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大人になってからの職歴

18歳から25歳をアメリカで過ごした私。大学院卒業後の自分をを自分の中で親の脛を齧って学校に行っていない、「大人」としています。生活費を自分で支払っていたし、世間一般はこれを大人というのでは…と、ぼんやり思いながら過ごしていました。

アメリカ在住時代もカウントすると、なかなか面白い仕事を次々とやっていました。通訳、教授助手、グラフィック・デザイナー、アーティスト、某乙女ゲーム会社のグローバル・マーケティング、アダルトショップ店員、フェティッシュ・バースタッフ、古書店員、女王様。やっていなくても不思議でないアパレルとライブハウスが入っていないのが自分でも不思議…と、しか言えない。

どのお仕事でも躓いたり、壁にぶつかったり、嫌になったり、サボタージュしたくなったり、ひらめきを受けたり、認めたくはないけれどちょっとした感動を受けたり。「その仕事のバックステージが知りたい!」と(減給を無視して)飛び込んで、情報網を広げ。私が「仕事」を選ぶ理由や志望動機は「興味」や「探究心」が一番強いのかもしれません。いえ、強いと認めずにいられないような気もします。

日本に帰国してからどうしても緊縛やSMの世界に入り込みたい時は言語力を使って仕事を作りました。BDSMのプレイヤーフェティシストさんの通訳をしながらスペースに入ったり。緊縛のプライドベートレッスンの通訳では様々な流派の縛り手さんにお会いする機会を頂きました。

スキルを知識と交換していた日々だと思います。

どこかで私が自信の「女王様」の夢を捨てていなかったこと、それだけが確かなことです。フェティシュ・バーの入店した理由はそこにあるような気がしてなりません。が、しばらくはどこか「女王様」という存在に異常なまでの憧れと敬愛を持っていたせいで、最後の一歩が踏み出せませんでした。「それって風俗嬢になる決心がなかっだけでしょ?」と聞かれればハッキリとそうではないし、むしろセックス・ポジティブな考えを持って育ってきた上に人の言うことをきちんと聞かずに奔放とやってきた私が「風俗嬢=セックス・ワーカー」のレッテルを恐れことはありえないと言っても過言ではありません。むしろ、形態などを関係なく全てのセックス・ワーカーに敬意を感じているのに。

それだから、あの日、身の中にある勇気をすべて振り絞って「SMクラブで働くには…」と声に出して、人の目を見ながら質問した自分は自分でもない感覚がしたのかもしれません。

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