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音楽文 #3 昨日から今日へ、明日もあさっても、未来へ

歌詞についての論考(というのもおこがましいが)第1作を掲載していただきました。
どうして私が歌詞の研究をしたいのかを少々語ります。

なぜ、宮本浩次の書く歌詞はこれほどに響いて聴く人の心を打つのか―。
その理由は共有されていると思っていて。それを上手に文章にできる方もいらっしゃって。読む人に感動・共感してもらえるような熱い素敵な文章を私は書けないけれど、考えることが好きで書くことが好きだから、going my way 独自路線で出来うる限り己の道を明日もあさってもこの世の果てまでも突っ走ってみたいと思うようになりました。今、人生のどのあたり?そう思ったら、やってみないではいられなくなったのです。

そうして、大人の本気で着手した歌詞の研究。
文学として研究をしてみたい。書かれた作品(歌詞)を読み込んで分析することで、作者の魂の変遷を解明していくという手法が好きで(っつうかそれしかできない)、これが得意分野であり武器だと思っていて。この私なりの文学研究の方法論で、宮本浩次とその歌詞世界を探究してみたいと思うのです。

若い頃の歌も現在進行形のソロの歌も、彼が表現しようとしている世界は時空を超えてつながっている。とてつもない凄まじさで透徹している。聴けば聴くほど、読めば読むほど、このカオスは深遠さを増していきます。鳥肌が立って気が遠くなります。ここを潜っていくには、巨視的にアプローチしていくしかない。そう覚悟を決めて、全歌詞を解析することにしたのです。


沼入りに至る過程で出会ったこのフレーズたちに、雷に打たれたような衝撃を受けました。
この世界を理解したい。それが発端でした。

 闘いの神よ 人よ高くあれ
 ( ‟愛すべき今日” )

 敗北と死に至る道が生活ならば、あなたのやさしさをオレは何に例えよう
 ( ‟あなたのやさしさをオレは何に例えよう” )

 幸せと言えば言える 俺たちの憂鬱を
 ( ‟暑中見舞―憂鬱な午後” )

そして

 部屋を飾ろう
 コーヒーを飲もう
 花を飾ってくれよ
 いつもの部屋に
 
( “悲しみの果て” )

この歌が衝撃だったのは、「〜を飾ろう」「〜を飾って」がこの近さで続けて使われていること。おそらく作詞家なら重複を避けて違う言い回しを選ぶでしょう。それをしない、技巧を弄しようともしない率直さに心を鷲掴みされたのです。


 突っ走るぜ 明日も たぶんあさっても
 ( ‟明日に向かって走れ” )

まずは、「明日もあさっても」という表現に惹かれて、「昨日」「今日」「明日」といった日にちに関する表現をピックアップして分析を試みました。



昨日から今日へ、明日もあさっても、未来へ

エレファントカシマシ歌詞考1

(2021年5月19日)


 突っ走るぜ 明日も たぶん あさっても
    ( “明日に向かって走れ” )

 エレファントカシマシの歌は、明日へ、未来へ生きていこうという力強い勇気を与えてくれる。そしてそれは、果てしない大海に漕ぎ出すような未知なる冒険への旅立ちのようでもあり、同時に、一歩一歩を着実に踏みしめながら日々を歩いて行こうという意志でもある。なぜそう感じるのだろう。歌詞に歌われている《昨日》《今日》《明日》を解析することで見えてきたものがある。
 
 やはり「明日」という言葉は頻出していた。一般的に《明日》は、今日以降の広い将来すなわち《未来》の意味合いで使われる場合も多いと思う。だが、エレファントカシマシの歌詞では、明日は明日だ。何を言っているかというと、歌われている「明日」とは、今日の次の日すなわち今日が終わったら来る日、なのだ。


1.明日もあさっても


 心に鮮烈に響くフレーズがある。深追いしてこの文章を書きたくなったきっかけだ。

 突っ走るぜ 明日も たぶん あさっても
   ( “明日に向かって走れ” )

 出かけよう 明日も あさっても
 また出かけよう

   ( “友達がいるのさ” )

