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自我が想定する環境と、現実の環境のズレ

 昨日、xが環境、yが生産、それを結ぶ関数のf(x)=yにおけるfが行動様式。fは言い換えれば、本能とか文化というものだと言いました。で、生産yの目的は、環境xの安定である。食糧生産するのは、食料が豊かにあるという環境のため。インターネットなどの通信技術を生産するのは、誰かと連絡を取れるとか、知識をすぐに得られるという環境のため。で、生産yが環境xに影響を及ぼし続けて、xは変化するから、同じ生産をするためにもfは変わっていく。という話をしました。

 とすると、生産yの評価というのは、環境xの安定に寄与しているか否か、ということになります。で、この「環境」っていうのも、人それぞれで範囲が違うんです。本能的には、毎度言いますが、個人が覚えられる人間関係というのは100人ぐらいが限度ですから、個人が本能的に理解できる環境というのも100人ぐらいの範囲になります。本能的な衝動、これは「愛」とか「優しさ」とか言ってもいいんですが、それに従うと、身近な100人ぐらいが「環境」になってしまう。

「都会の人が冷たい」理由は、そう考えると当然で、新宿駅とか視界に1000人ぐらい入っていたら、100人以上ですから、倒れている人がいても他人事になります。でも、これが、人間が少ない場所で倒れている人を見たら、大抵の人は、倒れている人を助けます。そこに、自分と倒れている人しかいなければ(周りにあと数人ぐらいいたとしても)、100人の範囲内に入りますから、自分が影響を及ぼす環境の範囲に入るわけです。

 優しいとか、利己的とか、利他的とかいうのは、環境をどの範囲に設定しているかによります。人に優しくして損をするとか、正直者が馬鹿を見るというのは、本能が想定している環境と、現実の環境がズレているからです。本能が想定している環境をベースに、ほとんどの人の「自我」(本能とは微妙に違う)が作られます。

 環境というのは、別の言い方をすれば「自我」です。自分が自分と思っている範囲、とも言えます。話がややこしくなってすいませんけど、自我は「自分が自分だと思っている範囲」です。しかし、この「自分が思っていること」が、本当かどうかというのは、別の話です。自分が思ってもいないことが、自分に影響を及ぼしているかもしれない。

 っていうか、及ぼしています。実際は。ですから「自我」と「環境」は違うんです。本能、自我、環境は全て違う。自我は、本能をベースに、現実環境の影響を受けて作られます。後天的なものです。自我は本能と環境の間にあるけど、本能にすごく寄っている人もいれば、環境にすごく寄っている人もいる。本能に寄っている人は、一般的に言えば、人情味に溢れている、人間的な人、という性格です。対して環境に寄っている人は、冷たいとか、現実的とか言われます。

 自我というのは「自分が、自分に影響を及ぼしていると思っている範囲」であり、環境というのは「自分に、実際に影響を及ぼしている範囲」です。だから、実際の環境に自我が近ければ「現実的」になります。で、この自我と環境は、かぶる部分もあるし、かぶらない部分もある。ただ、一般的には、環境の方が広いです。環境の中に「自我」があります。自分が「影響を及ぼしている」と主観的に思えば、それは物理的な実態が無くても影響を及ぼしますから、自我は環境(影響を及ぼすもの)に含まれます。

 例えば「神」を自我に含めている人がいたら、その神に従って彼は行動するわけで、当然、彼の環境の中に「神」は存在します。というように、神やお金や国家という概念も当然、環境に含まれます。問題は、「環境に含まれているけど、自我に含まれていないもの」です。こいつは、自分は影響を及ぼしていないと思っているけど、実際には影響を及ぼしているもの。でも、自我に含まれていないから、対処していない分野です。

 例えば、それこそ環境問題なんていうのは、その最たるもので、実際は海の汚れも森の荒廃も、他人事ではなく、我々の生活に影響を及ぼしているのですが、そんなことを普段、感じて、自我に含めている人は少ない。含めて実際に行動すれば「意識高い系の環境野郎」ぐらいに思われます。また、他国の戦争とか貧困も、僕は、我々の生活に影響を及ぼすと思っているのですが、そんなことも普通は感じない。

 というように、自我が思う環境xと、実際の環境xはズレます。ですから、人間は「環境の安定」のために生産yをするわけだけど、それがズレていると、自分で自分の首を絞めることになる。じゃあ、どうすればいいかというのは、実際に何が影響を及ぼしているのかという、環境xを探ることです。それが自然科学。データをとり、xをできるだけ詳細に把握しようという活動です。それに対して、どういうyにすればいいのかというのが工学。

 で、人間の行動fを探るのが文系学問です。心理学とか法学とか政治学とか。ということで、それぞれの学問の精度を高くして、f(x)=yのサイクルと出力を高めていくことというのが、文明の進歩です。今日のはちょっとややこしい話で、自分でもうまく説明ができているとは思っていないんだけど。もっとうまい説明ができたら、また話します。またあした。

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