終わりが来るその日まで
先日、Twitter上でFFさんとやりとりをしていて、ふとひらめいたことがある。
発端は『宮本語録集』所収の桜の花についての言葉。
今更だけどびっくりしてるのは俺の方だぜ。
桜の花は、あんなに見事に咲き誇り、盛りが過ぎると小さな花びらがはらはらと舞い散る。その美しさに、古くから日本人は、形あるものはいずれ滅びるという栄枯盛衰にして諸行無常の儚さを重ねて愛でてきた。ところが、宮本はそれにびっくりした、というのだから。
これについてFFさんは、そもそも「散る」という発想はなかったんじゃないか、だからあの桜の歌は「舞い上がる」なんじゃないか、と解釈されていた。なるほどと考え、そこから広がった考察を記してみたい。
散ることの美しさ、潔さに関連してまず思い起こされるのは “昔の侍”。
いわゆる「命を惜しまず名を惜しめ」という武士道の有終の美。
一見、この思想について歌っているようにも思えるが、桜の花の日本的美意識を解さない宮本のことだ、そう一筋縄じゃいかないかもしれない。
たとえば、こんな解釈はどうだろう。
昔の侍たちは、たとえ若くて希望に満ちた将来のある身だったとしても、主君に殉じて命を断たざるを得ない局面もあったはずだ。そこに無念はなかったか。自分の命を使い尽くしたと思えただろうか。
‘自ら命を断つことで 自らを生かす道を 自ら知ってたという’。
‘自ら’ と三度もたたみかけるのは、「男の生涯にとって、死に様こそが生き様だ。」・・・何とかしてそこへ自らの気持ちを自らもっていって自らを納得させるための、やりきれない苦悩のプロセスなのではないか。
この歌には、そんな彼らの無念を受け継ごうとする若次の決意があるのかもしれない。‘我が姿’ を重ね、‘さらば友よ’ と深い共感をもって彼らに別れを告げ、‘さよならさ 滅びし日本の姿よ’ と自死を強要された時代に訣別し、自らの意志で生きられる今の時代を自らの意志で生きていくのだという決意表明。
そして、それは「死ぬんだったら生きる」「終わりが来るその日まで」という、現在まで通底する普遍にして不変の宮本思想に繋がっている。故に、新春2022でも野音2022でも歌われたのではないだろうか。
このひとは、凡人には到底、思い及ばない視点、巨視的なもののとらえ方をする。
あまりに稀有壮大な大思想、大思潮。
それがすべて繋がっていて、パズルのピースが嵌まっていくように符合する。
手元のピースをいじっていたら、読み解くための2つのキーワードを見つけた。
ひとつは《相反二極の視点》。
《生と死》《太陽と月》《晴れと雨》《快と不快》…。そして時には《悲しみとやさしさ》や《愛と夢》といった一般的には対照でない概念も現れる。(《悲しみとやさしさ》については前に書きました。)
もうひとつが、この《終末からの視点》。
桜の花に当てはめて考えてみる。
日本人は、散り際の美しさに有終の美を重ね、儚さを覚える。
だが、宮本はそうは思わない。
その日本的美意識に抗うかのように
ちなみに宮本は「儚い」は使わない。「果敢ない」と書く。淡く消える「人の夢(にんべんに夢)」ではなく、「果敢(かかん)」に読みを当てた、挑んで敗れるイメージを好んでのことだろうか。
桜は、毎年、季節になると咲く。そして散る。
それは自然の摂理だ。当たり前のことだ。生きていればいつか死ぬのと同じ。
だが、桜は再び咲く。
咲くためには、一旦は散らなければならない。
散らなければ、翌年に咲くことはできない。
命ある限り、その命が尽きるその日まで、
何度でも生まれ変わるし、もう二度と戻れない日々を俺たちは走り続ける。
だから、散る瞬間に儚さや悲哀などの美学を感じるはずがない。
そして「おまえ」というもう一人の自分とともに、再び咲かせて上昇気流に乗って舞い上がる。
そのときに見据える ‘遠くのあの光る星に願いを…’(同)。
このひとは、いつも逆からやって来る。凡人とは逆の発想をする。
終わりから考える。
人生には終わりがあるから、だからその日まで生きる。
人の感情にだって終わりがある。それは恋愛感情にも。
終わりから見ている、と考えるといろいろと納得がいく部分もある。
彼が拠り所とするのは、終わりのないもの。
あるいは、永遠に繰り返されるもの。
太陽が昇る。明日がやって来る。
自分という存在がなくなっても、あるいは世界がなくなっても、太陽は昇るだろうし、明日という日は来るのだろう。
「先を歩いている」「俯瞰して見ている」のと同じその視線で、「逆から見ている」すなわち「終わりから見ている」のではないかと思うのだ。
人生いつか終わりは来る。必ず。絶対にだ。
だから、それまでの時間をどう過ごすか、どう生きるか。
だが、終わりの地点から現在を見ている、
そういう立脚点で生きていたら、そりゃ悲しくもなる。
それでも生きているからには、
と嘆きぼやき、あがきながらも
そう、舞い上がるのだ。桜の花のように。
終わりが来るその日まで、《メビウスの輪》は ‘ぐるぐる地平線’ をまわり続ける。
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