 人それぞれのSunset
 人それぞれのMoonlight
 夜が明けて 人それぞれのSunrise
 出会いと別れ繰り返して
 喜びと悲しみのAlright
 明日も明後日も

   ( “絆(きづな)” )

 「明日」が歌詞に出てくるのは、調査した269曲中83曲。その中で「明日」に「あさって」と続くのは上記を含め6曲。歌詞に「あさって」はあまり使われないのではないだろうか。ましてや「明日もあさっても」なんて。だが「明日も」の次に「あさっても」と続くことで、そこに描かれる《明日》は《今日以降の未来》という広い意味でありながら、今日の次には明日という日が来て、その次にはあさってという日が来る、生きている限り続いていく茫洋とした時間の流れが、にわかにすぐ先の手の届く範囲の未来になる。歌われている心の機微が、日々の暮らしの味わいを帯びてリアルな日常性をまとって立ち上がってくる。
 さらに言えば、 ‘突っ走るぜ 明日も たぶん あさっても’ 。ここに「たぶん」と入ることによって、控えめな自信というか自信なさげなやる気というか、若さゆえの投げやり感なのか、大言壮語を回避しようとする押しの弱さなのか、 ‘勇気をなげてくれよ’ (このフレーズも凄い)と歌う若き宮本の瑞々しい等身大の姿が逆照射される。そしてその温度湿度のまま、

 この世の果てまでも 走り続けよう

と続くから度肝を抜かれるのだ。 ‘明日も たぶんあさっても’ 走り続けて行く先は ‘この世の果てまでも’ 。日常の光景に時空を超える言葉を、あるいは逆に壮大なテーマを力強く歌い上げる中に身近な言葉をふと投げ込む。するとどうだろう、荘厳さとリアリティがあり得ない交わり方をする。これは宮本の歌詞世界の魅力のひとつだろう。例えば、 “パワー・イン・ザ・ワールド” 。

 何度目の太陽だ 何度目の月だ
 伊達や酔狂じゃねえ
 パワー・イン・ザ・ワールド
   
 これは冗談じゃねぇ 戦いの歌だ
 枯れ果てた大地の一輪の花

とアグレッシブな世界観をパワフルなロックビートに乗せてたたみかけ、強風が吹きすさぶ最果ての荒野に凛々とひとり立つ魂の決意を響かせておいて、

 ここは一体何処だ?
 21世紀の ここは東京だ

   (中略)
 傷だらけの自由 山手線の中

といきなり日常をぶっこんでくる。そう考えると、あの名曲の歌詞が儚く美しいリアリティを描いてみせるのは、この手法による地平が続いているからだ。

 今日もまたどこへ行く
 愛を探しに行こう

   (中略)
 明日もまたどこへ行く
 愛を探しに行こう
   ( “今宵の月のように” )

ここでも、1番では「今日もまた」、2番では「明日もまた」と綴られる日々の歩みが ‘愛を探しに行こう’ という抒情と交錯し、月の輝きをいっそう際立たせる。


2.俺たちの明日


 「明日」は、デビューアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』から『東京の空』までのいわゆるエピック期ではアルバム7枚で17曲だったのが、ポニーキャニオン期は3枚で17曲と急増する。『ココロに花を』8曲、『明日に向かって走れ―月夜のうた―』4曲、『愛と夢』5曲。EMI期は7枚で14曲だが、ユニバーサル期に至っては6枚で31曲。突出して多いのは『昇れる太陽』8曲、『MASTERPIECE』7曲、『Wake Up』6曲と、現在に近づくにつれて漸増する。
 ちなみに「今日」は269曲中73曲。目を引くのが、『ココロに花を』『明日に向かって走れ ― 月夜の歌』『ライフ』の各4曲、『STARTING OVER』の7曲、『昇れる太陽』の5曲。この5枚のアルバムがいずれもレコード会社移籍後の1枚目と2枚目であることを考えると、未来を見据えつつも、今いるこの場所に足をつけてやっていこうという心意気の表れとも感じられる。
 そして、現在のレコード会社への移籍第1弾シングルというエポックメイキングな楽曲にして、「明日」という言葉でまず思い浮かぶ “俺たちの明日” 。これは実に特異な曲なのだ。

