久々に他人が運転している車の後部座席に乗っております。 どうも、ワタクシがTHE林'sの加藤です。THEEE林'sの加藤でもある訳です。 この表記ほんとうにややこしいし、初見のインパクトはあるんだが全てのフライヤーのデザインをダサくしてしまうという負のインパクトも強い。 名前変えたい気持ちもあるが、じゃあ何に変えるんすか?となると特段アイデアもないので、これからも誘ってもらったイベントのフライヤーをダサくし続ける道を行きます。 そして今、僕は一路帯広への道を行っており
蓄膿はだいぶ良くなりにけり。春の匂いも嗅ぐことができる状態になってまいりました。 いかがお過ごしでしょうか。 飯を食べても美味しく頂ける状態になってまいりましたので、ふるさと納税で得た鯛のアラで炊き込みご飯等を作ったりしてみました。 美味しかったは美味しかったけれど、手間かけた割には…という仕上がり。 炊飯器じゃなくて土鍋で炊けばよかったのかね。べちょっとした仕上がりになってしまいました。 手間かけた割に…というのはままある事で、時間かけて作ったものが必ずしも良いも
蓄膿が続いている。 たいていの場合、私の風邪は喉からきて、熱が出て下がっても鼻づまり、たんが、続くという感じなんですが、御多分に漏れず本日も蓄膿が続いております。 蓄膿が続くと何が良くないって飯がマズイ。マズイというか味がほぼしない。 味を感知する機関として代表格に挙げられるのは舌ですが、この状態になって感じるのは嗅覚の重要性です。鼻から抜ける風味みたいなのを通して多くの「味」を知覚していたんだな、と思い知るわけです。失って初めてわかる、というやつです。 味覚において
4月になりました。 2024年4月。こないだ元号が変わったばかりかと思ったら、令和は既に6年目に突入している訳であります。驚いたよ。 札幌もなんだか春の感じはしてきており、路肩にうず高く積まれた雪の壁もだいぶ溶けてまいりました。 凝結した氷の塊に足元のみならず視界まで遮られると、なんだか自分を含めた世界の全てが凍てついているように思われて憂鬱になってしまうので、目の前の雪の壁が溶けると共に冬に蓄えた憂鬱も溶け去る感じのある春の到来は嬉しいもんです。 雪が解けること自体
ここ何年か長文を全然書いておらず時たま不安になる。 最近の自分が文字を打ち込む機会といえば、会社員業務内のビジネス文章作成かTwitterぐらいのもんで、まともな文を書いていない。 ビジネス文書はテンプレートこそ正義で基本的にパーソナリティなんかはほぼ必要なく、Twitterはパーソナリティこそあれど140字という絶対的な制限がある。 自身のパーソナルを写した文章と呼べるものを長らく書いていないので、今の僕は文章で自分の気持ちとか表現できるのだろうか?と時たま不安になるの
昨晩はベッシ―ホールにて、IYP先輩のナイスイベントでした。 トリオプスからマドラスまで皆素晴らしい演奏でありました。 我々林ズも良い演奏ができたかな、と思います。コロナでハコがなくなったりイベント自体が減少するなかでサンクルでばっかライブをしていたので、違うハコでどう鳴らすのか、鳴らせるのかの緊張がありましたが、結果緊張がプラスに転じたかな、という感じ。 ベッシ―でやること自体5年ぶりで、今回セッティングシート事前に出してなくて、ハッチさんにチクりとやられたのもなんか
徒然なるままに日々の雑感をば。 長めの文章書きたいと思って久しい。多分もう5年ぐらい経った。自身の言い憚るべき性質として、やりてぇな…と思ってから取り掛かるのがとにかく遅い点がある。動かざること山の如し。 コンタクトにしてぇな…と高校生の時思って実際買ったのは10年後とかである。鈍牛である。 急を要さないし別になくても困らないからケツに火がつかない訳である。文章書かなくても死なないし、コンタクトにしなくても死なない。 死ぬまでの急要し具合なら流石にやるだろうけども、先
ブログを書かなくなり早5年。じゃきかねぇであろう。 140文字の制約に慣れ、自身の文章表現力もその枠の中でだけ根を生やし、窮屈だったはずのその枠の外での表現を許された途端、地平線も見えない広大な空間に恐怖すら覚えるのであった。 つーか別に140文字の表現しか許されてなかった訳じゃなくね?という。音楽も一緒だが書かないと書けなくなる感じはある。 以前は自分の脳みそからとめどなく流れ出るソレを言葉っつー器で何とかこんとかできるだけ受け止めて、指やらキーボードやらのインターフ