるようになっています。で、みんな幸せに生きた方がいいじゃないですか。そのほうが不満分子が無くなるので、人類の自滅可能性も減ります(不幸な人が多ければ、それだけ核兵器テロとかの可能性も高まります)。

もちろん、原始社会に戻ろうなんて話じゃないんですが、でも我々のDNAは原始社会を想定しているので、その方が満足するという部分もあるんです。なので、ヒトのDNAを「踏まえて」、100の5乗たる、今後1000年ほどは永続する文化を作り上げるべきだ、という提案です。

その次の、100の6乗たる1兆人文化への転換は、地球だけでは不可能で、太陽系外にも植民星を作らないと実現しません。それがいつになるかは分かりませんが、その環境(太陽系外への植民星への移住)が実現するまでは、100の5乗文化で生存し続けなければなりません。有限の地球環境で、ブレーキをかけながら、平和に生存するしか無いのです。そこに、現代文明の科学技術や知恵を集中投資するべきだろうと思います。


意識は「しない」のが得意

農業以降の世界は、「強さ」の物差しを持った文化(集団の行動様式)が広がっていきました。しかし、一方で、そもそものヒトのDNAに基づく、あえて言えば「幸せ」の物差しもあります。

DNAが想定している環境(熱帯・亜熱帯での100人集団の狩猟採取)と、現実環境が一致していれば、「幸せ」の物差しだけでうまくいくのですが、農業以降、「強さ」という行動様式も取り入れないことには、集団が滅んでしまいますから、嫌々ながら、「強さ」を取り入れていったのです。強さのための手段が、農業、都市化、冶金、貨幣、軍事などなど。これらのことは、集団を大きくし、強くなっていくために必要なものです。(なので、強さが必要無い環境では、一時的に技術が後退することもあります。江戸時代の日本で鉄砲技術が廃れて、花火となったのは、その一例です)

「強さ」を追う一方で、「必要ない限りは楽をしたい」というのも、生命としての本能です。つまり、ヒトの文化というのは、生き残るための「強さ」を確保した上で、できるだけ「楽」をしたいという、アクセル(強さ)とブレーキ(幸せ)のバランスの上に、成り立っているのです。

日本は明治以降、富国強兵で「強さ」を求めた文化形態に変化していったわけですが、それは、強さの必要があったからであり、それが無ければ、幸福な「弱い」文化でいたはずです。もっとも、この「弱い」ということも、当時の西洋列強に比べたら弱いというだけであり、アイヌや琉球よりは強かったし、元寇でなんとか外国を追い返すほどにも、強かったわけですが。

さて、意識の話で、意識は「後追いの判断」をしている、と言いました。本当は、無意識(の行動様式)で判断しているのですが、その判断を、意識は後追いで「決めた」と思っている。意識が「やろう」と思うよりも前に、その行動に向けた脳波は出て、身体は動き出しており、意識はそれを自意識として確認しているに過ぎません。で、繰り返しですが、その目的は何かというと、自意識を作ることにより、他者理解するためです。

では、意識には何の意味も無いのか。全ては無意識で決定されており、意識、というか、我々の「意思」は意味を持っていないのか、という疑問が浮かびます。

で、まぁおそらくなんですけど、意識の役割は「禁止」にあるのだと思います。意識は、何かをすることはできないけど、しないことは、できるんじゃないか、と。我慢、ですね。やりたいけど、やらない。これは、意識が出来ることだと思います。願掛けで、好物を絶ったりしますが。ああいう芸当を、ヒトの意思は行えます。食べたいという衝動は、消せませんが、食べないことは出来ます。というか、全てが無意識であれば、集団としての文化も生まれようがありませんので、自由意志はあるのです。だけど、やることは、意識の前に行動が起きているのだから、ならば、意識(自由意志)が出来るのは、やらないことだけだろう、と。少なくとも、何かをやるよりも、やらないことの方が、簡単に出来るのです。

と思うと、文化的なこと、つまり「集団の行動様式」は、そのほとんどが「やらないこと」です。モーセの十戒もそうだし、ハムラビ法典も「〇〇をしてはいけない」です。というか、法律というのは、基本的には「やってはいけないこと」の羅列です。逆に、人に何かを「させる」方が、難しい。山本五十六が「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」と言っていますが、それぐらい、何かをさせるのは大変。させない方が、簡単。なので、集団をまとめる共通の行動様式は「やらない」という方がやりやすい、意識の働きを応用しているのです。

となると、この意識の働きは、希望でもあります。これからは、何かをするよりも、「しない」ことをベースにした、文化を作らなければならないからです。環境問題などは、その最たるもので、解決法は「何かをすること」ではなく、「何かをしないこと」です。人間を脇に置いておけば、環境問題の最適解は「何もしないこと」なのですから。軍事もそうですね。世界平和は、何かをするのではなく、「何かをしないこと」です。軍事を「しなければ」世界平和になるんですから。

でも、一方で何かをしたい、というヒトの欲求も、どこかで発散させたい。それは、今までは、地球が受け止めてきたのですが、すでにヒトの技術に対して地球は小さくなってしまったので、発散先を、宇宙開発に向かわせれば良いということです。ということで、「しない」という方法で「環境問題」と「世界平和」に立ち向かう。一方で「する」というエネルギーは、宇宙開発に向けて、100の6乗(1兆人・太陽系外惑星)文化への環境を整える、ということです。


100億文化を夢想する

さて、これから先、「強さ」を求める文化を、どこかで方向転換し(もちろん、早ければ早いほど良いです)、DNA(幸せ)をベースとした、100の5乗(100億人)をまとめるような、文化形態を考えるべきだと思っていますが。今、僕が考えるのは、以下のような形です。

僕が思い描く文化は、基本形は「100人の集団」です。それが最も、ヒトが幸福に暮らせる世界観なので、幸福度が高くなります。もちろん、個人の自由は担保して、人材の流動性を確保した上で、基本的に「100人の村(というか家族的なもの)」のような単位の暮らしが、ベースにあると想定しています。

そうだ、お金の話も少し、しておきます。お金はおそらく、100の3乗あたりで発生しました。「知らないヒト」との取引において、信用の代替物たる「お金」が必要になるのです。100の2乗までは、信用でいけたんじゃないかなと思います。ま、適当に言っていますよ。(何度も言う、100の2乗の現代日本文化では、「お金は汚いもの」という価値観があります)

お金は信用の代替物ですので、逆に言えば、お金を使うことで、信用は「減る」のです。身近な例で言えば、「夫婦で財布を分ける」と、なんとなく、夫婦仲が悪そうでしょう。また、子供が大学に行くときに、親がお金を出して「後でちゃんと働いて返せよ」なんて言われたら、なんか、親子仲が悪くなるでしょう。そういう感じです。お金を使うことで、信用は減るのです(もちろん、心理的な話です)。

家族内では、お金のやりとりはありません。特に、仲の良い家族であれば。子供がお手伝いをしても、ありがとうね、と言うだけであって、お小遣いをやらないでしょう。そうやって、お互いに、顔の見える範囲では、価値交換(お手伝いなど)を通じて信用を積み上げていきます。そもそも、お金という概念はDNAが想定していませんので、ヒトは本能的には、お金を使いこなせません。なので、お金持ちでも不幸になるし、宝くじが当たっても散財して破産するし、お金で友情が壊れます。

さて、僕が想像する100人集団は、家族のようなものです。ということは、この100人の中で回せる仕事は、お金のやりとりが無くなる、ということです。100人の集団内部で回せる仕事は、どのようなものがあるか。例えば、飲食、家事、育児、介護など。保険なんかは、そもそも個人のリスクヘッジのためにあるので、100人が1単位にあれば、ほとんど必要なくなります。大工仕事なんかも、集団内で回せます(建築素材を作るのは、100人では無理ですが)。

もちろん、100人では作れないものもあります。自動車やガソリンは、無理です。高度な医療無理でしょう。でも日常の医療行為なら、集団内に1人の医者がいればいいし、もっと言えば、5つぐらいの集団(500人)ぐらいに1人、いればいいと思います。

教育は、高度な専門教育は無理ですが、義務教育程度なら、集団内で回せます。という感じで、100人の集団内で、貨幣を介さずに「価値の交換」ができるものは、お金を介さず流通させる。ちなみに、お金の目的は「価値の交換」ですので、そちらが本質です。お金を介した価値の交換をGDPと言っているだけであり、人間の豊かさに直結するのは、お金の流通量ではなく、「価値の交換」の量です。なので、GDPよりも、価値交換の総量が上がって、生活が豊かになり、幸せに暮らせることの方が大切です。(国民総幸福量のGNHという概念もありますが、それよりは、お金以外も含めた価値交換の総量をどうにか数値化できれば、幸福度の指標になると思います)

100人集団でも、外部との価値交換のためには「お金」が必要です。なぜなら、ヒトが信用できる範囲(人間関係を把握できる範囲)というのは、100人ぐらいが限度なので、それより遠くとの価値交換には、お金を使った方が良いのです(ひょっとしたら、100の2乗の1万人ぐらいの自治体内では、貨幣無しでもいけるかもしれません。また、地域内独自通貨を使うとか)。

