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ピピロッティの眼はわたしの花園    # HER EYE IS MY GARDEN

2021.04.06 tue. - 06.20 sun. ピピロッティ・リスト(1962—)の回顧展「あなたの眼は私の島」YOUR EYE IS MY ISLAND                                                     

今回の展覧会はコロナ禍の影響を受けてピピロッティ自身を含めて来日は不可能となり、設営は精密なフローと設営図のもと、webを通じたやり取りを行い、日本側スタッフで行われた(それらのプロセスは展覧会の公式HPで映像で見ることができる)。また、会期中に緊急事態宣言が発令され、文化庁の要請で4月25日(日)〜5月12日(水)に臨時休館、その後会期が6月20日まで延長された。

まずはこの映像。                         『I’m Not The Girl Who Misses Much』(1986)            >https://www.youtube.com/watch?v=hjvWXiUp1hI&t=6s

靴を脱ぐ前の京都国立近代美術館3階会場入口までの中2階に、小さな画面で展示されている短編のひとつ。アナログ特有のノイズとスピード感などいかにも1980年代を感じさせ、「雑で適当だな」というのが最初の印象だ。だが、わずか5分の作品を2回、3回と見直すと、いや、うまく計算され、編集も適切で余計なリピート、音、効果を入れる事なく、作者の率直な思いが伝わる構成となっていると気がつく。これは、後々の映像を含む作品でも同じく、日常的な感覚を大事に、細部まで精密に計算、どの作品も技術的に吟味され、高いレベルで新しい技術と機材を取り入れて構想されている。広大な彼女のスタジオはチリ一つなく清掃、細かいネジ一つもきちんと整理整頓され、業績良好な工場の趣。明るく気持ちのよい制作デスク風景から彼女の作品の性格を逆にたどれよう。                「Happiness Is a Warm Gun」(music by Lennon/McCartney)の冒頭の一節(She is Not The Girl Who Misses Much)を一部変え(変声に変成して)繰り返し歌い、胸を露わに(※裸は階級のない世界を表している)踊り狂う姿は、超スピードとスロー再生、激しいノイズ編集によって機械化、情報化、産業化される社会の荒廃の中でいたぶられ、混乱と恐怖、怒りで自由が利かないパペットを演じた、実に大胆で不思議なカタルシスを醸す。後年の、より複雑で洗練された作品の芯を貫く姿勢がここに見て取れる。

真面目な本名エリザベートを嫌い、やんちゃな冒険少女「ピピ」と可愛いあだ名「ロッティ」を足してアーティストネームとし、自らを空想的変身と道化化する作風が重なる。感性先行の作風にみえて、実は技術に拘る作家(スイス的?)である。ビデオ黎明期から現在までの飛躍的な技術革新がいかに作品づくりに寄与しているか、今回の回顧展でも力説していた。

1962年にスイスの小さな山村に生まれ、アルプスの少女だったポップ・ミュージック好きな美少女は、最初は女性バンドのメンバーとして活躍し、MTV出現と同時に夢中になる。女性でアーティストでミュージシャン、地球規模で愛と平和を希求するオノ・ヨーコを敬愛し、ジョン・レノンとの共同作業に強く影響され、現代アートの世界に移ってきている。1986年までウィーン応用芸術大学でグラフィックデザイン、写真を学び、その後バーゼル・デザイン学校でビデオを学んでいた時の作品である。ビデオが台頭し、ナム・ジュン・パイが「ビデオ・アート」という新しい表現形式をアートの世界に組み込んで、あっと言わせた時代。どこにいってもすっきりデザインのソニーモニターやデッキ、カメラがあって、日本人としても鼻高々なバブルの時代でもあった。ビデオ・アート、ビデオ・インスタレーションの先駆者の一人としてフェミニズムや身体、エコロジーをテーマに、親近感を大切にしたコケティッシュな表現を得意とする。絵も写真も動きも音楽も詩もレイヤー化して語れるビデオというメディアは、彼女にぴったりだったのだ。

