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保育園バスの事故の文化的な背景

 保育園児がバスの中で死んだニュースで、それに関連して、アメリカのスクールバスでは子供が取り残されないような仕組みがある、というネットニュースがあって。

 その仕組みは、運転手がバスを停めてエンジンを切ると、アラームが鳴るんですって。で、そのアラームをOFFにするスイッチは、最後尾にある。だから、運転手はアラームを消すために、最後尾まで歩かなくてはいけない。歩く途中で、子供がいたら気づくわけです。こういう「仕組み」を作るのって、アメリカは上手いですよね。

 また別の話で、とあるタンクに水がちゃんと入っているかをチェックする場合、日本は「水量が適切かどうかチェックする」と、なるんです。

 でもアメリカの場合は細かくて、適切な位置の上下に、線が引いてある。下が赤い線、上が青い線。で「水が赤い線より上にある」をチェックする。「水が青い線より下にある」をチェックする。言葉を選ばずに言えば、バカでも通用する仕組みを作っているんです。「水量が適切かどうか」も分からないであろう人がいることを前提としている仕組みです。


 そこの違いを文化的に掘り下げると、アメリカってのは移民の国です。言葉も通じない、そもそもの考えが違う、という人も多い。そういう人を「きちんと動かす」ためには、どうしたら良いか。言葉で「きちんとやれ」と言っても、あまり意味が無い。そもそも「きちんと」というのも、人それぞれ違うわけですから。ですから「心」を動かそうとするのではなく、物理的に、そう行動せざるを得ない状態にする。

 もっと根本を言えば、これは家畜飼育の思想だと思うんです。西洋文化のベースにある聖書も「羊と羊飼い」という喩えが無数に出てくるように、いかに羊という家畜を管理するか、というのが文化の根底にあると思います。羊を相手に「これをやれ」と言っても、意味が無い。羊が動くためには、どうしたら良いか、どういう仕組みにするか。それが「羊飼い」の仕事です。それは、そのまま、管理者と労働者という現代の仕組みにも引き継がれています。

 労働者のミスが起こった場合、責任は管理者にある。羊が市民を怪我させてしまったら、羊飼いの責任でしょう。そういうことなんですよ。羊に責任は無いんです。

 でも、日本は家畜文化はベースには無い。これは、国土が山がちであり、遊牧に向いていない、ということもあります。雨も多いから、ヤギや羊の飼育にも向いていない。それよりは、米を作ったほうが良いという、国土条件がありますが、ともかく、家畜文化は日本では流行らなかった。

 稲作の働き方は、管理者がいないんです。一人一人が「きちんと頑張る」ことが必要なんです。ですから今回の保育園の事故においても、理事長(運転手)が何をしていたんだ、ということで終わるんでしょうが、根本的な解決をしようと思えば「仕組み」を変えることです。人間の努力には限界があるし、完全なものではありません。人間はミスをするし、どうしようもない、という前提に立った仕組みづくりが必要です。


 もっとも、僕がいつも言っている「100人ぐらいの集団」なら、それは必要無いんですよ。なぜなら、100人ぐらいなら、お互いに、あいつはこういうやつだ、というのが理解できますから。その場合は、ケースバイケースで対応するんです。それぞれの対応で、どうにかなる範囲なんです。っていうか、それが日本の伝統的な「村社会」の問題解決です。でも、日本文化のミスは、100人の村社会の解決方法を、1億人の集団にも取り入れてしまっていることです。

 現代日本というのは、個人が1億、集まっているようなものであり、村社会はほとんど存在しません。人間関係が無ければ、その「個人」の行動が分かる人もいない。そういう社会だったら「人間はミスをする」という、家畜文化のような、それこそアメリカ的な「仕組み」を作らないといけない。文化を変えないといけないんです。

 で、文化を変えたくないならば、集団形成のサイズを変えないといけない。日本文化は村社会がベースなのだから、個人や国ではなく、村社会的な集団を作らないといけないんです。

 僕は「文化」を変えるのは、すごく大変だと思っていて、それよりは集団サイズを変える方が簡単だと思っています。文化というのは、言語にもつながっていますから。文化を変えるには、みんなが日本語を捨てて英語を喋るぐらいの変化が必要だと思っています。

 それは難しいし、嫌だから、社会のベースとして、村社会的な集団を作り、そこでケアできるものはケアした方が良い。でも一方で、江戸時代に戻るわけにはいかないのだから、1億人集団は続けたほうが良い。そして、1億人に携わる人には、アメリカ的な仕組みを取り入れた方が良い。

 公務員とかの、全体に関わる人ですね。そういう人たちは「1億人」のために働くのだから、その仕組みを作った方が良い。繰り返すけど、日本の「頑張る」は村社会の文化なんですよ。100人集団での最適解が出るような行動形式なんです。公務員がそれをやると「省益」になるんです。

 日本人的に、良いことをしようと思うと、公務員的な「1億人のために」は無理なんです。だから、それを「心(日本人の善)」で解決するのではなく、アメリカのスクールバスのアラームのような「仕組み」で、そうせざるを得ないようなものを作らないといけない、と思います。もしくは、戦時中のように、全体主義的な価値観を植え付けるか。ま、それは失敗して、懲りているわけで。そうじゃない仕組みの方が良いと思います。

 今回の事故も、悲しい事故だけど、起こってしまって、それがこれだけ話題を呼んでいるのだから、せっかくだったら「仕組み」を変えるような方向に行けばいいなと思いますが。いつも通りの「伝統的な日本文化」ならば、これも、保育園の責任を追求して、二度とこのようなことが起こらないように皆さん気をつけましょう、で、涙を流して終わるのかなぁ。それで終えると、また起こっちゃうと思いますけどね。はい。またあした。

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