シンプルなデータで表現出来てしまう人生と、ノイジーな人生と

自分と同い年の高名な投資家の方が亡くなられたそうです。私はその方は全く知らなかったのですが(理由は後述)、ともかくまずは心よりお悔やみ申し上げたいと思います。

その訃報がものすごい勢いで回っていたので、どんな方なのかと少し調べてみたら、それはもう物心がついた時からトップブランドを駆け続けて、ベストセラーを書かれて、さあこれからいよいよ超特大の花を咲かせるという時に・・・・という。

生きてきた境遇が全く違うので、その心中を想像することは私には不可能です。

ただ、その経歴と関連する諸言説を拝見して思ったことを、覚書として書いてみます。

一流のビジネスパーソンとか社会活動・社会起業家と呼ばれる方々が、少なくとも表向きに見せている生き様というのは、より大きなディールの獲得とか、社会的に意義深い活動といった、純度100%の前向きなポジティブ要素の獲得に時間とエナジィを全て注ぎ込んだり、そうかと思えば肉とか酒とかの蕩尽活動に耽溺したりという感じですが、これはほとんど1次元の活動ではないかと私は思っています。

つまり、真っ直ぐ前か、真っ直ぐ後ろの選択。これに「動かない」を加えても前/その場/後の、1軸上の3択です。ほとんどミニ四駆です。

これに「家庭」とか「恋人」とか「趣味」を加えてもせいぜい2軸か3軸で表現出来てしまう。タミヤの電動ラジコンカーと同じくらい。

言い換えると、人生がものすごくシンプルで綺麗なデータになってしまう。世の中の見本とされる、偉い人たちの人生が、ですよ。

でも、そういう綺麗なデータで記述出来てしまう人生を生きる人ばかりというのが、果たして社会のありかたとしても、個人のありかたとしても、問題無いのだろうかということを、ここ最近考えていました。

特に小説を書き始めてからは。

シンプルで綺麗なデータの反対は、ノイズ成分がいっぱい入ったデータということになるのですが、人生におけるノイズというものを、それ自体、肯定的に捉えられないものだろうか。

また、「それが人生に乗ることで、人生が豊かになるノイズ」とは何だろう、と。

例えば、趣味でも振り切ってすごいところまで到達している人たちがいます。それは確かに凄いんですが、データとしては1軸上でパラメータが振り切れているだけですから、とてもシンプルです。仕事や社会貢献活動で振り切っている人とあまり変わりません。

シンプルが悪いと言っているわけではないですよ。断捨離もコンマリも素敵です。極取り人生も格好いいです。

ただ、シンプルなデータの人生というものだけが生き方のお手本で良いのだろうか、という疑問は消えません。

ではノイズとはこの場合なんなのか。on/offの周波数の波形が汚いことなのか。軸が多すぎることなのか。

今考えているのは、グラフそのものが複数枚あるような人生ってどうだろうということです。今日見てきた「仮面ライダージオウ Over Quartzer」で、敵がこんなことを言っていました。

「平成ライダーというのは、設定も世界観もバラバラ過ぎるから、1人に(=仮面ライダージオウに)整理させてもらった」

これに対して主人公が、平成ライダーは一言で語れないから素晴らしいんだと反論する。

ノイズだらけの人生は傍からみると、理解しづらくB級な人にも見えます。というか、きっとB級でしょう。

ですが、ノイジーな生き方というコンセプトには、安易に切り捨てないほうが良さそうな、そんな気配を感じます。

最後に、何故、高名な故人を私が知らなかったのか。調べてみたら、ツイッターのその方のアカウントを私はミュートしていました。きっと、シンプルすぎるところにイラッとしていたんだと思います。決してそういう生き方を否定しているわけではないですが。

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