喪服としての黒い服をまとって踊るピピロッティ・リストは.......1980年に殺害されたジョン・レノンへの死を憤り、心の底から悲しんでいる。.......ピピロッティ・リストのアーティストとしての位置、つまりオノとレノンの行為を継承していこうとする、秘めた決意表明といってもいい。       (岡部あおみ『アートと女性と映像』(2003年)pp146-165)

ファッションなど、女性的な世界や女性にとても関心があります。                     強いフェミニストは性に合わない。

>https://www.youtube.com/watch?v=nn0isretmA0&list=PLDxBpUoTmqdl10DYJ3W13sZ5Vt9EnWyB0&index=5
positive exstism

次は代表作『Ever is Over All』(1997年、4:07 、Sound: Anders Guggisberg and Pipilotti Rist)。ヴェネツィア・ビエンナーレ出品作で若手作家優秀賞を受賞し、その後の快進撃のきっかけとなった。1999年の日本でもテーマ展「身体の夢」(京都国立近代美術館、東京都現代美術館)で初公開されている。4台のホームビデオカメラ(一台は車を挟んだ側でワゴンに乗ったピピロッティ)でチューリッヒで撮影、10倍スローにして絵画のイメージで表現、アカペラが印象的な「痛快」さを感じる傑作だ。カメレオン的可変美女なので、最初は彼女自身が出演しているのかと思ったが、出演は彼女の友人と家族。自身を、社会的で身体的な存在として客観性をきちんと担保している。映像をストレートに見て欲しい作品なので細かい説明は控えるが(;詳細は『アートと女性と映像』に詳しい)、数珠繋ぎの車、女性の服装、表情(笑顔がすばらしい!)、持ち物、すれ違う人々(警官、男性、老女)、方向などすべてに意味と存在感があり、破壊的な衝動(=ルールを破ること)が希望に満ちたカタルシスへと昇華し、開放感に満たされる。左が女性の映像、右にトロピカルな花と野外の映像(フランスで撮影、こちらは尺が倍以上ある)が観客を包む様に境界線を曖昧にされてループで被さり、この対比によって、彼女の自然観と社会観が鑑賞者の身体と心に溶け込んでいく様なインスタレーションだ。後年、同じ場所で撮影した彼女の姿が微笑ましい(手に持っているのはちいさなハタキ)。

ピピロッティ4

ピピロッティ5

陽気で人柄の良さそうな、だがスイス人らしい几帳面さも併せ持つピピロッティにとっては「強いフェミニスト」は性にあわず、女性を犠牲者ではなく、弱さや迷いを外に出せる「強い人間」として描くことに注目したい。最初から芸術理論や制作を学んだのではなく、舞台美術を含むデザインや音楽から現代アートに入ってきた背景も影響しているのだろう。優れたパフォーマーであり、持ち前のリズム感と音楽センスで、シュールで複雑な映像やインスタレーションでも、親近感と包容力に満ちたリズムと調和を醸し出す独自の世界がある。

アートに関わるのは、社会を何らかの形で変えていけると思うから。  

次に、彼女の大きな気づきと飛躍のきっかけを見てみよう。    『Remake of the Weekend』(1998年、チューリッヒ・クンストハレ)は、同年にスイス政府の一大イベント「Expo.01」のアート・ディレクターを苦闘の末に退陣した直後の、起死回生とでもいうべき大規模個展であった。アーティスト個人の創作活動を犠牲にしてまで、本領であるポジティブな理想主義を母国の社会的プロジェクトとして実現しようと注力するも、巨大組織の錯綜と停滞に見切りをつけたのだ。当時はアーティストが国策的な大事業を引き受けるなんてもう終わりだね、と意地悪く呟かれていたが、現代アートというエリート主義的世界からの脱却や、アートとは別の世界の人々との活動に注力する方向性を明確にする。疲弊に終わったものの、辞任時に行った提言の影響で問題はかなり改善され、彼女自身もグローバル・コミュニケーションの実現に邁進するなど、大きな知見を得ている。あの、ジャン=リュック・ゴダールの1967年の大問題作「Weekend」に触発された作品というだけに、強靭な精神力としなやかな感性が理解出来る。週末の旅行が諍い、殺人、カニバリズムの血まみれの悪夢に変わり、フランスのブルジョア社会の崩壊を描いた映画から繋がる作品は、広大な空間構成からなる魅惑的な色と巧みな遠近法による映像処理、鮮やかな赤、ピンク、紫、緑の植物系と形態の抽象化された断片がコズミックに展開される世界だ。これまでの感性と技術、経験の集大成的な、チャレンジングなインスタレーションであった。今回の京都での展示スタイルに直結する構造で、「Remake 」は「immersive」(没入)と並んで、今回の展示の秘密のキーワードであろう。コロナ禍の閉ざされた世界と密を避けねばならない空間などを、逆手にとった試みである。映像や家具などのオブジェが鑑賞者(たち)に接続、身体化していく彼女の戦略が、さらにバージョンアップされている。