なので、この100人集団も「お金」を稼ぐ必要があるのですが、みんながみんな、稼ぐ必要もありません。その時代や場所によって、お金になりやすい能力は、変わります。なので、たまたま時代や場所に適合した個人が「外貨の稼ぎ役」となれば良いだけのことです。古代社会で、筋肉モリモリの男が、大きなイノシシを仕留めてくるように、その時の環境で、外貨(獲物)を獲得しやすい能力をもった個人が数人いれば、十分です。そもそも、ほとんどの仕事を内部で回せるので、お金を稼ぐ必要量が減りますので、外貨(お金)を稼ぐ量も減るのです。


未来の政治体系

さて、このような「100人集団」をベースにするとして、では、政治の世界はどうなるかというと。一つのアイデアというか妄想ですが、100人のうち1人、つまり、全人口の1%が政治に携わるというシステムが良いと思います。本当は、10万年前のように、100人の村だけで暮らせれば最も幸せでしょうが、我々は現代文明を維持しつつ、人類を存続させなければいけないので、1%の税金、いわば人身御供のようなものですが、そのぐらいは公共のために働かなければならないコストだと思います。

100人のうちから1人、このヒトなら任せられるというヒトを選びます。この100人は「よく知っている間柄」ですので、ヤバイ人が選ばれる確率が低いです。少なくとも、現代社会の政治家より「ヤバイ人」が出る確率は、ずっと低いでしょう。

さて、100人から1人の「政治家」を100人、集めます。1万人のうちの100人、ですね。この人たち100人は、政治家として、1万人の自治体の運営に当たります。また、任期後には、その100人のうちの代表者を1人、選ぶ。例えば、任期を4年としたら、4年間、村から選ばれた100人の政治家は、1万人の自治体のために働くわけです。で、その任期の最後に「この人ならば信用できる」という人を、100人の政治家(1万人自治体運営を4年間行った同僚)から選ぶ。すると、1万人の代表者が1人、決まります。

この1万人の代表者(すでに4年間の政治経験がある)が100人、集まって、100万人の自治体、というか、プチ国家ぐらいのものですね、そこの統治を行います。で、また4年の「100万人集団」の統治の最後に、その100人から、次のステージへ送り出す代表者を決める。100万人に1人の代表。で、これが100人集まって、1億人集団の統治を行う。現代で言う、国会議員のような役割です。町会議員(1万人)、県会議員(100万人)、国会議員(1億人)という感じのステップアップです。

そして、1億人の代表が100人集まれば「世界統治」ができるわけで、その100人からトップを決めることも出来ます。このヒトが地球代表ですね。

このシステムの良いところは(自分で言うのもアレですが)、必ず「よく知っている人」から選ぶ、ということです。未来の「地球大統領」を選ぶなんていう話になると、直接民主制で、100億人がインターネットで投票して、それじゃあ衆愚政治になっちゃうよ、なんて問題がありますが。直接民主制ではなく、超間接民主制です。その各段階で、必ず「100人の、よく知っている人から選ぶ」というシステムなので、ヤベェ奴が、そのハードルを何度もクリアするという確率は、非常に低いと思います。基本的には「良い人」が選ばれるはずです。

そして、世界の99%の人は、そもそも、政治のことなんか考えなくてよくなります。99%の人は、自分が所属する100人の村から、「この人なら信用できる」という政治家を送り出すだけで、世界の環境問題も、軍事のことも、民族問題も、宗教問題も、何一つ考えることなく、自分の得意なこと(例えば、育児とか畑仕事とか)に集中して、DNAの衝動を満足させながら、幸せに暮らすことが出来ます。そのようなシステムであれば、政治も身近なことになります(必ず、100人のうちの1人は政治家ですから、どんなヒトにも、政治家の知り合いがいるわけです)。という感じの政治体系を夢想しています。


感情とは、何か

さて、メインの話は終わりましたので、あとは蛇足です。一応、こんなことを書こうかぐらいのメモは用意してあると言いましたが、適当に書いてきましたので、抜け落ちているところも、いくつかありまして。で「感情」のことは、孔子の心のあたりで少し、触れましたが、一応、ちゃんと説明しておいた方が良いと思うので、言っておきます。

ヒトには、自我という行動原理があると言いました。この自我は、他者の行動様式のコピーを積み重ねて、作られます。一応、ヒトには個性があるので微妙に違いますが、同じ文化圏に属している人は、大体、似通っています。(日本人は真面目だ、というようなことです)

で、感情というのは、幻想と現実のギャップが発生した時に、生まれます。幻想というのは、自我(行動原理)が、こうあるだろうと予想する世界です。ヒトは常に、世界を予想しながら生きているんです。無意識に、常に幻想の予想をしているんです。(この話は、あとで詳しくします)

ですが、現実を完璧に予想することは出来ないので、時には、予想外の現実が起こります。現実は、ヒトが感覚器官を通して知覚できるものだけが現実ですので、全ての世界の出来事を知覚できるわけはなく、狭い意味での「現実」ですが。それこそ、ニュートリノがいくら身体を通り抜けようが、それはヒトの感覚では知覚できないので、現実には存在しません。もっとも、カミオカンデで働いている人は、装置を通してニュートリノを知覚できますので、その人にとってニュートリノは現実です。一応、それをニュースや本を通して知っているヒトにも、見えないけどあるんだろうな、という、現実ではあります。ニュースを通して「知覚」していますから。でも、1000年前のヒトにとって、ニュートリノは無かったわけですし、1000年後のヒトが知覚しているであろう何かも、現在の我々は、知覚する手段がありませんので、現実ではありません。

(蛇足の蛇足ですが、古代人にとって神様は実在しましたし、中世ヨーロッパに魔女は実在しました。我々が、お金や国が実在していると信じているのと、同じことです)

と、話が横道にそれましたが、機械による感覚器官の補強はあるものの、基本的に、感覚で知覚するものが現実です。で、その現実と、自我が予想している幻想がズレた時、感情が生まれます。


笑いについて

例えば、笑いについて。バナナで滑って転ぶコメディアンを見て笑う。この場合、コメディアンがすました顔で歩いています。我々は、そのコメディアンを見て、すまして歩き続けるという「幻想の予想」をします。で、滑って転ぶのを見る(視覚・聴覚からの感覚入力)。これが「現実」。ギャップが生まれました。そのギャップを表現(同種他者への伝達)するために、笑いという感情表現が発生します。

子供が死んで、悲しい。この場合、子供は生き続けるだろうという、幻想の予想がある。で、死ぬという現実がある。そのギャップがあるから、悲しい(という感情表現をする)。ですから、突然の死(例えば交通事故)であるほど、ギャップが大きいから、感情も大きくなる(すごく悲しい)。でも、白血病で何年も入院しているとなれば、覚悟ができている。覚悟というのは、子供が死ぬという予想をしているということです。なので、その現実が起きた時にも、ギャップが少なくなる。交通事故よりは、感情が小さい。覚悟(予想)している分、幻想と現実のギャップが小さくなったからです。

虹を見て笑顔になるのは、虹が出ない、というか、普通の雨であるという「幻想の予想」と、実際に虹が出るという現実のギャップです。ちなみに、ここで虹じゃなくてUFOが出たら、それは「驚き」という感情になります。で、感情も、そこそこまでのギャップしか対応できません。感情という心の動きで、幻想を組み替えて、現実を受け入れる、という役割です。また、自分が感情を動かしているということを、表情や音声を通じて、周囲の仲間に伝えるというのが、感情の目的です。

同種他者とのコミュニケーションが不要の動物には、感情がありません。必要無いからです。たぶん、魚や昆虫には感情がありません。これは、コミュニケーションしていないということではなく、コミュニケーションの手段が、「自分の予想と現実のズレを表現して、それを表情や音声などを通じて仲間に伝え、共同体内での意思疎通の精度を高める」ための「感情」には、よらない、ということです。そうじゃなくて、フェロモンとか、動き(ミツバチダンスとか)で、コミュニケーションしている、ということです。

さて、感情はそのように、幻想(予想)と現実のギャップを表現するためのものですが。すごくギャップの大きい「現実」が来てしまった場合、感情の処理を超えるので、そういう時は、無感情になります。嫌な例ですけど、学校から帰ってきたら、家族が皆殺しにされていたとか。ギャップが極大です。そういう時、幻想を組み替える方が負担が大きいと、脳が判断すれば、そもそも、その現実を受け入れない、という判断になることもあります。すると「家族はどこかで生き続けている」という、幻想の世界に生きることになる。現実の知覚ができなくなります。こういう状態を、精神病とか言っています。

笑いについて言えば、うまいお笑い芸人というのは、良い具合に「現実と幻想のギャップ」を作り出すのです。「振りと、落とし」です。振りで幻想を作り、落としで現実を持ってくる。そのギャップです。緊張と緩和とも言います。緊張が幻想で、緩和が現実です。現実は、突拍子なくていいんですよ。UFOが出てきたって、現実です。というのは、現実は「感覚で知覚するもの」が現実なので、それが、非現実的だろうが、知覚しているんだから、現実なんです。UFOも幽霊も現実です(幻想を通して知覚している)。