 歌詞と曲タイトル、アルバムタイトルの関係性を見てみよう。アルバムタイトルは6枚目の『奴隷天国』以降、ほとんどが収録曲のタイトルだ。そうではないのは18枚中6枚、『ライフ』『扉』『町を見下ろす丘』『昇れる太陽』『悪魔のささやき~そして心に火を灯す旅~』『MASTERPIECE』だが、いずれも収録曲の歌詞にある象徴的なキーワードがアルバムタイトルになっている。また、曲タイトルもその曲の歌詞から取られていることが多い。
 これらを踏まえて「明日」について見てみると、曲タイトルに入っているのは意外に少なく、269曲中わずか6曲。 “明日があるのさ” “明日に向かって走れ” “明日への記憶” “明日を行け” “ベイベー明日は俺の夢” 、そして “俺たちの明日” 。
 これらの曲では、曲タイトルの言葉がシンボリックに歌われたり、サビで繰り返されたりして( “明日があるのさ” では執拗なほどに)、強烈な印象を残す。だが “俺たちの明日” だけ、歌詞に「俺たちの明日」という言葉は出てこない。しかも「明日」という言葉も出てこない。 ‘今日もどこかで不器用に この日々ときっと戦っていることだろう’ 旧友であるオマエにエールを贈り、そうすることで自身も活力を得ていく俺。毎日毎日を一歩ずつ懸命に生きているから、俺たちの未来ではなく “俺たちの明日” なのだ。

 逆に、日々の連続以上の大きくてあたたかくて希望に満ち溢れた明日は「未来」だ。笑顔の明日へ、ではなく “笑顔の未来へ” というように。

 リッスントゥザミュージック 僕たちの未来
 リッスントゥザミュージック 明日は晴れかい?

   ( “リッスントゥザミュージック” )

‘別れの気配を感じていたのに 明日の約束を今日も重ねていた’ 。この歌で描かれる、一日ずつ紡いでいく未来のなんと切ないことか。
 この頃から「明日」に《今日の次の日》と《未来》の両方の意味合いを持たせ、さらに現在に近づくにつれて、より《未来》を託そうとしているように感じられる。今日から明日へと一足ずつ歩みを積み重ねたその先の、明日以上の明日。《明日》という《未来》を模索する旅が続いていく。


3.明日を行け


 俺の明日はどこだ
 俺の生活はここだ

   ( “何度でも立ち上がれ” )

 俺の明日は何処だろう?
 雨のち晴れ 晴れのち雨

   ( “to you” )

《明日》を探し求める言葉は、微妙に言い回しを違えてさまざまな歌に現れる。そして明日を探しながら一日ずつ生きていく人生は旅、俺たちは旅人、と歌う。

 明日がどうなるなんて
 想像もできないが

   (中略)
 希望を胸につめ込んで
 明日に向かうよ

   (中略)
 ああ 僕ら歩いて行くのだろう また
 誰も知らぬ明日に向かって

   (中略)
 人生はいつでも旅の途中 行こう
 誰も知らぬ明日に向かって

   (中略)
 明日もがんばろうぜ
   ( “旅の途中” )

そう、明日のことは誰にもわからない。生きてきた日々を振り返ると、切なくも懐かしく思い出されて涙もこぼれる。でも、未来は変えられる。どでかい明日へ、とびきりの明日へ、まだ見ぬ明日へ、俺たちは “夢を追う旅人” なのだから 。

 「明日」とは《今日の次の日》であり、《未来》でもある。ダブルミーニングになる転換点、そのキーワードは「遠回り」だ。

 今日を越え明日へ 遠回りでいい
   ( “FLYER” )

だったのが、

 過去を 未来を 自分を 遠回りしてた昨日を越えて
   ( “桜の花、舞い上がる道を” )

となり、

 明日も生きてゆくつもりさ
   (中略)
 遠回りはもうやめた
   ( “Destiny” )

