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お金を使う量を減らすと、世の中は多少は良くなる

 お金を使うということは、誰かに頼む、ということなんです。

 普通、自立するっていうことは、就職して実家を離れて一人暮らしして、ということと捉えられますが。これは単に定義の問題でして、そういう自立は、本質的には、お金を通して誰かに頼っているというだけで、何も変わっていないんです。

 人のために仕事をして、人に仕事をしてもらって、支え合って生きているということには変わりない。単に、その支え合いを、お金を通して行なっていたら「自立している」と、現代日本では定義されているだけのことです。


 誰かに何かをしてあげる、そして、自分も誰かに助けてもらうという支え合いの中で、お金を使っているだけなんです。

 で、そういう助け合いをするのなら、普通は「良い人」と助け合いたいですよね。どういう人が「良い人」かというのは、人それぞれ違うでしょうから、あなたが思う「良い人」であれば、それでいいんですけど。

 で、お金を使うと、自分が助けている人(サービスを提供している人)、また、助けられている人(お金を使う相手)が、良い人かどうかは分かりません。遠いから、顔が見えないんです。


 例えば、家の中で寝っ転がってゲームばかりしている人を助けてやりたい、とは、普通は思わない。自分が一生懸命に働いているのに、のほほんとしていたら、むかつきます。ちょっとはお皿洗いぐらい手伝えよ、とか言うでしょう。それが「普通」です。

 でも一方で、お金を使うとして、その商品を提供している会社が上場しており、株主の中には不労所得が入ってきてFIREしている人がいる。となると、これは、ただ遊んでいる人を助けるために働いているということになります。払ったお金の幾らかは、株主に還元されるわけですから。


 でも人間は、顔が見えない株主のことなんて気にしません。それより、あそこのコンビニの店員さんは真面目で頑張っているから、あそこで買ってやろう、なんて思うわけです。そうしたところで、その人が忙しくなるだけだし、給料が上がるわけでも無いのに。

 これが「個人商店」なら、成り立つんですよ。その人のためになる。人間は、サプライチェーンに組み込まれたコンビニなんていう巨大システムを理解できるように作られていないんです。だから「良い人」から買おう、なんて思う。意味が無いのに。


 また逆に、自分が何かのサービスを提供している──例えば、パンを売っているとしましょうか。パンを買いにきた人を、あなたは、助けているわけです。でも、その人が「良い人」かどうかなんて、分かりません。

 もしかしたら、パンを買った誰かは、子供の誘拐を計画しているかもしれない。でも、そんなことは分からない。ただ、パンを買うお客さんになるわけです。


 そのような「嫌なやつ」との取引を無くしたい、という運動の一つは、不買運動ですね。その商品自体は良いけれども、企業の姿勢が気に食わないから、あそこの商品を買わないようにしよう、ということです。嫌なやつの世話をしたくない、ってことです。

 でも多くの不買運動が、結局はネットミームの域を出ずに終わってしまうのは、本能的に、感じられないからです。花王の製品を買うのをやめよう、とか思っても、いちいちチェックしたり面倒だし、忘れますよ。みんな忙しいし。ましてやグループ会社とかも把握できないし。

 まして、電通が気に食わないとか思ったら、じゃあ電通が関わっているCMをやっている会社のものを買わないようにしよう、とか言ったら、現実的に無理でしょう。

 市場経済の中に組み込まれて、買わないという、つまり「世話にならない」という選択肢を取れなくなっているのです。これは、都会にいればいるほど、そうです。お金の世界ですから。自分で自分のために生産できませんので。


 さて。なぜ、不労所得やFIREというものが成り立つのか、格差社会が成り立つのか。その原因の一つは、今、説明したように、お金を使うと、嫌なやつの世話をしていることを感じられなくなる、ってことです。

 もし、これが小さな村(共同体)で、遊んで暮らしている奴がいて、そいつが子分にパンを売らせている。一方で、真面目に働いてパンを売っている人がいる。そしたら、普通は、後者の、真面目なパン屋からパンを買うわけです。嫌なやつ(人それぞれ感じ方は違いますが)からパンを買いたくは無い。


 共同体は、メンバーの人格が分かっている範囲です。ただ、これが広がってくると、人間の能力では、そいつがどういうやつかなんていうのは把握できなくなっていく。

 毎度言うように、せいぜい100人ぐらいが限界です。それ以上に取引範囲が広がってくると、市場経済になる。すると、嫌なやつが見つからなくなる。不労所得のお金持ちと、ブラック企業でこき使われる人、という二極化が進んでいく。