笑いに戻しますが、お客さんの幻想を育てていって(振り)、そことはズレた現実を提示する(落とし)。で、そのギャップが、笑うほどに適切だった場合に、笑いが起こる。あまりギャップが大きいと、笑いを通り越して、びっくりとかしちゃうこともあるんですが。そういう芸人は「下手」だと言われます。笑えない、むしろ引くわ、とか言われます。その文化圏における、笑いを生み出すほどに適切なギャップを、多種多様な方法で臨機応変に生み出せるという能力が、お笑いの能力です。

まぁ、マジックとかもそうですね。シルクハットの中には、何も無いはず、という幻想。鳩が出てくるという、現実。そのギャップで、驚く。あと、適当に例をあげますけど、受験に合格して嬉しい。これは、落ちるかもしれない、浪人するかもしれない、という幻想(予想)。そして、受かったという現実。そのギャップで、喜ぶ、笑う。そもそも、100%受かると思っていたら、嬉しくもなんともないと思います。8時ちょうどに電車が来ると思っていて、8時ちょうどに来ても、嬉しくもなんともないでしょう。それと同じです。(8時ちょうどに来なければ、怒りという感情が生まれます)

何か感情が動いた時には、必ず、幻想と現実のギャップがありますので、そこに注目してみてください。で、嫌な感情(辛いとか、悲しいとか)を無くすためには、そもそも、そういう現実が「当然」だと思えば、嫌な感情は無くなります。そういう幻想を抱くのも辛いので、良し悪しではありますが。そういうのが仏教的アプローチだと思います。現実をあるがままに受け入れる、という方法です。


感情はなぜ生まれたのか

感情は、幻想と現実のギャップですが、そもそも、感情が発生する「目的」、何のためにあるのか。というか、そもそも、なぜ我々は「幻想」を通して世界を見ているのか、という疑問です。これは、常にリアルタイムで現状把握するよりも(いわばロボット的な世界把握)、予想をしながら世界を観察して、その予想とズレていない限りは、幻想を採用する(世界を認知しない)という手法を、生物はとっているんじゃないか、と思うのです

まず、感情というのは、人間だけじゃなくて、犬猫や、ニワトリあたりも、持っていると思います。自意識的な「意識」は、ニワトリには無くても、感情はあると思うんです。ニワトリも、びっくりしたり、しますし。で、感情があるということは、おそらくですけど、世界を「予想」しながら見ているんです。

イースト菌とかのバクテリア、これは感情が無いと思います。イースト菌と、ニワトリの間の、どこかで感情が発生している。生物は、環境からの情報入力と、行動出力の間のアルゴリズムです。注目したいのは、環境からの情報入力、という部分です。

イースト菌だったら細胞膜で、周りに水分があるかとか、糖があるかとかを知覚するのでしょうが、これは情報量が低いです。ですので、簡単に全情報を処理できると思います。で、そのうち、生命は進化していき、多細胞生物になり、感覚器官も発達し、光(電磁波)受容体ができる。明るい方に進む生物なんてものが出来る。眼のような器官ができて、入ってくる情報量が多くなってくる。身体も大きくなるので、物質的に触れる情報量も多くなる。イースト菌という単細胞のバクテリアだって、物質と接触する情報入力が、あるわけです。そしたら、ヒトのような多細胞生物は、接触情報だけでも、その何兆倍も処理しないといけない。

情報量が多くなった時に、生物には、この情報を「どう処理するか」という問題が出てくると思うんです。どうしたら、もっと簡単に処理できるのか。全ての情報を処理するのではなく、必要な情報だけを、ピックアップして、その情報だけに反応したい。というメカニズムが働くと思うんです。生物は、できるだけ「楽をしたい」のです。なので、省力化を目指します。

ここで、生物がとった手法が、「世界を予想しながら、その予想に反したものだけを知覚する」という方法じゃないかと思うんです。

生物が知覚する情報量全てを100%としましょう。常に環境の情報を100%得るためには、100%の労力をかけなきゃいけない。イースト菌ぐらいなら、大した情報量が無いので、機械的に反応すればいいんですけど(イースト菌の100%は1、ヒトの100%は100の20乗、みたいなイメージ)。ヒトのように、入力情報が膨大な生命は、常に100%の情報を処理するのは大変です。

そもそも、世界は大抵、変わらないです。ほとんどの入力情報は、必要無いのです。というのは、情報入力の目的は「行動」ですから、同じ行動を続けていれば良い状態なら、情報入力も要らないのです。惰性で動くというのが、生命の基本形です。なぜなら、その行動で今まで生きてこれたのですから、その行動を続けることは、これからも生きられる確率が高いです。とりあえず、今まで生存というハードルをクリアしているのですから、よほどのことが無い限り、行動は変えなくて良いというのが、生命の行動の基本だと思います。日常の例で言えば、特に不満が無い限り、行動は変化しません。環境(情報入力)が大きく変わらない限りは、同じ行動を続けていれば良い。いちいち、リアルタイムで100%の情報処理の必要が無いのです。

となると、必要なのは、環境情報全ての処理ではなく、行動に直結する環境情報の処理です。それは「環境の変化」です。つまり、環境の変化だけを認識すれば良い、ということです。そうすれば、情報処理がずっと楽になります。では、環境の変化は、どうすれば認識できるのか。そのためには、「変化しない環境」という「予想」を作り出し、その予想像(幻想)と、現実(感覚入力)との差異だけを認知する、という方法をとるのです。

知覚した感覚と、自ら作った予想を比較して、これが同じであれば、感覚はシャットアウトする。作り物の、幻想の方を採用する。そして、行動は変化させない。時々、幻想と違う感覚入力(つまり現実)があった時にだけ、そこの情報処理をする(例えば、動くものに自然と意識が向くのは、この効果です)。行動変化の時だけ、世界を知覚すればいい。

自ら作る予想は、作り物ですから、労力少なく作ることができる。あやふやで構わないのです。感覚知覚を4Kカメラで撮ったものとしたら、予想は、荒いCG画像のようなものです。また、一度作ったものの、使い回しでも大丈夫です。そのために、記憶があるのです。記憶をもとに幻想を作ります。もし、予想と違う感覚入力があったときに、気合を入れて「知覚」する。この知覚にも、ガチの気合い入れの知覚(例えば、事故の瞬間の走馬灯)と、そこそこの知覚(普通にびっくりした時)が、あります。0or100じゃなくて、グラデーションです。

という感じで、生物は、情報処理を楽にするために、世界を予想しながら生きている。先ほど、ガチの気合い入れの知覚というのは、事故の瞬間の走馬灯のようなものと言いましたが。そういう時の記憶って、すごくはっきりと、後からでも思い出せるでしょう。あれほどの「知覚」を、人間は、できるんです。子供の頃に怖かった瞬間とかも、覚えているでしょう。

あれがおそらく、100%に近い環境入力知覚なんです。でも、あれを常にやっていたら、大変すぎるでしょ。脳がイカれますよ。よく、人間は脳みその3%ぐらいしか使用していないと言いますが、100%活用なんかしたら、ヤベェことになるはずです。ただ、感覚入力は、同じなわけです。走馬灯の瞬間にだけ、眼や耳から入る情報量が増加しているわけではない。感覚器のハード面での変化は、ありません。目や耳や皮膚などの感覚器が、その瞬間に、より多くの情報を取り入れるわけではなく、脳内の情報処理の問題なんです。脳内で100%処理すると、全てを知覚できるから、時間(これは主観的な経験の量)もゆっくりになり、全ての景色も写真記憶のように覚えることができるのです(というか、嫌でも覚えてしまう)。

普段の3%のゆるゆる稼働状態だって、脳は身体の25%ぐらいのエネルギーを使っているそうじゃないですか。そんなのだから、フル稼働したら、エネルギー的にも、きついと思うんです。じゃあ、なんでそんなハイスペックな脳があるかといえば、やっぱり、いざという時のためのものであり、生命の危機の時に、走馬灯状態になって、100%知覚を発揮して行動するために、あるんじゃないですかね。これは、生き死にの問題ですし、そのぐらいのスペックをバックアップとして置いておくのは、理にかなっているんじゃないでしょうか。

で、普段のゆるゆる稼働状態では、やったことのあることは、いちいち知覚しないで行えば良いので、ゆるゆる稼働、もしくは、ほとんど無意識で行うようになるのです。単純作業も慣れると、無意識に行えるでしょう。知覚しないで済むことは、知覚しません。何度も言いますが、生物は、楽をしたいのです。(そのほうがエネルギーを節約できて、生存確率が上がるから)


