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なぜ学校に行かなくてはならないのか

 昨日、教育のコストについて書きましたが。教育というのは本来、その受益者が供給するものです。要は、教育を子供が受けるのであれば、その子供が教育を受けたことによって技術を習得する、そのことで利益を受ける人が、子供の教育にかかる費用を負担するということです。例えば農家であれば、親が子供に農業のやり方を教える。なぜ教えるかというと、子供が農業技術を身につければ、それが家のためになるから、教えるわけです。子供が手伝ってくれたら、自分も楽になるわけですから。

 という理屈で言えば、近代の学校のコストを負担しているのは国ですから、なので教育は、国のためになる人を育てることを、目的にしているわけです。ですから、愛国教育をしたり、国の生産力を高める労働者を作るための教育になるのは当然です。で、そのような「国民」、国民というのは国のためになる人ということですが、教育を受けた国民は国のために働くわけで、国がそのリターンを返してくれるのであれば、お互いに仲良くやれるわけです。高福祉ならば税金を払う、ってことです。

 でも現代日本はご存知のように、そうでは無いわけです。そのような社会の中で、教育のコストは高くなっている。でもリターンが非常に低いんですよ。学校に行っても意味が無い、となるわけです。で、現状で学校に行きたくないとなっても、その代替が無い。学校に行かないけど、家で働けるわけでもない。そもそも働くというのは、ほぼイコール、会社勤めをするということであり、子供は会社に勤められませんから。自営業で家を手伝えるとかなら教えられもしますが、そういう大人も少ない。そもそも、我々は子供を教育できなくなっているのです。

 よくある「なぜ学校に行かなきゃいけないの」という質問への回答は、国が国民という共同体メンバーを生産するための事業だから、行かなくてはならない、ってことです。当然、その過程において脱落する人もいる。それは共同体メンバーとして認められなかった、ということです。ただ、本当に「国」という幻想が強くって、多くの人が納得できる程度のリターンがあるのであれば、きつい学校教育も合意の元に成り立つんですが、そうじゃ無いでしょう。

 国民国家、そして民主主義という物語の中で、教育というのは根幹事業です。そして、民主主義は常に批判されてアップデートされないといけないんですが、それが実現するには、それを良しとする権力じゃないといけない。でも、普通、権力は永続したい。権力に限らずですが、生存本能のようなものでしょう。わざわざ、自分が危険に晒されるようにしない。すると、教育が国家事業である限り、民主主義はうまく働かないのではないか、と思う。ある程度、教育というのは独立したものでなくては、ならないんです。

 ま、でもこんな話も、あくまで、国民国家と民主主義という物語が続いていくのであれば、という前提のもとで、です。僕は、未来はそうならないべきだと思っているので、教育も、大半の教育は、職業教育のような、もっと小規模のものが良いと思っています。平たく言えば、二次関数よりも、床板の張り方を覚えた方が人生が豊かになる、と思っています。その土地と暮らしに合わせたローカルな技術の教育の方が、トータルの幸福になると思っています。

 一応、言っておくと、大半の人には必要無いだけで、二次関数も複素数も必要ですよ。科挙みたいな、実生活に役に立たない暗記テストなんてものは、多くの人に必要無いというだけのことです。例えば、中学校の1年間、家でガッツリ、家事とか買い物とか車の手入れとか、生活に必要なことをみっちり教えられたら、どれだけ生活が豊かになるか。そう思うわけです。またあした。

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