 こき使われている人は、不労所得者を支えているんですが、コンビニのチューハイを買うときに、それが相手を支えているなんて夢にも思わない。


 その反動として、ITを利用した情報サービスの中の、信用スコアとか、食べログレビューとか、Facebookの友達の数とかいう信用度、つまり「良い人かどうかの判断基準」というのも生まれてきてはいますが、それらも、そもそもプラットフォーマーが信用できるのか、という問題がある。

 実際、確実に信用できるようなプラットフォーマーは今まで現れていない。なので、またそれに対する反動として、そのレビューが正しいかどうかの、サクラチェッカーのようなサービスも現れる。

 
 また、個人が、この市場経済の中で、全ての関わっている人を把握して、自分の消費行動を決めていく「賢い消費者」になろうとしても、個人が把握できる情報には限界があります。

 一方で、生産者としても、消費者の全てを把握できることも無い。「お客様は神様」のような、変な文化も誕生しているので、生産者はお客さんを選べない。「良い人」とだけ付き合うような賢い消費者になるのは現実的に無理だし、ましてや、「良い人」とだけ付き合う賢い生産者になることは、もっと無理。


 京都の料亭は「一見さんお断り」だそうですが、あれは、生産者として、付き合う人を選ぶシステムだと思います。共同体の名残りです。

 でも、こういうシステムが滅びがちで、価格競争に負けていってしまうのは、結局、他の色々なことで市場経済と付き合わざるを得ないからです。

 京都の料亭だって、そこで働いている人は、普通に服を買う。ガソリンを使う。電気だって原油で作られる。ドバイで遊びまくるオイル長者と、関わっている。そこに吸い上げられる分、価格は高くなる。中国産の服を買えば、一部は中国の軍事費にも転嫁される。


 市場経済に関わると、見えない部分が多くなる。例えばそれは税金であり、利子による不労所得であり、原油のような自然物に価格をつけていることなんですが、それらと関わらざるを得ない。なので、「本来の価格」以上に、価格は高くなる。嫌なことにも付き合わされる。

 で、その市場経済の中で、一見さんお断りのような、共同体的な取引をしようとして、そこに価格をつけると、価格は高くなる。必要以上に、実感以上に、高くなる。なので「これじゃやっていけない」となって、客を選ばない、「常識的」な働き方になっていく。


 これに対する処方箋は何かというと、冒頭でも買いたように、まず、お金を使うということは、人に頼っているということであり、自立でもなんでも無いということです。頼る相手を、家族から、お金を通じた他人にすれば、「自立している」という定義になっているだけです。そこに本質的な違いは、ありません。

 それだったら、無理に「自立」なんていう、効率の悪いことを目指すのはやめるべきです。一人暮らしなんて、しないようにする。群れて、近くの人と頼り頼られて暮らす。これが基本です。


 そして、その共同体を広げるための地域通貨。地域通貨は、物々交換や、共同体内部での取引(お金を使わない)ほどのものではありませんが、それでも、小さいエリアの中の、顔の見える範囲で通用するものです。そのお金を発行している人も把握できるし。

 メルペイとかLINEペイとかは地域通貨、というか、なんというんだろうね、浅く広い地域通過的なものになりつつありますが、メルカリが日本政府より信用できると思うなら、円じゃなくてメルペイで生活すれば良いわけです。取引は成り立って、円の所得は減る。日本に払う税金は減るわけです。

 メルカリに対する手数料は払っているわけですが、円を使っても税金を払うので、同じことです。自分がものを作ってメルカリで売って、そのポイントでものを買って、という経済が回れば、税金としてメルカリ社に入るわけで、その方が良いと思えば、そうすれば良い。

 ま、顔の見えない市場経済からコツコツと離れていくことが、多少は世の中をよくすることにつながると思います。


 もちろん、そうするとGDPは減りますけど、GDPはイコール「豊かさ」ではありません。豊かさは、適切な取引がどれだけ行われているかであり、GDPはその一部を現しているだけです。

 例えば、今、この瞬間にお金が消え去っても、今までどおりの取引を行なっていれば、世の中は変わらないんですよ。でもGDPは0になりますから。そんなものです。問題は、現実の生産であり、現実の取引です。それが、各自が思う「良い人」と行うという精度を上げることが、世の中を良くします。またあした。

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