行きは長く、帰りは短く感じる

他の例で言えば、新しい場所に行く時、行きは長く感じるけど、帰りは短い、という、あるある体験。あれは、最初の経験である「行き道」は、知覚感度が上がっているんです。初めての場所で、未経験だから、知覚感度を上げないと危険でしょう。でも帰り道は、行き道とは逆方向ですけど、一度は知覚していますから、知覚感度を落としていける。帰り道はぼんやり運転で大丈夫なので、経験も積み上げないから、時間(主観的な経験の量)も短く(少なく)感じる。

で、この「初めての道」でも、今までの人生で、色々な他の道を通っていますから、そこそこの「予想」はできるわけです。だけど、普段よりは知覚感度は、上がっている。だから、この「初めての道」も、外国で違う交通ルールの場所だったら、もっと感度を上げなきゃいけないから、時間も長く感じるし、大変とも感じる。運転している車も、初めて運転するレンタカーとかだと、知覚しなきゃいけない情報が増えるから、知覚感度が上がり、経験が多くなり、時間が長く感じる。(外国で初めて運転した時の記憶を、覚えている人は、多いんじゃないでしょうか)

さて、話を元に戻して。人間に限らず、生命は、情報量が一定以上になると、その処理を楽にするために世界を予想しながら、つまり常に幻想を作りながら、行動していると思うのです。で、予想と違う感覚入力(つまり現実)があった時に、脳の処理速度を上げて対応しなきゃいけない。この、脳の働きが「感情」です。ですから、感情というのは、予想外の現実に対応するために、脳の処理速度を上げて、適切な行動を取るための、アクセルのふかしみたいなやつです。また、そういう状況になっているよということを、同種他者(仲間)に伝えるのが、感情の目的です。

前に、感情(とか悩み)は、幻想と現実のギャップがある時に発生すると言いましたが、それは、そのズレを修正するために、知覚感度を上げて現実を把握し、新たな行動をしなければならないからです。どう行動するかを決めるのは、無意識の計算かもしれませんが、その計算の材料として、感覚入力は必要ですので、知覚感度が上がった方が良いのです。より、正確な環境入力(情報量が増える)により、良い結果をもたらす行動をする確率が上がります。で、知覚感度を上げるということは、脳の稼働率を上げて、エネルギーを集中させるということです。この脳の働きを「感情」と、意識は判断しているのです。


ドッキリを仕掛けられた時の、心の動き

現実世界での例を挙げれば、いきなり拳銃を突きつけられるドッキリを仕掛けられた、としましょう。その時、脅かされた人は、びっくりして、悲鳴を上げます。この行動を分析します。

視界の端で、拳銃を認知する。これは、予想した「幻想」の風景と違いますので、そのズレを脳が認知し、生命の危機なので、情報入力感度を100%近くまで上げます。より、多くの視覚情報を取り入れるため、目は見開かれます。顔を、はっきりとそちらに向けます。これも、顔を正対させることで、両目と両耳で正しく対象を認知し、危険物との距離感、また、相手の情報を多く取り入れるようにしているのです。

全身の筋肉に血流を巡らせ、身体を戦闘態勢に入らせながらも、危険物(拳銃)から少しでも距離をとるために、脚に力を入れて、後ろに下がります。手を胸や顔の前に差し出し、重要な身体器官を守ろうとします(内臓や脳に比べれば、上腕は重要度が低いです)。

と、このような行動を、ドッキリを仕掛けられたヒトは、0コンマ1秒ぐらいで行うわけです。情報入力、アルゴリズム(無意識ですが)の処理、行動出力(目を見開く、手で胸を守るなど)までを、瞬時に行うのです。ものすごい情報処理能力です。で、こんなことは、ヒトならば誰でも出来るのです。

ちなみに、拳銃が視界に入っていても、幻想との違いに気づかなければ、視界に入っていても、認知できていません。これまた、ヒトが世界を100%知覚しているのではなく、普段は、知覚感度を低くしているから、視界に入っている拳銃に気づかないこともあるのです。もっとも、一度、気づいてしまえば(気付くのは無意識)、0.1秒で行動できるのですけど。

というようなのが、ヒトの感情の働きですが。一方で、現代ではロボットに意識を持たせようとか、いろいろとやっていますが、おそらく、ロボットは環境入力された情報を100%処理しようという、力技の方向で作っているので、うまく行かないんだと思います。

このnoteの前の方で、そもそもロボットは意思疎通が通信で出来るので、意識が発生しないと言いましたが、この「予想と現実のズレ」という面から見ても、意識(や感情)を発生させる必要が無いのです。だから、発生しません。

まぁ、あまりロボットのこと知らずに、適当に言っていますけど。生物をモデルにするなら、情報量の低い「環境予測」をさせることです。そして、その予測とズレていた時だけ、集中的に処理するという、メリハリです。そもそも、予想(幻想)がなければ感情が発生しません。100%の情報処理を積み重ねても、その計算をどれだけ早くしても、ロボットに感情は発生しないと思います。


なぜ自分の家の匂いは、分からないのか

色々な例を上げますけど。他人の家に行くと、その家の匂いってあるでしょう。あれも、予想と違うから知覚しているんです。自分の家の匂いが匂わないのは、いつも嗅いでいるから、情報処理の必要が無くなるからです(予想と合致している)。そして、他人の家でも、時間がたてば、経験からの「予想」が出来てきますので、匂わなくなってきます。もちろん、感覚入力はあるんですよ。ただ、脳で、その感覚入力情報に意味があるという処理をされていないから、自分の家の匂いは知覚できないのです。脳で、これには意味があると判断されて知覚しない限り、知覚できませんから。

同じような効果で、自分が妊娠しているときは、町で妊婦さんがやけに目に付く。そして、自分が赤ちゃんを産んだら、今度は妊婦さんじゃなくて、赤ちゃんがやけに目につく、ということもあります。これも、その情報に意味があると、脳が判断したので、今までは処理していなかった知覚(今までだって視界に妊婦や赤ちゃんは入っていたのです)を、知覚できるようになったのです。

この働きを、行動様式のアルゴリズムで言えば、予想と一致した場合、その感覚入力に「×0」をして、入力を消去するということが行われているのだと思います。ここでも、意識の「同じ」という働きが、使われるのでしょう。幻想と感覚入力が「同じ」であれば、処理しない。もちろん、本当は違うものですけど、それを、ざっくりと「同じ」と判断する、という意識の特性の活用です。無理矢理、似ているものをy=y'とイコールでつなげられるのが、脳の特技です。(もっとも、この「同じ」の処理は、意識ではなく、無意識でされているので、意識発生以前の脳の機能なのかもしれません)

生命は楽をしたいので、脳は予想が一致するように(感覚を知覚しなくて済むように)、予想を進化させていきます。環境は常に変化するので、いくら予想をアップデートさせていっても、全てが予想通りに全てが行くことは、あり得ないと思いますが、その精度は上げるようにしています。というのが「慣れてくる」とか「知っている」ということです。経験を積めば、うまく行動できるようになるのは、脳が予想の精度を上げるので、労力(選択)少なく、最適解の行動が取れるようになる、ということです。

この「世界の予想」も、人それぞれ違います。すごく細かい予想をする人もいれば、大雑把な予想をする人もいます。細かい予想をしている人ほど、予想から外れる現実が多くなるので(だって、現実は感覚器官が健康である限り、誰にとっても一緒なので)、それだけ「感情」が動くことが、多くなる。

日常でも、「こうあるべきだ」という思い込みが強い人は、怒りやすいでしょう。思い込みが強いとは、予想の範囲が狭いということ。予想の範囲が狭いと、現実とズレることが多くなるので、感情的になりやすい(怒りやすくなる)のです。

逆に、大抵のことはどうでもいいじゃん、と思う人は、予想の範囲が広いということです。この特性があるヒトは、大抵の現実を「想定内」と思うので、感情が動きにくい。もちろん、それでも予想外のことが起これば、感情が動きますが。そのような個人差があるのも、ヒトは「集団を作る動物」ですので、集団内で、センサーが敏感な人と、鈍感な人などの、多様性があった方が良いのです。みんながみんな同じセンサーを持っていたら、集団としては弱くなりますから。(なので、正しいセンサー感度というのも、存在しません)

性別の話もしておくと、女性の方が敏感なのは、女性は妊娠出産するし、安全でいた方が良いので、変化に敏感になった方が良い。そもそも、男はちょっとぐらい鈍感で、その結果、死んだって、最悪、集団に1人いれば、集団の子孫は繋げるわけですから。鈍感で、少しぐらいの危険はかえりみず、ワンチャン大きな獲物とれるぜ!ぐらいで外でチャレンジしてくれた方が、集団の全体利益が上がります。ということで、女性は男性より敏感になりがちなので、世界とのズレも発生しやすいので、感情的になりがちです(良いこととして、感情を表現してくれた方が、集団内の意思疎通が円滑に行きやすい)。もちろんこれは、良い悪いの話ではなくて、単に、役割の違いです。


現代人が似たもの同士で集まる理由

さて、別の話。現代では、SNSなどを通じて、似た者同士が集まってコミュニティを作ることが多いですが、なぜ、こういうことが起こるのか。

というのは、本来、ヒトの群れというのは、その内部で多様性があるほど、強いのです。敏感なヒトと鈍感なヒトがいた方が、群れ全体での認知能力に多様性が生まれ、さまざまな環境に対応できるようになりますから。

