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不比等が生きた時代⑦ -不比等の死去とその後の政権-

律令国家の立ち上げに貢献した不比等の生涯は幕を閉じ、その後、朝廷の勢力争いは不比等の子孫たちを中心にして大きく展開していきます。

 律令国家のために生まれた男?

様々な思惑が交錯したであろう日本書紀は、720年に完成されたと言われています。そして同じ年に、藤原不比等も亡くなったそうです。享年62歳。当時としては長寿と言えるかもしれませんが、彼は大宝律令の運用により出てきた課題点を修正する養老律令の編纂を進めており、その施行を待たずして亡くなりますので、そういった意味では未練はあったかもしれません。 

この養老律令はその後棚上げにされ続け、37年後の757年、不比等の孫である藤原仲麻呂によってようやく施行されます。

不比等死後の混乱の奈良政治史

720年から先の朝廷は混乱模様になります。720年代の政権は、スーパーエリート・長屋王をはじめとした皇親たちが主導権を握りますが、不比等の息子たちである四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)もそれぞれ位を高めます。長屋王と藤原四兄弟のライバル関係がある中で、724年に聖武天皇が即位。しかしこの即位の際に、その母親・宮子の扱いをめぐって長屋王と藤原四兄弟は対立関係に至ったとされ(辛巳事件)、最終的には729年に、長屋王は無実の罪を着せられ自害します。
 
730年代は藤原四兄弟が政権を握りますが、天然痘の流行によって737年に四兄弟は全滅。それどころか政権の中枢メンバー10人のうち、生き残ったのは2人だけという非常事態に陥ります。生き残りの1人である橘諸兄(不比等の妻・県犬養橘三千代の息子)が政権を握りますが、彼は遣唐使として帰国した吉備真備や玄昉を登用し、それに不満を持った宇合の子・藤原広嗣が乱を起こすものの平定され、宇合の血筋である藤原式家は大きく後退します。
 
その直後から武智麻呂の子・藤原仲麻呂が台頭してきます。彼は聖武天皇が譲位し孝徳天皇が即位する749年以降に朝廷の実権を握り、762年には太政大臣まで上り詰める絶対的な地位を築きますが、その直後から道鏡に地位を脅かされ、わずか2年後の764年、易姓革命を根拠にクーデターを起こそうとするも失敗し、死亡します。こうして、武智麻呂の血筋である南家も後退します。
 
四男の麻呂の血筋である京家も780年代に失墜し、藤原家は次男・房前の血筋である北家が政権中枢に留まります。そしてこの北家から、平安時代を謳歌する藤原家、つまり私たちが想像する摂関家・藤原氏が輩出されていきます。

律令国家の前提条件が変わる?

こんな感じで、律令国家が安定してからの朝廷内は派閥争いが激化していき、この政局争いは登場人物が次々と入れ替わりながらそのまま平安時代まで持ち越されます。そしてその間に、不比等が設計した律令国家としての理念も体制も、少しずつ崩壊していくことになります。300年後の1000年ごろ、藤原道長の時代には、先祖の不比等が掲げた公地公民制に基づいた合理的な官僚組織構造は跡形もなく消え去り、荘園という私有地が多くの土地を占め、賄賂による人事が横行し、これでもかとばかりの腐敗政治が行われていきます。
 
これを、朝廷や藤原氏を中心とした貴族の怠慢や、日本人の政治音痴・腐敗体質気質みたいな自虐思想などで論じる人もいます。要は「藤原一族が権力欲に取り憑かれて腐っていったからだ」といった感情論や悪役設定で片づけてしまうやり方です。

ただ、そういった属人性や精神性の問題で処理するのは、個人的にはあまりおすすめしません。実際がどうだったかは知りませんが(何度も言いますがそれを探るのはプロの歴史家の仕事)、少なくとも“誰かのせい”で処理してしまったら、そこに学びが生まれません。学びが生まれないということは、新しい何かが生まれないということです。それでは結局、生きることが楽しくなくなると思います。

では、怠慢や政治音痴みたいな切り口以外で、律令国家が崩れていく理由は何なのかということですが…。大きいファクターとしては、律令国家構築時の前提条件が大きく変わっていることがあると思います。

「前提条件って何だっけ」という方は、また①から読み返してくださいというのはあまりに鬼畜なので(そもそも私の話が長いのが原因)。要は、対外的な脅威。具体的には、隋という統一国家の誕生による国際的な緊張状態から、国家を強くしていく必要に迫られたからです。

次回

あとがき
そういえば唐ってこのときどうなっていたのか

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