と「昨日」「今日」「明日」という言葉で綾を織りながら変遷していく。これは耳の病を経て老いを意識し始め、残された時間への焦燥感に駆り立てられるようになったのと無関係ではあるまい。NHK「みんなのうた」60周年企画としてリバイバル放送されている “風と共に” 。 ‘今日が緩やかに終わっていく’ ‘さよなら昨日の私’ ‘行き先は自由 私の未来に 幸多かれ’ 。深く沁みるフレーズ。遠回りをやめてストレートに現出する未来への希求は、やがてベクトルから立ち位置へと変わっていく。

 昨日は昨日 明日はそう明日
 毎日新しい

   ( “Baby自転車” )

この歌での立ち位置は、言葉でこそ出てこないが「昨日」と「明日」にはさまれた《今日》。「明日はどこだろう」も「明日に向かって」も「まだ見ぬ明日へ」も、明日を目指すベクトルが成立しているのは《今日》に立っているから。それが、明日という方角へ向かおうとするのではなく、明日という場所そのものに身を置くように変わっていくのだ。 “明日を行け” と。


4.明日を生きるために、今日を歌え


 出かけてゆくぜ 暮らす世間へ
 出かけてゆくぜ 明日の空へ

   ( “赤き空よ!” )

出かけて行く「明日の空」とは、すなわち「暮らす世間」。毎日を生きるその先に、何かが起こるかもしれない。なぜなら、

 革命も瞬間の積み重ね
   ( “so many people” )

だから。夢を追い求めてでっかいことをやるには、

 いつか見た夢を正夢にしよう
 つまり毎日を 行け!

   ( “いつか見た夢を” )

つまり、目指す場所への旅は毎日の生活を生きることであり、

 「どこ行くの?」
 「そんなのわかんない」
 ただ明日があるから歩いてゆくのさ

    ( “約束” )

 さあ行くぜ明日へ 今日の続きの明日へ
    ( “ベイベー明日は俺の夢” )

生きていくとは、一日ずつの繰り返し。今日を生きることが、明日へ、未来へ向かうことなのだ。現時点で最新のアルバム、2018年の『Wake Up』。来し方行く末を気高く歌い上げる “今を歌え” は、 ‘今日という日は 昨日の続きで’ と時の流れの中での歩幅が一日ずつであることを改めて言語化し、 ‘素晴らしい日々が やって来ますように’ と “いつもの顔で” 願いながら ‘オレは今日をゆく オレは今日を生きる さらば昨日の夢’ ( “オレを生きる” )と締めくくる。そして神様に祈るのだ。 ‘明日を歩むから’ ( “神様俺を” )と。


 忘れるだろう 忘れるだろう
 今日一日のできごとなど

   (中略)
 明日は晴れか 雨になるだろうか
 明日こそは町へくりだそうか
 明日になればわかるだろう
 明日もたぶん生きてるだろう

   (中略)
 ああ 今日も夢か幻か
 ああ 夢のちまた

   ( “「序曲」夢のちまた” )

2020年10月4日の日比谷野外大音楽堂、コロナ禍でのコンサートの幕開けに選ばれたこの歌に、静かに通底するメッセージが込められているように感じた。この状況についての言及はまったくない。まるで何事もなかったかのように。にもかかわらず、やはり現実は厳然として目の前に在り、そしてその現在とは過去からの続きとして在り、ここからまた続いていく…、そういうすべてを何も語らずして表現してみせてくれた。要するに、ここまで歩いて来て、そしてこれからも歩いて行くぜ!それが生きているってことだ!と。

 あたり前な物事は、あたり前すぎて敢えて言葉にしないと気づかなかったりする。例えば、今日の次には明日が来て、その次にはあさってが来て、毎日新しい日が来ること。新しい朝には新しい自分を生きられること。その繰り返しが人生だということ。そしてその営みは有限だということ。そういうあたり前のことに気づかせてくれるのがエレファントカシマシの歌なのだ。

「昨日まで」と「この瞬間」とそう「これから」と
   (中略)
昨日今日明日 喜びよオーライ この胸に咲け!
   ( “幸せよ、この指にとまれ” )



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