しかし、現代人は、個人化した社会になったことで、自分のアイデンティティが弱くなっています。自信が無い、ということです。これも本能的なものでして、自信は普通、他者から認められることで生まれます。この他者が非常に少ない、せいぜい、家族から認められていたら自信が持てる、ぐらいのレベルですので、アイデンティティが弱いのです。

ですので、まずは本能的欲求で、それを固めたいと思いますので、自分と似たようなヒトを認める(似たもの同士で集まる)ことで、間接的に、自分を認めるという方法を取ります。ということで、趣味や年齢や性別などで細分化されたコミュニティが発生し、所属することになります。通信技術の発達、コミュニティの極小化、という、DNAが想定していない環境が現代に出現したことで、このような行動様式が生まれた、ということです。


なぜ夢を見るのか

夢の役割について、話します。寝ている時に見る夢、ですね。

今までの復習ですが、意識がy=y'という、違うものを「同じ」とする機能を発達させ、そのことにより、自らの意識(y)を生み出した。で、この意識は、後追いで「自分がどう動いているか」を知覚するものに過ぎなくて、ほとんどの行動は、無意識アルゴリズムで行われています。ただ、主観的には、「意識」で動いているように思っている。そうじゃないと、「他者が意識によって動いている」と思えなくて、他者理解(y=y’)に進みませんから。

で、膨大な環境入力情報省略のために、ヒトは幻想を作りながら、環境入力とのズレのみを集中知覚するようになっています。基本的には「幻想の世界」に生きています。これは、日中でも、そうです。ほとんどの入力情報は、そのまま捨てられています(生命の危険がある時ぐらいは、全て入力処理されますが)。

できることなら、集中知覚したくない。なぜなら、大変だからです。ということは、幻想の「精度」を上げることが必要です。いろいろなパターンの幻想をストックしておき、使えるようにしておく。幻想は、100%感覚知覚よりは、作るコストが低いので(解像度の荒いCGみたいなものでOKです)、いろいろ作っていても、そんなに脳の負担にならないのだと思います。で、この幻想は、これから起こる現実に合わせて行きたいのですが、その材料は「過去の経験」になります。過去の経験(もちろん感覚入力したもの)を組み合わせて、これから使うかもしれない、幻想をストックしておくのです。

じゃあ、この幻想をいつ作っているのかというと、これが寝ている間に、夢として見ているものじゃないか、と思うのです。さて、今、夢を「見る」と言いましたが、夢は視覚情報に偏っています。「聞く夢」もそこそこありますが、嗅覚・触覚・味覚の夢というのは、ほとんど無いと思います。(僕は見たことありません)

これはそもそも、嗅覚・触覚・味覚という、物質接触知覚系の感覚は、あまりに個別対応のため、意識を経由する必要がなく、無意識のアルゴリズムに組み込まれているので、意識が幻想を作り出す必要が無いから、です。そもそも「違う」と入力しているので、「同じ」にしにくいのです。普段から、違うものを違うままに情報処理が出来ていますので、夢を見る(幻想を作る)必要が無い。また、データ量的に言えば、視覚情報の方が、圧倒的に処理が大変なのだと思います。幻想の目的は「情報処理を楽にすること」なので、それは、視覚情報に集中するのでしょう。(なので、幻覚や幻聴は、幻味覚や幻嗅覚や幻触覚よりも、ずっと多い)

ちなみに、生まれつき盲目の人は、夢を「見る」ことは無いそうです。夢を「聞く」ことは、あるみたいですけど。夢の中でも、普段の、目の見えない生活と変わらない。夢の中だけ、目が見えるということは無い。後天的に失明した人は、夢を「見れる」のですけどね。生まれてから、一度も見たことが無い人は、夢を見ない(視覚的には見ない)。まぁ、当たり前の話で、夢(意識の幻想づくり)の原材料は、過去の経験ですから、経験していないことをできるわけはないのです。テレビとかも経験になりますから、もし自分がプロ野球選手だったら、みたいな夢は普通に見ますよ。原材料の「テレビで見た野球」があれば、幻想を作ることはできるので。そもそも、幻想は、これから起こりうるだろう可能性の先回りですので、経験していないことも夢見せてくるのですが、ただ、その原材料は、必ず「経験」から成り立っているよ、ということです。見たこともないものは夢に出てこないし、聞いたこともない音は夢に出てきません。(それらを組み合わせた、見たことない風景は、夢に出てきます)

寝ている間は、感覚入力の必要が無い(目を閉じている)ので、その処理を、幻想作りに回せるのだと思います。ま、これは卵が先かニワトリが先かということで、眠るのが先か、幻想作りが先かは、知りませんが。

で、寝ている間にオフにできる感覚は視覚だけです。耳栓していれば、聴覚ぐらいは閉じられますけど、まぁそれも人為的なものですので。嗅覚・触覚・味覚は閉じられない。目は、閉じて視覚入力をオフにできるので、夢は視覚に集中するのです。夢は「見る」ものです。PCがスリープ(まさに眠る)している時に、バックグラウンドで計算しているようなものでして。夜間に使われていない視覚処理をスリープ状態の時に使って、未来のシミュレーションをしている、ということです。

とはいえ、昼間だって幻想を見ているのですから、はっきりとした、夢と現実の境があるわけじゃ、ありません。胡蝶の夢です。そりゃ、目を開けていれば視覚情報の入力は、ハード面では行われていますから、普通は、それを処理しますが。でも、普段は幻想を通してのズレの知覚なので、やっぱり、幻想は見ているんですよ。気づいていないだけです。なので、白昼夢も見るのです。そして、幻想度が強くなれば、昼間に目を開けていたって、「あ、目つきがヤベェな」っていう人は、何か違うことを見ているわけです。ま、そうは言っても、誰もが幻想の世界に生きていますので、割合の問題ですけど。

夜になると、単純に暗くなって、視覚情報入力が減りますので、幻想で埋める割合が多くなります。なので、暗闇には幽霊が見えるし、森の中(暗い)には妖怪が住むのです。生命としては、暗闇に近づくとロクなことがありませんので、そのような幻想を生み出すことで、暗闇に向かうことを、止めているのでしょうけどね。


夢の反対はトラウマ

普段は、幻想もあり現実もあり、という知覚を我々は行っています。ま、視覚に限ってのことです。嗅覚・触覚・味覚は、あまり幻想を持たないと思いますので。聴覚は、その間かな。夢の中で音を聞くとかも、時々、あります。それなりに音波情報処理も大変なのでしょうが、音声は映像よりもデータ数が低いですから、そんなに省略する必要も無いのだと思います。

さて、ヒトは幻想と現実をまぜこぜにして知覚していますが、この割合を、まとめておきます。まず、夢。これは、知覚0、幻想100です。だって目を閉じているんですから。

次。ちょっと割合を高くすると、知覚10、幻想90ぐらい。ま、適当に言っていますよ、この割合とかは。で、これは、なんか目つきがやばくて白昼夢を見ているようなヒト。でも、こういうヒトでも、崖から落っこちたりしないとか、一応は歩道を歩いたりするのは、そのぐらいの現実は知覚しているからです。最低限の生命維持のために、視覚情報の処理は行っているけれども、複雑な他者の情報とかはシャットアウトしている状態ですね。だから「話が通じない」のです。こういうヒトは、話が通じなくても、車にはぶつかりません。車の情報は処理できるのです。

次。夜間の普通のヒト。適当に言いますが、知覚40、幻想60ぐらい。暗いので、視覚情報入力は減ります。なので、その分、幻想が増えます。ってことで、幽霊とかが見えるようになります。夜になるとテンションが上がって、ポエムとか書きがちなのも、幻想の割合が増えるからです。

次。昼間の普通の暮らし。ま、知覚50、幻想50ぐらいにしましょうか。昼間でも、我々は情報を全て処理なんか、していませんから。必要あると判断しているものしか、見ていませんので。なので、妊娠していないヒトは妊婦なんて見えません。幻想といっても、無いものを生み出すというよりは、現実に近い(例えば妊婦が入っていない)幻想画像を作り出し、それを知覚している、みたいなことです。で、この幻想の精度を上げるために、我々は、眠っている間に多くの幻想をシミュレーションして、ストックしておきます。たまにそれが現実と一致すると「正夢」になります。

(ちなみに、日本語でも英語でも、夢(dream)は「夜、寝ている時に見る幻想」と「将来の理想」という、二つの意味がありますが、これは、夜に見る夢の目的が、将来予想ですので、一致するのです)

