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「民権拡大」で「政権交代」だ!(前編)

野党は現状、バラバラであると言われています。
その結果として、自民党が独走しているとも言われています。
野党に頑張ってほしいという国民は多いものの、野党がその受け皿になり得ず、政権交代が起きないという現実があります。

私は、この現状の打開策を知っています。

まずその前に、わが国の歴史を振り返らなくてはなりません。
歴史と言っても様々ですが、我が国の「民権」の歴史について振り返って参りたいと思います。

「民権」と言われると堅苦しく思われるかもしれませんが、要は、
国民がどれだけ政治に参加をできるのか、という部分です。
この「民権」の拡大に当たっては、わが国では大きく三つの段階を経ていると考えます。

◆その前に


まず日本では、長い間江戸幕府が治世を行っていました。
武士階級が民衆を支配するわけですから、一般庶民には当然、政治に参加できる権利などは存在していませんでした。
これを倒したのが、世にいう「明治維新」となります。
これは大体、150年前のことです。

しかし、明治維新で幕府が倒されたと言っても、政治の本質はさほど変化しませんでした。
徳川の代わりに、それを倒した各藩の有力者が、国を治めるようになったのですが、
結局は、民衆から選ばれた代表ではなく、徳川幕府の打倒に功績のある人々、
いわゆる「元勲」によって国政の舵が取られたのです。

この「元勲」を輩出したのは、
薩摩藩(現在の鹿児島)、長州藩(現在の山口県)、土佐藩(現在の高知県)、肥前藩(現在の佐賀県)でした。
当初は、この四藩の有力者に、バランスよく政治権力が与えられたのですが、その中で様々権力争いが起きます。
これを細かに記述するだけでも記事を一本作れるくらいなので、割愛しますが、
最終的には、薩摩、長州の二藩の有力者が権力闘争に勝利し、土佐、肥前の二藩の有力者は失脚するという形で決着します。

◆第一段階:国会開設運動


上記の権力争いの一旦の決着を以て、日本政治の段階は急変します。
権力争いに敗れた、土佐、肥前の有力者が「政党」を作り、国会開設運動を積極的に起こしたのです。
これは大体、150年前のことです。

歴史の教科書でも読んだ方は少なくないのではないでしょうか。
いわゆる、「自由民権運動」というものです。

当時の日本は、民権と言う点においては江戸時代と大差ありませんでした、
今のような内閣もなく、国会もなく、当然ながら、選挙もありませんでした。
庶民が政治に物申すような仕組みは無かったのです、、

そこで起きたのが国会開設運動。
権力争いに負けた、土佐、肥前の有力者は、地方の地主や、資本家などを支持基盤として、
権力奪回の運動を起こすわけです。これの結果として、国会は開設される運びとなります。

その原動力は、純粋な民権拡大と言うよりは、権力ゲームの敗者復活戦としての意味合いが強かったのです。
しかし結果だけを見れば、日本には国会と内閣が作られるきっかけとはなりました。
これをもって、「民権」は一つ上の段階へと進歩したのです。

◆第二段階:男子普通選挙運動


さて、国会と内閣が作られたから日本の民権は現代並みになったかと言えば、そんなわけはありません。
当時の日本はいわゆる「制限選挙」でした。
制限選挙と言うのは、一定の納税を行っている人物、つまりはお金持ちのみに参政権が与えられるといったものでした。
今現在では、収入に関係なく、決まった年齢になった途端に投票を行うことが可能になりますが、
この当時は、それが当たり前ではなかったのです。

国会開設以来、この納税額は徐々に引き下げられて、どんどん有権者は広がっていったわけですが、
現在の「普通選挙」には程遠いものでした。
そこで起きたのが、「男子普通選挙運動」、いわゆる「第二次憲政擁護運動」というものです。
今から大体、100年前の話です。

この運動が起きた当時の内閣は、いわゆる「超然内閣」と呼ばれるものであり、
政党の政治参加については抑制的な立場でした。

当時はまだ、政党内閣という概念が日本では当たり前ではありませんでした。
これ以前に、平民宰相として有名な原敬が、日本初の本格的政党内閣を形成するものの、
原敬は東京駅で暗殺され、その後に政党内閣がずっと続くということは無く、
海軍出身の人物の内閣であるとか、先述の「超然内閣」であるとかが次々と生まれ、
現在では当たり前の政党内閣制は実現できていませんでした。

この現状を打開せんと、政党は「男子普通選挙」を武器にして戦うことになります。
民権の拡大に抑制的な超然内閣と、民権の拡大に開放的な政党勢力という対立軸がここに出来上がります。
結果として、政党勢力が勝利を収めます。
政党勢力の内訳は、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部といった政党です。
最も議席を取ったのが「憲政会」だったので、憲政会を中心とした、この三党による連立内閣が成立します。
世に言う、「加藤高明内閣(護憲三派内閣)」です。

この内閣の下、男子普通選挙は実現します。
基本的には、年齢を満たした男子全員に投票権が与えられることとなり、現在の普通選挙の骨組みがここに生まれることとなりました。

◆第三段階:女性参政権


さて、男子普通選挙という名の通り、いまだ女性には参政権が与えられていませんでした。
男子普通選挙の成立後にも、女性参政権を求める運動は行われますが、それが実現することは有りませんでした。
また、政党内閣は、加藤内閣以後、8年間継続することとなりますが、軍人によるクーデターや、
軍部の影響力の拡大によって、その継続を終えてしまいます。

これ以後は、軍人による内閣が生まれたり、暗黒時代と言えるものとなります。
政党勢力は力を失い、やがてはすべての政党が解党にまで追い込まれることになります。
いわゆる、大政翼賛会はこのように生まれました。

その後、太平洋戦争によって、わが国は敗北を迎えることになります。
GHQによる戦後統治の始まりです。これが、わが国の民権拡大にとっての好機となります。
今より大体、75年前のことです。

GHQは、軍国主義の反省として、日本を民主化させようとします。
その一環が、「女性参政権」というものです。

先述の通り、当時のわが国には女性参政権がありませんでした。
実施を待たれていた女性参政権が、GHQの手によって推進されることになります。
この結果として、わが国初の女性議員というものが誕生し、女性にも投票権が与えられることとなりました。
これにより、ほぼ現在の形の「普通選挙」が実現することとなったのです。
明治維新から、大体75年後のことでした。

◆そして、現在


さて、こういった歴史を経て、現在の「普通選挙」が作られたわけですが、
今現在の「民権」は最大限にまで拡大されている状態と言えるのでしょうか。
その点については、次回、後編にて説明して参りたいと思います。




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