苦労しなきゃ価値が無い、とかいう幻想

 人間って、良くも悪くも習性の動物だと思うんです。とある行動パターンを続けていたら、それが当然のことになる。で、現代日本人は物心ついたころから学校に行き、卒業したら就職して働き、というのがほとんどでしょう。で、そこで植え付けられる一番の習性は「苦労」じゃないか、と思うんです。

 嫌なことがあっても我慢する。ま、そのぐらいなら、そりゃ社会生活の中で多少は必要かなと思わなくもないのですが。これが「苦労しなきゃ価値が無い」とまで、行っていると思う。辛くなければ仕事じゃない、とか、そういう言い回しのことって山ほどあると思うんです。

 これの何が良くないかというと、楽にできる道があったとしても、それは、今までの習性からして「良くないこと」になってしまう。だから、その「楽な道」を行けないのではないか。


 僕も、一応、学校に行っていましたし、就職はしたこと無いんだけど、現代日本人の一人として、その感覚はよく分かる。例えば、自分が何かを作るとして「苦労して作ったもの」は、価値があると思う。一方で「楽に作ったもの」は、価値が無いと思う。そう、思ってしまう。そういうふうに、子供の頃から植え付けられているんだと思います。条件反射的に、楽して作ったものには価値が無い、と思う。

 でも冷静に考えれば、そんなことはありません。というか、その「モノ」に価値があるかどうかなんて、受け取る側でも意見が分かれます。そのモノが良いと思う人もいれば、悪いと思う人もいる。で、そのモノにかけられた苦労や時間は、それを知れば日本人は「価値がある」と思うかもしれませんが、知らなきゃ、分かりません。

 むしろ、モノ(やサービス)の価値に「苦労」が関係無いどころか、足を引っ張っているのではないか、とも思う。

 苦労して作ったものは、そんなに出来が良くない。楽して作ったものは、出来が良い。なぜなら、楽して出来るということは、才能があるということです。

 絵を描くとしましょう。絵の上手い人は、楽に描けます。絵が下手な人は、苦労して描きます。で、出来上がった絵は、どちらが良いモノですか? 絵の上手い人の方でしょう。楽して出来るものは、才能があるということだから、価値がある確率が高い。

 あくまで「確率」ですよ。ただ、楽に出来て、その出来が良ければ、褒められる。だから、何回も繰り返す。もっと楽に出来るようになる。そういうモノが、本当は最も価値があるのだと思う。

 「楽しく働く」という働き方が、どのくらい一般的になっているか知りませんが(就職したこと無いし)、少なくとも、自己啓発本でそういう文言が普通に見られる程度には、一般的になってきていると思います。ただ、おそらく、現代日本の大半の働き方は「苦労する」ことに価値があると思っていて、そして、だからこそ生産性が低いのかもしれない。


 自戒を込めて書いているんですが、僕も「苦労することで、価値を生み出す」という幻想に、かなり浸かってしまっている。楽しくすることは、遊びであり、働くことでは無い、良くないことだと思っている。

 でも、そんなことないんですよ。考えれば、そんなこと無い。楽しくやれるということは、才能なんです。楽に出来るということは、他の人より得意であり、ならばそれをやって、やりたくないことは、やらない方が良い。下手な自己啓発本のような結論だけど、本当にそうだと思います。


 ただ、それには条件があって「集団」なんです。結局、いつもの集団論ですが、1人でやるとなると、全てに関わらないといけない。だから、苦手なこともしないといけない。それが「集団」なら、人に任せられる。人とコミュニケーションをとるのが苦手なら、集団の誰かに任せれば良い。

 そして、自分が「楽なこと」を見つけるには、どうしたら良いか。経験するしかないんです。僕は、今、自分が得意だなと思っているのは、人と話すこと(特に1対1)とか、こうやって文章を書くこと、物事を抽象的に考えること、とかなんですが、これらも、それが得意だなと思ったのなんて、ここ2〜3年ぐらいのことですから。四十になって初めてですよ。周りの人と比べた時に、得意だし、人が苦労していることが楽に出来るかな、と思ったりする。

 てか、この文章も20分ぐらいで書いているので。別に頼まれもしないのに。楽で、楽しいですから、書いているんですが。得意なんだと思います。で、自分がそういうことを出来る時間を増やせるように、そんなに得意では無い、ヤギの世話とか家事とかを誰かに頼めるように、集団を作ろうということです。自分が幸せになるためなんですけどね。でも、それは周りの人も幸せにならないと無理だから、ま、人のためになるだろうと思ってやっています。またあした。

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