次。初めてのことをやって緊張している時。初体験のセックスとか、外国で初めて運転する時とか、高校の最初の授業の自己紹介とか。初めての環境ですので、知覚感度が上がっています。知覚70、幻想30くらいでしょうか。初めての環境なので、その環境と合うような幻想のストックがありません。もちろん、似たような幻想はありますけど。いきなり他の惑星に連れ去れられたら、全く違う環境ですが、どんな初体験にしろ同じ地球上でやっていますので、そういう意味では、完璧ではないまでも、なんとかやっていけます。でも、幻想とのズレが大きいので、頑張って知覚せざるを得ず、そのために知覚感度を上げますので、緊張(血流を高める)するし、心拍数は上がります。何が起こるか分からない(幻想とズレている)ので、情報処理は増えます。ということで、登校初日はとても疲れますし、記憶に残ります。

次。日常の初体験ではなく、生命の危機にあるような場合。戦争の最前線とか、事故の瞬間とか、DVを受けている時とか。究極的には、知覚100、幻想0です。感覚入力された視覚情報を100%処理しようとするので、主観的な時間は、すごくゆっくり流れます。1分が1時間にも感じられる、みたいな。幸いにも、それほどなったことはありませんが。で、これが何分も続くと、トラウマになります。トラウマが幼少期にできやすいのは、大人よりも子供の方が弱いので、生命のピンチにおちいりやすいからです。もちろん、経験が少ないので、幻想も少なく、想定外の事態も起こりやすい。で、そういう時の知覚100は、とても大変ですし、重要な体験ですので、ガッツリと脳内に刻み込まれます。繰り返し、このような体験(生命の危機)をするのを避けるために、強く記憶するわけです。っていうのが、トラウマです。

という感じで、夢からトラウマになる出来事まで、幻想と知覚の割合を変えつつ、いろいろな脳の働きがありますよ、ということです。ま、これもグラデーションのものに、ヒトが文化的に、夢だのトラウマだの幽霊だのと名付けているだけで、はっきりした区切りがあるわけでもないのですが。ちなみに、トラウマは現実の材料なので、はっきりと記憶していますが、夢は幻想なので、すぐ忘れます。知覚度が高いほど「覚えている」のです。トラウマ、緊張時の初体験、日常の暮らし、夜の生活(酒とか飲んでいたら、より幻想が高まる)、夢、という順番で、覚えやすいです。夢なんて、ほとんど覚えていられないのは、覚えていても意味が無いからです。


引きこもりの原因

「引きこもり 人数」でググったら100万人ぐらい、とか出てきて。大変なことですね。で、なぜ引きこもりになるのかを、今までの話の応用ですが、話します。

ヒトは常に幻想を作りながら、基本的には幻想を知覚して生きています。幻想と現実のズレが発生した時は、現実知覚をしますが、それは情報処理をしなきゃいけないから大変だし、その情報処理の上で、適切な行動を取るためにアルゴリズムを働かせるのも、大変です。なので、幻想はできるだけ、現実と一致していた方が良いです。

さて、この「現実」ですが、100人狩猟採取における想定は、100人の他者(といっても、現代人に比べれば、はるかに心は通じ合っている、他者とは思えない他者)や、自然環境というのが、現実になっていますが、現代社会では、環境はほぼ人工物です。養老孟司さんが言う「脳化社会」です。ハード面でもそうだし、ソフト面でも、人為的な文化(行動様式)が環境を形成しています。現代における環境とは、自然ではなく、人工環境と他者(心の通じない他者)です。

で、自然環境の情報入力よりも、他者の情報入力の方が、大変です。というのは、他者の情報は、意識の働きにより、心を読み取らなければならない、一度、自己の気持ちも把握しなきゃいけませんし。もちろん、自己の気持ちなんて勘違いでしかないんですけど。勘違いでも、把握しなきゃいけないと思わされてしまう(DNAに)ので、大変は大変です。(先ほど、白昼夢を見ている話の通じないヒトも、車には当たらないと言いましたが、これは、他者情報認知よりも、車という物体の認知の方が、簡単だからです)

あ、話はそれますが、ヒトの色覚知覚は、他のヒトの顔色を察知するためだという説がありますが。(赤い果物を取るためという説もあるけど)。他のヒトの微妙な顔色を手がかりにして意思疎通を行おう、そのために色覚知覚すら発達させようというほどに、他者の行動を入力するというのは、ヒトにとって重要なことなんです。

ということで、幻想と現実のズレですが、この「現実」の方は、現代社会で言えば、ほぼほぼ、他者の行動です。で、幻想と現実のズレが大きいと、情報処理も大変だし、緊張するしで、疲れます。幻想の組み替え(これが積み重なると、自我の組み替え)も必要になるので、すげー大変です。そんな大変な思いをしたくないので、引きこもることになります。

では、なぜ、それほど大きな「幻想と現実のズレ」が起こるのか、という問題です。一つは、複数の文化(価値観の物差し)が存在することで、とある文化と、別の文化の行動原理のズレが大きくなる、ということ。例えば、学校で真面目な生徒だったけど、社会に出てつまづいて、引きこもりになった。これは、学校という文化の行動原理と、社会の行動原理が、大きく違うからです。学校は、言われたことを聞いて、真面目にやることが、行動原理だった。まぁ、そういう社会(会社)もありますが、学校文化とズレた会社、体育会系の営業とかに配属されたら、ズレが大きいので、ストレスになります。逆に、学校が体育会系だと、就職先とのズレが少ないので適応しやすい、なんてこともあります。(もちろん、体育会系の学校に適応するというプロセスは必要ですが、若ければ若いほど、可塑性が高く、環境適応しやすいです)

引きこもりといっても、普通は、他者情報の処理のズレに参っているので、自然環境に適応できないということでは、ありません。自然の方が、情報量が少ないですから。だから、夜の散歩(他者がいない)とかは、可能です。良い悪いは別として、戸塚ヨットスクールの文脈は、海という「自然の環境」の中での行動原理をインストールしよう、という取り組みです。まぁ、それでも先生とかの他者がいますので、ストレスはあるでしょうけど。

で、引きこもりって今に始まったことではなくて、古事記の天照だって引きこもっているわけです。天照の時代も、農業以降ですので、100人狩猟採取ではありません。邪馬台国は7万戸と魏志倭人伝に書かれていますし、100の2乗から3乗への移行期だとも思います。結局、いまだに100の2乗ですけど、日本は。まぁ、天照は渡来系民族だと思うので、ヘブライだか秦の末裔だか知りませんが、とにかく、ある程度の都市文化(法体系)とか持っていた集団だと思います。ですので、100人集団のように、自己と他者が一致している、苦しみを知らない極楽状態ではなく、ましてや、天照は女王のような立場ですから、幻想と現実の差異が大きくなった。で、そのストレスで引きこもったのだと思います。

引きこもりの天照を出すために、アメノウズメが踊り、神々が笑うんですけど。笑いというのは、幻想と現実の差異のズレを埋める感情でして。で、埋めているよ、というのを、笑いという表現で、他者に伝えているのです。(伝える必要がなければ、声や顔で表現する必要はありません)

笑いという表現は、これは「笑えるほど」の小さなズレだから安心しなさい、というメッセージです。営業マンが笑顔を作るのも同じことで、この笑顔が伝えたいことは、「私は、もちろん、とある幻想を抱いており、今、この現実(あなたとの対話)においても、多少のズレは生じていますが、私の幻想は、せいぜい笑えるほどのズレでしかありませんので、そこまで、あなたと違う幻想を抱いているわけではありませんよ、安心してください」というメッセージです。

これが、危険を伝えるのであれば、別の表情で伝えられるわけです。ま、顔色とかも含めて、ヒトは信じられないほどに、他者との伝達能力が優れているので、表情や声音でメッセージを伝えられます。(これを自在に操れる能力がある人が役者であり、芸能です。ってことで、アメノウズメは芸能の神様です)

天岩戸の前で笑い、現実と幻想の差異が少ないことを(無意識で)伝え、天照を安心させ(現実が天照の幻想に、寄ってきてくれた)、引きこもりを解消する、という流れです。

さて、日本には100万人の引きこもりのヒトがいるそうですが、問題を突き詰めれば、幻想と現実のズレです。で、現代社会(というか、ここ1万年ほど)の現実は「他者の行動」です。その差が激しいので、引きこもるわけです。

なので、引きこもり解消のためには、ズレが小さな現実を作る、というのが良いと思いますよ。自然は差が少ない(そもそも情報量が少ない)し、似た行動原理の人(趣味の仲間)とかいう、他者が関わるとしても、幻想に近い現実も良いですね。ま、社会の現実との大きな差異を埋めようとするよりは、現実を動かす方が楽だと思います。どうせ現実だって、幻想ですから。笑い飛ばせるぐらいの、小さな差異の現実をきっかけに、世界が広がり、引きこもらなくなると思います。


言語化しやすい感覚

蛇足の続き。もう、蛇に4本くらい足が生えましたかね。トカゲになりつつありますが。さて、夢は視覚が主だと言いましたが、ここを掘り下げます。言語と感覚について。意識は「何かと何かを同じ」という働きであり、それと、複雑な発声を組み合わせることで、ヒトは言語のコミュニケーションを行っています。

