140字の絶対性

ここ何年か長文を全然書いておらず時たま不安になる。

最近の自分が文字を打ち込む機会といえば、会社員業務内のビジネス文章作成かTwitterぐらいのもんで、まともな文を書いていない。
ビジネス文書はテンプレートこそ正義で基本的にパーソナリティなんかはほぼ必要なく、Twitterはパーソナリティこそあれど140字という絶対的な制限がある。

自身のパーソナルを写した文章と呼べるものを長らく書いていないので、今の僕は文章で自分の気持ちとか表現できるのだろうか?と時たま不安になるのである。

そういったなんか変な焦りから140字のレギュレーションでは表しきれないものを書き記す為にだいぶ前にnoteを開設したんだけど、すっかり放置しておりました。

140字のレギュレーションはそれはそれで良さがあり、定められた枠の中で上手く表現するっつーのも技術で、短歌とかに近いものがあるよね〜と思う訳ですが、一定の所感やら気持ちをざっくばらんに書き記すには140字ではやはり事足りない訳である。混沌を記すには足らん。140字では。


書けない事はないが、何故かTwitterだとウケに走ってしまう。何故なんだろう。混沌を吐き出したい…じゃなく、ウケたい…になってしまう。そもそもなんでウケたいんだろうか。

Twitterも気付けば社会における言論の中心的ツールで、TVですら統計的な要素をTwitterに依存していて日本においてもイーロンマスクよろしく『デジタル世界における街の広場』の様相を呈している感がある。

現実の街の広場同様に、子連れの父母がいたり犬愛好家がいたり老若男女が集う場所となっている訳だが、これまた現実の広場同様半裸のヤツが現れたり凄惨な暴行現場になったり政治団体がバンで乗り付けてイデオロギーについてやかましく喧伝してたりする訳である。

んだけども、その全てが1ツイート140字というルールの枠でやっていて、何人たりともその枠を超越する事はできず、140字っつー絶対的な規律に縛られている。
それを見てるとTwitter界における140字というのは宇宙の法則であり、神の意志ですか?殺人鬼も聖者も凡人も140字ですか?みたいに思うことがあり、なんかウケる。
みんな好きなこと言って自由であるかのようにワイワイやってんのに全員140字の枠の中で踊っている。

そもそもなんで140字なんだろね?
なんかでもパッとみて、パッと消費するにはちょうどいい文字数な気もするね。

とにかく140字の規則決めたヤツは今をときめく言論空間のブラフマンと言える。まだTwitter社に籍はあるのか。ブラフマン。

これだけ社会的価値を持ってるツールの運営会社がめっちゃ赤字っつーのもウケますけども。言論の場っつーのを金銭価値に互換するのは困難なのかな。マネタイズっつーのはどの分野でもむずいんですな。テスラ株売ってまで買ったんだから何かしら勝算があんでしょうな。

時間場所とかの物理条件に制限されないコミュニケーションが人間社会においてこんなに価値を持つとは、って感じですけども。90年代のSF見てても市井のオンラインコミュニケーションが発達して色んな問題になる描写ってそこまでない気がする。
僕らのウォーゲームはあったか。応援メールボムで皮肉にもオメガモンの動き鈍るみたいな。

そんだけ影響力もあるもんだから割と普遍的な社会問題がトレンドになったり、変な陰謀論みたいなん話題に上がるとTwitter疲れた…ちょっと離れます…みたいな人ちらほら見かけるわけですが、やはり人類が出現しねーし継続もしないという考えがあるもんで、この意味わかんねー言論とか諍いが目に飛び込んでくるのも、俺たちが望んだ世界の形だろう…つって逆に意識的に見に行くみたいなとこあります。不毛です。

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