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京都国立近代美術館会場風景(2021年6月9日)

ごろんと寝そべる見かたは、親密性と解放、没入への誘いであり、家のリビングの見立てである。京都のそれは、むしろ「私の部屋」的な?     2015年のPARASOPHIAの《進化的トレーニング(堀川――不安は消滅する)》は、老朽化で改装直前の無人のアパートの畳部屋という、作品にうってつけの場所を選んだ作品となった。昭和な狭い畳部屋に敷かれたレトロな布団に、極楽浄土を思わせる、浮遊感覚のある幻想的な映像が投影、天井の自然観溢れる映像と対で見る作品だった。畳部屋で立って見るのは実に不自然で、ボランティアスタッフをしていた関係で何度も見た、ごろんと寝転んで。当初は布団と水や西洋人の組み合わせがちょっと違和感あり、誰もこない部屋で繰り返し変化の激しい映像に没入していく.....。人間の9割を形成する水の中で遊泳し続ける私と他者の間に、何か有機的ー地風火水ーなものが感じられ始める。異なる心的状態に移行した、と表現するのだろうか。水もしくは宇宙を漂う感覚と光の反射、押し寄せては消える植物系、宗教観ではない神秘性、生命の境界のない複合的な世界。あれはどこだったのだろう?

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《進化的トレーニング(堀川――不安は消滅する)》2014/2015 「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015」堀川団地会場での展示風景  制作協力:ハウザー&ワース、ルーリング・オーガスティン
http://www.parasophia.jp/archives/

美術館を人々の居間の延長として扱うことは、私の作品のテーマの一つ。 美術館の展示空間はパブリックなスペースだが、それをリビングの延長線上に捉えている。 ーピピロッティ・リスト

広報テーマ写真は≪Open My Glade≫(2000年、NY)からで、超美人の彼女ならではの力技の顔芸(!)が斬新な異色作。京都会場では入ってすぐ正面の広場で展示されている。ここでいきなり、一発お見舞いされるわけだ。ビデオは機械であり技術的な問題もあって現実を映し出すことはできず、畢竟、心の中の世界を映し出すことになる。ガラス(=画面)に顔を押しつけ、外に出ようとしている姿は、ネオンや広告がひしめくタイムズ・スクエアにおいて広告が競い合う状況と、テレビやコンピュータがモニタの中に情報を閉じこめていることを示している。本当はこんな美女!↓

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私とピピロッティとの本格的な出会いは2015年のPARASOPHIA/京都国際現代芸術祭だった。それまでにも作品は目にしていたが、まったく理解せずスルーしていたという無知ぶりを恥じる。PARASOPHIAの広報イメージに彼女の作品が多用されていた理由も、今ならわかる。

オノ・ヨーコへの敬愛から始まって、日本は憧れの国となり、展覧会などで何度も日本に来ている。ヨーロッパの小さな山国からアーキペラゴの海と島の東洋の国に流れ着いた人魚姫の開放感。そして希望。         「ミラクルで繊細、両極端、いつまでたってもわからない」と日本を評する彼女、だがそれは、ピピロッティ、あなたのことですよ!

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注:コレクション展のフルクサス資料、屋外の入り口付近の作品(インスタレーション)も忘れずに!夜はライトアップされています。      《HIP LIGHT》ヒップライト(またはおしりの悟り)

フルクサス


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