一方でヒトは、五感を通して世界を知覚します。五感は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚ですが、この五感、大きく分ければ2つに分けられまして。「視覚・聴覚」と「嗅覚・味覚・触覚」です。

視覚と聴覚は、電磁波(可視光線)や音波を受け取っています。媒体(空間や空気)の波を知覚しています。一方で、嗅覚・味覚・触覚は、実際に物質に触れています。波ではなく、物質の知覚なんです。ってことで、五感は大きく2つに分けられます。

波の知覚は、受容体が一つです。なので、データ化しやすい。一方の物質に直接触れる系の知覚は、それぞれの物質に対応した受容体や、触覚だったら、それぞれの場所がある。千差万別なんです。より、複雑。で、言語は「同じ」という働きをする、世界を単純化する働きなので、視覚や聴覚の方が「言語化」しやすいのです。物質知覚は、それぞれが個別であり、それを「同じ」とまとめる意味も無い。千差万別のものを、千差万別のまま処理できるなら、それで良いのですから。ということで、物質知覚の感覚(触覚・味覚・嗅覚)は言語化しにくいのです。

だから、言葉は音声(聴覚)でもあり、また、文字(視覚)でもいけるんです。点字という触覚言語もありますけど、難しそうですね。話したり、読んだりするスピードには、とても点字は叶わない。触覚という、具体的な感覚を、言語という「同じ」の体系に落としこむ、その相性が悪いのです。

味覚も言語と相性が悪いので、ソムリエの表現は冗長になります。「秋風に揺られるブランコと、枯葉の匂い」なんて、訳のわからないことを言い出しますが、そりゃ、味覚という、何百万とあるであろう実際の物質を知覚するという具体的な感覚器を、言語という「同じ」の概念にまとめて表現しようとするんですから、冗長にならざるを得ない。言語にする時点で「同じ」と、省略化してしまうのだから、具体的な感覚の表現のためには、冗長になる(言葉を積み重ねて複雑化する)しか無いのです。

ということで、食レポってのは本質的には無理なことしているのですけど。その特性を逆手にとると、逆に、適当に表現すればいいじゃんとなって、彦摩呂さんや千鳥さんのような、食レポで面白く表現するという手法が出来上がります。これは、味覚の言語化である食レポだから出来るんです。音楽(聴覚)や絵(視覚)を、面白おかしく表現するのは、難しい。というのは、それらは「ちゃんと言語化」できちゃうからです。味覚は、言語化しにくいからこそ、食レポで変なことを言うという笑い(幻想と現実のギャップ)が成立するんです。


感覚によるコミュニケーション

ヒトは、いろいろな行動を通じて、コミュニケーションを行います。それは集団(個人ではない)の存続のために必要な行為ですので、DNAの設定によって、幸福感(快楽・脳内物質)を得られるようになっています。ま、それはそれとして、五感それぞれを通じたコミュニケーションの質の違い、という話をしようと思います。

受け渡される情報量の少なさ、多さ、という観点で言えば、最も情報が少ないのが「文字」です。ま、そんなこと言いながら、このnoteも文字で書いているわけですが。せめて、話し言葉に近くなるようにしています。少しでも情報量を上げようという努力です。話し言葉の方が、文字よりは温度感というか、口調とか、雰囲気がありますので、伝わる情報量が多いのです。こうやって口語体で書くことで、僕は、伝わる情報量が多くなると思っていますので。

文字よりは、話し言葉。それよりは、視覚情報の方が、情報量が多いので、伝わります。というか、そっちの方が理解しやすい生物なのです、ヒトというのは。顔色を読むために色覚だって進化させるし、表情から感情を読み取るのは、ヒトの得意技です。だからyoutubeが人気になるのです。文字情報よりも、視覚と聴覚(話し言葉)の方が理解しやすいんですよね。もちろん、youtubeよりは、対面の方がベターです。ですから、本を読む以上の「デジタル情報」は手に入らないのに、講演会が21世紀になっても行われています。(実際は、生で見ることで、伝わる情報もあります。これもいつかは数値化できると思いますが、データ量が膨大なので、現代では「アナログ」と表現します。また、微細な嗅覚などを入力できる機械もありません)

文字、聴覚、視覚といった、デジタル系の感覚器を通してのコミュニケーションより、もっと濃密なのが、触覚系の、物質知覚のコミュニケーションです。で、これは言語化が難しいです。お見合いして、実際に会ってみて、嫌だなと思う相手もいるわけですが。これは、嗅覚とかの情報で判断しているんですけど、言語化できない(しにくい)ので、「どうも気が乗らない」ぐらいの、曖昧な断り文句になります。写真と釣書だと、良いヒトだと思ったけど、実際に会ってみたらなんか違ったというのは、物質知覚によるコミュニケーション(情報入力)で、どうも合わないなと判断したということです。

なので、恋愛という、究極のコミュニケーションにおいては、手料理を食べる(味覚)とか、ボディタッチ(触覚)とか、香水(嗅覚)といった、物質知覚系のコミュニケーションが重要になります。逆に、LINEで好意を伝えようというのは、デジタルの視覚言語の、情報量が極小の媒体で伝えようとしているんですから、厳しいです。ヒトは、文字情報でコミュニケーションできるほどに、感覚がアップデートされていませんので。「実際に会う」以上に伝わることは、ありません。

ということで、ツイッターの140文字で誤解が生まれまくって、その界隈が荒れるのは、当たり前の話です。読解力が無いとかいう以前に、そもそも、伝わる情報量が少ないんですから。で、その少ないところを補完しようと思って、互いに幻想を補強するので、ズレが生じて、誤解が生まれます。文字なんて、そんなものです。このnoteだって、おそらく8万字ぐらい書いているのですけど、そんなに伝わらないなと思っています。本当だったら、対面で三日間ぐらいかけて話したいところですが、そうもいかないので(僕も薪割りとかヤギの世話で忙しいので)、しょうがなく文字で伝えますが。これが「実際に会う」となると、情報量が多くなりますので、互いのヒトが理解しやすくなります。
(このnoteだって一方通行ですので、これを読んでいる皆さんが、どのくらい理解しているかなんて、僕には分かりようがありません)

ヒトはそんな動物ですので、政治の世界では、いまだに「会食」が行われるんですね。味覚という感覚を共有することで、親しくなる、仲間として、自我の共有部分を拡大しようとするんです。同じ釜の飯を食う、というのは、ヒト同士が理解しあい、協力するための、手っ取り早い方法なのです。ヒトは21世紀になっても、そういう動物です。

日本では、料亭での会食になりますが、フィンランドやロシアでは「サウナ政談」があるそうですね。これは、嗅覚や触覚を通したコミュニケーションでしょう。そりゃ、理解し合えますよ。仲良くなるため、理解し合うためには、そのような、視覚・聴覚に寄らないコミュニケーションの方が有利です。そういう文脈で言えば、国会をリモート開催するのは良くないですね。理想を言えば、温泉に浸かりながら議論するぐらいの方が良いですよ。


おしゃべりが、コミュニケーションの基本

ヒト集団が生存するためには、個体(個人)間での濃密な意思疎通が必要不可欠であり、なので、DNAはその行為に快楽を付与しています。なので「おしゃべりは楽しい」のです。それも、対面で、お茶しながらの、おしゃべり。また、酒を酌み交わしながらの、おしゃべりです。視覚(表情)、聴覚(声色)、味覚(飲食)を通じたやりとりで、理解を深めます。

西洋文化では、握手やハグやチークキスのような触覚コミュニケーションもありますね。あと、嗅覚はデフォルトで行っています。なので、臭い人は「清潔感が無い」と言って、嫌われます。これに同性愛を含めた集団内での性行為(フリーセックス)も、DNAは想定していると思いますが、現代社会では、かなり「悪」とされているので、とりあえず置いておきましょう。

おしゃべりがコミュニケーションの基本形、という例として。現代に数少なく残る、原始社会生活を行っている民族は、何時間もおしゃべりするんですね。自分が見たことを、延々と話す。何時間も話す。そうやって、感覚を共有するのです。

さて、ここまで、ヒトは集団だという話をしてきましたが。この話に至る大きなきっかけは、去年の6月ごろに、僕は、知り合いに誘われて、三重県鈴鹿市にある「アズワンネットワーク」さんを見学したことがあったのです。そこは、鈴鹿市の中心部で、200人ぐらいの人が、会計とかも一緒にした集団生活(といっても、住んでいるところは、普通のアパートだったりする)を行っているところで、元々は、ヤマギシ会から脱退したメンバーが始めたそうですが。

それまでも、僕は、頭では「ヒトは集団の動物」だとは思っていたものの、実感として分かっていなかったのです。僕がヤノマミ族のような、原始社会の出身なら、その辺りを理解できる感覚もあったのでしょうが、普通に東京出身で、大家族でもないし、ごく普通の日本人です。ただ、理屈で考えると、ヒトは集団生活が基本であるとは、思っていたのです。しかし、その実態が体感できなかった。その感覚を埋めてくれたのが、アズワンさんの見学でした。

