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文明の本質は、自然や人間のランダム性を下げることにある

 台風の影響で、朝から雨がすごい。今日は久しぶりに1日、家にいて、溜まった事務仕事とか片付けようと思いますが。草刈りだとか、木を切ったりとか、当たり前ですけどそういう作業は天気によって予定が左右されます。で、天気というのは、予定通りにいくというわけには、いかない。

 相変わらず本質的な話をすると、自然のランダム性と、人間の脳内の規則性という習性の、齟齬が生まれるということです。自然ってのは、ランダムです。台風も地震もあるし、火山が噴火したりもする。そして、人間の体も自然です。病気も自然です。

 自然だから良いということではなくて、僕の言う「自然」の定義は、人間が計画していないもの、です。なので、コロナは自然。ラーメン屋の厨房のゴキブリも自然。一方、並木道の街路樹は自然では無い。人が植えたものですから。

 で、人間自身も自然なんです。子供だって、どういう子供が生まれてくるかなんて、分からない。自分自身も、自分がデザインしたわけではない。気づいたら、この世にいたわけです。さて、人間も自然の生き物ですから、体調が良い時も、悪い時も、ランダムにある。女性だったら、生理もあるしこの傾向が男性より強い。妊娠出産もあるし。で、文明の発達の過程というのは、いかに、自然のランダム性を排除していくか、という歴史とも言えます。

 なぜそういう、文明の進化圧がかかったかというと、これは単純に「人間が多い方が強い」という法則だと思います。戦った時に、100人と1万人なら、1万人の方が強い。だから、集団はどんどん大きくなっていく。

 集団が大きくなると、統制する必要が出てくる。統制には、法則が必要。なので、計画や予定というものが生まれる。それは、人間の脳で考えた規則なので、ランダム性をなるたけ排除したい。文明の発達、つまり集団人数の拡大のためには、いかに自然のランダム性を排除していくか、という問題がつきまとうのです。

 例えば、なんらかの役職を作れば、人間の寿命というランダム性を排除できます。職業が、そうやって生まれます。人間は千差万別で、しかも数十年で死んでしまう。そのランダム性を排除するために、職業を作り、技術を伝達すれば、とある「仕事」をする人が何百年と存続することになる。

 とある職人のAさんは、せいぜい30年ぐらいしか働くことができなくても、とある工房の職人技術は何百年も続く。ま、日本の職人でも、何代目〇〇みたいなのは、ありますよね。個人の寿命というランダム性を、システムとして補っているわけです。

 天皇陛下も、個人としてはせいぜい90年ぐらいしか生きないけれども、天皇制は1000年以上は続いている。120年前の日本人と、現代の日本人は、全員違う人なんだけど、日本という国は続いている。そういうように、集団のシステムによって、寿命のランダム性を排除していきます。

 都市を作るのも、そうです。天候や季節というランダム性を、できるだけ排除した空間を作る。農業も、計画通りにやる。品種改良して、より、計画通りに育ち収穫できる品種を作る。時間を守り、予定通りに動くような社会を作る。数十年後の年金の支払いも計画するわけです。そうやって、予定通りに事が進むように文明は働いている。

 ちなみに、人間集団は普通、計画を最も「偉い」と思います。そもそも、脳が考えているんだから、脳の機能に近い、計画性であり、自然を排除した役割を担う人を、偉いと思うようになっている。思うのは、脳だからです。脳は、脳のことを一番偉いと思う。

 だから日本の省庁でも、農林水産省とか環境省というのは地位が低い。厚生労働省も低い。自然(病気も自然)を扱うものだからです。で、最も自然ではない、財務省が一番強い。お金は、自然ではなく、脳が生み出した概念ですから。脳が考えるから、大体、そういうことになります。

 ただ、何事も予定通りに行かないというのは、歴史を見れば分かります。何千年も存続している文明は無い。エジプト文明も、ギリシャ文明も、ローマ文明も、中国の歴代王朝も滅びていった。今はアメリカ帝国時代、パクス・アメリカーナですが、それだって数百年はもたないでしょう。っていうか、生きている数十年のうちに、滅びも見れるんじゃないかと思っていますけど。

 文明が滅びてしまうのは、ランダム性に対処する柔軟性を失っていくからだ、と思います。自然はランダム。人間もランダム。何が起こるか分からない。でも人間は頭で、計画をたてて、規則を決めて、物事に対応しようとする。そして集団が大きくなればなるほど、指揮系統が長くなり、末端の情報が中央に行き届かない。