アズワンも、DNAが想定しているような「理想郷」では無いと思いますが(だって都市部にあるし)、それでも、そっちの方向であることは間違いない。例えば、コミュニティで共同で、食堂や店を持っているのです。そこに、メンバーはお金を払わないで、食品(例えばビールとかスナック菓子)とかを持っていっていいし、ご飯を食べられる。無料の食堂とコンビニがあるようなものです。で、これも理屈で考えれば、家庭内での食卓とパントリー(食料庫)の規模を大きくしただけなので、理解できるのですが、体感としてそれを見れたことは、大きかったです。

そして同時に、これは幸せな暮らしだな、とも感じたのです。幸せというのは、DNA的に想定内の行動、とるべき行動である、ということです。

さて、アズワンの人に話を聞いた中で、これまた印象的だったのは、「もし、メンバー内で、何か問題が起きた時は、どう解決するのか」という話。その答えは「話し合う」だったのです。で、話し合いでは解決しないことも、あると思うでしょう。でも、アズワンの人は「一週間ぐらい話し合えば、なんとかなる」と言ったのです。いや、それってすごいな、と感じまして。

でも、そうですよね。我々が話し合っても理解できない、というのは、せいぜい数時間の話し合いです。一対一で一週間ぐらい話し合えば、ほとんどの問題は解決するんじゃないのか、と思ったのです。ヒトのコミュニケーションの基本は、対面でのおしゃべりであり、そこに徹底的に時間をかけること。これが、問題解決の基本だと思います。ま、アズワンの影響ですけど、それが正しいと思っています。そして、ヒトはそれぞれ個性があり、違う存在ですので、必ず、違いが発生します。でも一方で、集団の動物ですので、意思疎通が必要です。それを埋める作業は、徹底した話し合い、おしゃべりなのです。

おしゃべりは「論理的な話し合い」では、ありません。そもそも、論理なんて意識のごく一部であり、ヒトの感覚入力は言語化できない物質知覚も膨大にあります。言語化できないことも、なんとか共通事項として理解し合う、その手段として、我々は「対面のおしゃべり」ぐらいしか武器を持ち合わせていないのです。論戦も、議論も、違います。必要なのは、温泉やサウナに浸かりながら、同じ釜の飯を食って、一週間でも話し合うことです。それが、ヒトが理解し合うための、遠回りのようだけど、最も王道であり近道だろうと思います。(このnoteの途中で言った、100の5乗の政治体系は、そういう感じで行えば良いと思います)


ゲージ飼いの民主主義

さて、そろそろ終わりにしましょうか。このnoteの冒頭で、ゲージ飼いのニワトリの話をしました。最後に、その話の続きを話しておきます。

養鶏場が潰れて、10羽のニワトリを引き取ってきました。このニワトリ、小屋から出るのも嫌がって、隅っこでうずくまっていたのですが。1ヶ月もすると、元気になったのか、外で、草や虫をついばみ出して、もともと、うちで飼っていたニワトリと遜色ないほどに、元気になりました。抜け落ちていた羽も、生え揃い、羽もバタつかせるようになりました。

これを、今まで言ってきた「行動様式」で言えば、養鶏場のニワトリは、ゲージ飼いという環境での文化(行動様式)を身につけ、それをコピーした自我(ニワトリ個別の行動様式)を持っていました。まぁ、もっともそれ以前に、現代のニワトリはゲージ飼いに適応するように家畜化、されていますが。家畜化というのは、人工環境に最適化されたDNAを持っているということです。ニワトリ、ウシ、ブタ、イヌ、カイコなど。僕は、ヒトもそうなっていると思っていますが。まぁ、ニワトリは確実に家畜化されています。

ゲージ飼いに特化された家畜化されたニワトリも、1ヶ月ほど、別の環境(うちのニワトリ小屋)に置いておいたら、その環境の中での最適解に、自我を組み直したのです。それは、ドアから外に出て、日光の下で、虫や草をついばむという「行動」です。この行動は、ニワトリの肉体に好都合の行動だったので、羽も生え揃い、元気になったということです。(少なくとも、僕が、チキンカレーにしてやろうかと思うほどには、見た目も元気になりました)

さて。このような行動変容が、ニワトリに起きたわけですが。もし、養鶏場のゲージにいるニワトリに希望を聞いたら、何と言うでしょうか。「太陽の下で、自由に、草や虫をついばみたい」と言うでしょうか。言わないんですよ。養鶏場から来たニワトリは、ドアが空いているのに、小屋の隅で、薄暗いところで、うずくまっていたのですから。

もし、養鶏場のニワトリに希望を聞いたら、彼女ら(メスですから)は、「ゲージを少し広くしてほしい」と言うと思います。また「餌のクオリティをあげてほしい」とか言うかもしれません。でも、ひっくり返っても、「このゲージから外に出たい」とは、言わないのです。だって、体験したことないものは、希望には、なり得ないのですから。

幻想は、経験によって作られる、と言いました。そもそも、経験していないことは、夢に見ることも無いのです。だから、ニワトリは、日光を浴びながら羽ばたくことを夢見ない、見れないのです。我々だって、経験していないことは、夢にも見れないのです。想像も出来ないのです。「ゲージ」とか「人工飼料」という経験を材料に、夢見ることしか出来ないのです。ということで、ゲージ飼いのニワトリに投票権があれば、多数決によりゲージは少し広くなり、人工飼料は上等なものになりました。民主主義により、ニワトリは自由を勝ち取ったのです。

さて。僕は山奥に住んでいますので、ある意味、無責任に、岡目八目で世の中を眺めているところがあります。で、教育制度を改革しようとか、子育て支援をとか、シングルマザーの支援をとか、そういう言説に意味がないとは言いませんが、それってせいぜい、ゲージの幅を2センチ広くしたいという希望と似ているな、と感じています。

僕は、自分でそれを目指していたわけでは無いのですが、いろいろな偶然が重なって、たまたま、養鶏場のゲージからこぼれ落ちて、ウロウロしていたら、養鶏場の壁の穴を見つけて、外に出て、何となく虫や草をついばんでいる、そんな生き方だと思っています。かといって、野生になっているわけでもないのですけど。養鶏場の裏手に、人工飼料がこぼれ落ちているところがあるので、それをついばんで、養鶏場というシステムのおこぼれをいただいているという感じです。主観的には。

でも、外の世界を覗き見ているとも思っているので、自分は体験したことないのですが、野生で生きるニワトリの生活も、何となくですが想像できます。それを夢見れるぐらいの「経験」があると、思っています。でも、夢に見るだけで、そのような生活は未経験です。それは恐ろしくもあるのですが、一方で、幸せな生活だろうとも思います。ヒトで言えば、それは10万年前の生活であり、100人の見知った人と、自我を一体化させて生涯を終えたことであり、そのころのヒトたちは死ぬことすら怖くなかったのだろうなとも思います。もちろん、体験していないので、思うとしか言えないんですけど。

かといって、この資本主義や民主主義の世界をぶっ壊して野生に戻ろう、って話もでありません。それは無理なので。でも、養鶏場の中で「生産性」という物差しで卵を産み続けるのも、ニワトリ的にきついので、それよりは平飼いの小屋を建ててそこに引っ越そうや、ぐらいのことを思います。卵の生産量は減るだろうけど、そのほうが楽じゃないか、と思うので。

それは、虫や草をついばめというのではなく、科学技術の発達は享受したい。人工飼料も、良いものです。飢餓はほぼ撲滅されています。ただ、世界の物差しを「強さ(生産性)」ではなく、「幸福」にシフトして行った方が幸せになる、我々の毛並みも良くなる、そう思っているのです。また、これからは「強さ(生産性)」を求めなくても良い、求め続けたら自滅もあり得る、と思っていますので。ま、野生まではいかなくても、平飼い(生産性はゲージ飼いより低い)ぐらいにシフトしたほうがいいんじゃないかと思っています。

幸福の根幹にあるのは、DNAの充足です。ヒトは10万年前のDNAを、いまだに背負っていますので、それは前提条件として踏まえた方が幸せになります。DNAの想定は何度も言うように、個人ではなく、100人ぐらいの集団が1単位であるような世界です。我々の衝動や欲望や特性という状況証拠から考えるに、ヒトはそういう生き物だ、と思うのです

ヒトは残念ながら、10万年前のように、想定通りの環境の中で充足しながら、思うがままに生きていくことは、もうできません。人工環境の中で、家畜化されるしかありません。ていうか、もう1万年ぐらい、自らを家畜化しているのですけれども。我々は、自分で自分を「飼う」しか無いのです。ですから、これからは、ヒトが幸せになるように、上手に「飼う」ことを目指したら良いと思っているのです。

生産性を競う時代、強さの時代は、農業の発明以降、1万年以上続いてきましたが、そろそろ、地球環境の限界、軍事力の増大で、限界が見えてきました。ピンチでもありますが、この軽い地獄を終わらせるチャンスでもあります。ま、そんなことを、養鶏場の穴の外を覗きながら夢想しています。と、まぁよく最後まで読んでくれましたね。ありがとうございました。ではまた。


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