 中央の人間も、全ての情報を処理するのは不可能です。前に「データ」の話をしたけど、データを理解するのも人間なのだから、薄い理解にとどまるしか無いんです。個人としての人間の情報処理能力には限界がありますから。

 末端というのは、自然と接しているところです。僕なんかも、日本社会の末端に位置していると思います。自然との境に住んでいますから。そういうところの情報というのは、届かない。霞ヶ関で寝泊まりしている役人は、ひょっとしたら、外で台風が起きていても気づかないかもしれない。すると、自然と計画との齟齬が生まれる。

 人間という「自然」もそうです。文明は、人間のランダム性を嫌う。想定から外れるような人間を、どうにか排除して行きたい。だから子供は保育園に入れる。学校に入れる。子供はランダム性が強いからです。そして、教育して、ランダム性を下げる。

 いつまでもランダム性が下がらない人間は、ADHDとか精神病とか名前をつけて、どこかに閉じ込めたりする。社会をうろつかれるよりも、金をやるからどっかの作業所でパンでも作ってろ、という対処法になっています。ランダム性の高い人間が社会に参加する方が損なんです。

 犯罪者もそうです。法律という規則を守れない、ランダム性の高い人間となる。認知症もそう。だから老人ホームに入れます。ということで、子供、障害者、ADHD、田舎者、認知症、などなどのランダム性の高い人間を、排除した社会を作っていく。でも、これらの人間も人間ですから、あまり排除してしまい、そっちが多数派になると、社会が成り立たなくなる。その齟齬が大きくなりすぎると、革命が起こる。そして文明がリセットされる。

 まとめると、文明は発達するにつれて、計画通り、ランダム性を排除した社会を作っていきます。それが進んでいくと、その計画どおりには行かない「自然」が増える。これは天候や災害などの自然もそうだし、人間自身もそうです。

 排除された人間にもストレスが溜まる。それらの人間のストレスが爆発したのが革命。それで社会が変わることもある。また、天候や災害に対応できなくて滅びる場合もある。そして滅びては、また群れていき、社会が大きくなっていき、新たな規則が生まれていく。ということの繰り返しです。

 じゃあ、社会から離れて、個人でランダム性の高い世界に対応していこう、と思うかもしれませんが、これはこれで大変なんです。

 「自給自足」を、僕は勧めませんが。人間が1人とか、家族の数人だけとかでは、あまりにリソースが小さいし、人間は個人のランダム性が高いから、得意不得意もある。「なんでも出来ます」という人は、ほとんどいない。だから、自給自足はきついんです。補い合った方が楽です。1人では、自然界のランダム性に対処できません。

 人間は少なすぎると、自然界というランダム性を排除できない。一方で多すぎると、人間自身というランダム性に対応できなくなってくる。そこのバランスです。僕は100人という単位が基本だと思っています。

 その単位は、人間がお互いを理解できるので、人間自身のランダム性を排除できる。100人集団では「30代男性」という人間は存在せず、個人として理解できます。子供も認知症もADHDも受け止められます。100人というのは、個人を理解できる小ささだから。というか、個人を理解できる最大の大きさが100人です。

 という100人集団で人間のランダム性を担保してやり、その一方で、大きな社会的枠組みで自然のランダム性を排除していく。

 国という集団や、もっと大きく言えば世界政府が樹立されたとしたら、その最大の役割は、外部のランダム性を下げるということです。国だったら、外部のランダム性、つまり戦争を仕掛けられたりしないように、軍隊を作って平和(非ランダムな世界)を守るとか。そういう役割です。エネルギー供給をきちんと行い、国内のランダム性を下げる。食料やエネルギーの安定供給。そういう役割を担うわけです。

 世界政府であれば、直径10キロの隕石が地球に向かってくるという「自然のランダム性」が発生した時に、どう対処するか。そういうレベルのことは、100人集団で対処できるわけないので、集団が大きければ大きいほど、外部の自然のランダム性を下げられる。

 でも、そのためには、意思伝達がうまくいかないといけない。末端の、自然界との境に位置する人間の情報を、どう中央にスムーズに伝えられるかという問題です。それが滞ると、自然界のランダム性、災害に対応できず、滅びることになります。

 前に紹介したか忘れたけど、ネットフリックスで見た、ディカプリオ主演の「Don't look up」という映画は、そういう話でした。隕石が地球に向かってくるけど、それに対応できない社会の話。コメディ風味で、面白かったです。あ、あと最近、これもネットフリックスで「マニフェスト」という連ドラを見ているけど、これも面白い。ま、そんな感じです。またあした。

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